3-8

 

――私の幸せは世界の幸せ、私の悲しみは私だけの悲しみだ――アネモネ・ヴァレンタイン。


 アネモネが目を覚ますと、その身体は車椅子を必要としないようになっていた。船内の寝室、ベッドから降り立ち上がる。

 きっとそれは、見様見真似で立ち上がった。

膝から先、視線の先には白く滑らかな義足が、初めからそこにあったように存在していたのである。機械義足、アネモネには本物の人体と見分けがつかないほどに精巧な品。それは身体を取り戻したミアが、一晩かけて彼女にあったものを作り出してくれたものだった。

 たった一晩とは思えない出来事だ。

 しかし、たった一晩で世界が変わった出来事だった。

 迎えた朝は、相変わらず肌寒かったが、窓から漏れる光が、優しい温もりを抱いていた。

 長い間、想像以上の年月だろう。人の出入りがなかったのだろうこの寝室は、埃っぽく、足元を見ると昨日この部屋へ入ったときのミアの足跡が残っていた。

 アネモネは、その足跡に被せるイメージで一歩前へと踏み出し、しかし、歩幅が足りずつまずいて転倒してしまう。両手で受け身をとったものの、重い衝撃が身体の内側へと響いた。

 けれど、それさえも初めての感覚であり、痛みがひくと自然と笑みがこぼれた。

 戦争が起こる前、家族が奪われる前、足を失う前、私はこの痛みを知っていたのだろうか。痛みに伴う喜びを知っていたのだろうか。皮肉ではあるが、不自由