4-2
春風が吹き、アスファルトに散り積もっていた薄桃色の花弁が、命を吹き返したかのように高く舞い上がった。その光景は、メインストリート石畳に響く雑踏の音を止めさせると、次に舞う花弁の一枚一枚を眼で追わせた。
そうして視線の行く先には、空があった。
空には、静かに揺れる羊雲とその隙間から覗き見えるように青空があり、行き止まりのない空間を連想させる。一瞬、時が止まったかのように静まり、しかし、花弁が地に落ちる頃には何事もなかったかのように雑踏は動き出す。
見上げた空に、人々は何を想うのだろうか。
果たして何かを想っていたのだろうか。
「ぼくは」
見上げた空の青さは、何かに例えようがないほどに淡く澄んだ色をしていた。その空の色は、空色という以外に表現の方法を持っていないのかもしれない。しかしながら、不思議なことに空の色が全て空色というわけではないのだった。
「ぼくは、この空を見る度に」
雲一つない晴天ならば深い青色、燻り続ける曇り空には灰色、日暮れには地平線から茜色、黄色、高い空には藍色、月明かりに守られた夜空は黒色であるが、どうしてかこの空色の空だけは名前を持っていないのだ。
七年前からこの秋の国で画家を目指していたグレイは、名もないこの空のことを春の空と呼んでいた。けれど、この空のことをそう呼ぶのはグレイのみであり、人の数だけ異なる呼び名をこの空は持っている。
「この空を見る度に嫌な気持ちになる」
言ってグレイは、純粋無垢な空を睨みつけた。
春は、芸術の都たる秋の国において最も国内外の出入りが盛んになる季節であり、駅前のメインストリートは人で溢れかえるのだ。雑踏の中へ視線を向けると、そこには一言で言い表せないような複雑な表情が多くあった。
列車を降りて改札を抜けて行く者ならば、不安と希望が混じったような冴えない表情を浮かべ、流れる人の波に従って歩いていく。
列車に乗り込もうと改札を抜けて行く者ならば、何かから解放された気楽さとその一方で、心からは喜べない未練の混じったどこか空っぽな表情を浮かべ、列車の奥へと消えていく。
そんな彼らの数だけ、この空の呼び方があるのだろう。
グレイは、石畳の上に商売道具である画材を並べながらぼんやりとそんなことを考えていた。
毎年、春の空を見る度に考えてしまっている。
自分は自分、人は他人のはずなのに。もう既に画家としての自信は、消え失せてしまっていることを自覚してしまいそうになる。
七年前、才能に対する自信で溢れていた十八歳の頃の自分を思い出してしまう。
あの日と同じ思いで空が見られたなら、どれほど良かっただろう。
だからグレイは、この空が嫌いだった。
「やめだ、やめ。今が稼ぎどきだってのに」
自らの顔を両手で覆い、この間に陰鬱な気持ちは心の奥へと仕舞い込む。次に視界が解放されるとグレイは、客引きの良い笑みを浮かべた。表情は、そのままに道行く人々へ視線を向ける。
あの子たちが良さそうだな、とグレイは、雑踏の中から見るからに格式高そうな洋服を纏った若い二人組の女性を見つけ声を掛ける。
「お嬢さんたち、そこのお綺麗なお嬢さん」
グレイの声に反応したらしい二人組の女性は、首を傾げながら「私?」と自分を指さした「そうそう、綺麗な人なんてお嬢さんたち以外にいないよ」。
愛想よく笑ってグレイは、続ける。
「秋の国には、芸術家を目指してきたの?」
「そうですけど」
「おーじゃあ丁度いい。ぼくはここら辺で似顔絵を描いている画家なんだけど、この国へ来た記念に一枚どうかな? 安くするよ」
二人は迷うように、あるいはどのように断るべきなのかを考えているのか、お互いの様子を窺うように見つめ合っていた。
迷っているのならあと一押しだろう、グレイは、イーゼルの隣に置かれていた鞄から似顔絵の描かれた色紙を取り出し、笑顔と共に彼女たちへ見せる。
それは客引きのために描いたグレイの過去作であり、白黒の油性ペンで描かれた男女が仲良さげに笑っている春にぴったりの優しい情景だった。
「わー上手」
二人は、揃ってそう言うと、再びお互いの様子を窺い「良いよね?」と微笑み合う。
「お願いします」
「ありがとう、お金は描き終わってからでいいよ。必ず満足いくものを描くからね」
そしてグレイは、イーゼルの向こうに二人分の折り畳みチェアを展開し、自分は色紙とペンをもってイーゼルの正面、彼女たちと向き合うように座った。
鉛筆を手に取り、深く息をついてそれから色紙の上に黒鉛を滑らせる。鉛筆は、黒鉛の削れる軽やかな音と共に、ぼんやりとした灰色の線を紙面に残す。見えているものをそのままに、感じる者をそのままに、グレイはラフスケッチを一通り描き終える。
七年も描き続けているだけあって、グレイの技術はそれなりのものだった。素早く的確にラフを取ると、次は黒の油性ペンに持ち替える。
ラフ画をなぞるようにペンを滑らせ、紙面へと静かにインクが染みていく感覚を確かめながら、グレイは二人を描いていく。黒単色により表現されたモノクロの世界だが、そこには、若い乙女の柔らかな髪としっとりとした唇の艶めかしさが存在していた。彼女たちの瞳に宿る輝き、その虹彩が取り込む光の量は、きっとこの世界への希望なのだろう。
そんな瞳をかつては、自分もしていたのだろうか。
そう、グレイは思いながらペンを置いた。
片目を閉じて、イーゼルの向こうにいる彼女たちと自分の描いた彼女たちを見比べる。
「オーケイ」
絵は、何よりも素直だ。
自分の心をありのままに映す、絵は鏡だと言っていい。
輝く瞳を持つ彼女たち、そんな風にぼくは二人を見ている。
羨望の眼差しを向けている。
グレイは、溜息を吐きそうになったが、それを抑えて微笑みを張り付けたまま彼女たちへ色紙を手渡した。
「どうかなお嬢さんたち?」
二人は、嬉しそうに爛々と輝く瞳で絵を眺め、恍惚とした声で「大事にします」と言った。
これがグレイの日常、街を歩く裕福な人を捕まえては小銭を稼ぐ日々である。ターゲットは、金持ちに絞っている。金のある人間は、他人に対して優しい場合が多いからだ。心に余裕が生まれて初めて人は他人に優しくなれる。
これは偏見でも皮肉でもなく事実だろう。
現にグレイの生活は、余裕のある暮らしとは程遠く、常に明日への不安が付きまとっている。そのせいだろう、焦りと苛立ちが、ぼくの世界を苛んでいた。
生活費を稼ぐために殆どの時間を日雇いの仕事に使い、空いた時間を小銭稼ぎの絵描きとして過ごす。何もすることがないときは、部屋で横になって他人を羨む。
横になっている暇があるのなら、外へ描きに行けばいいのにな。
本当に描きたい絵は、似顔絵なんかじゃない。
もっと大きなキャンパスに、気に入った景色を見えるままに描きたい。
けれど金にならない絵には、何の価値もない。対価だけが、価値を証明する。と言うか、そもそもぼくの描く絵に価値なんてあるのだろうか。
才能への疑心暗鬼。
自分で自分の絵を良いとは思えない。
つまりぼくは、自分の世界を美しいと信じられない。
春の温かな陽を煩わしいと感じ、ウグイスの歌声さえ雑音と同然だ。だがどうすれば、自分の見えている世界を美しいと思えるのか。
それは簡単なことだ。
誰かが、自分の作品を評価してくれて初めてぼくは自信を持てる。自分を好きになれる。幼い頃、母親が自分の絵を褒めてくれた日のように。
この気持ちは、およそ秋の国を去った芸術家の殆どが感じていたことだろう。
しかし、それは芸術家にとって致命傷だと言っていい。
本当に芸術を愛しているのなら、そこに他人の評価は必要ない。
それは無償の愛でなくてはならない。
本物は、他人を必要とせず、自分を信じられる理由を必要としない。
世の中の売れない芸術家は、全て偽物だ。
それはぼくも含めて。
「そこのお兄さん、画家のお兄さんですよ。あの私の絵も描いていただきたいのですが」
グレイが石畳へ視線を落とし、自己嫌悪に耽っていると誰かが彼に声を掛けた。視線を上げて、その声の主を向くとそこには少女が立っていた。
ショートカットの亜麻色髪は、くせ毛なのだろうかぼさぼさとしており、こちらを見つめる瞳は透き通るような金糸雀色、輪郭は鈴蘭のように丸く愛らしい、整った顔立ちで微笑んでいる。
陽の光を背に首を傾げ、形の良い唇に称えた笑みは、穏やかな木漏れ日のように眩しい。
ほんの一瞬、天使か何かが現れたのかとグレイは、呆けたように見つめてしまった。
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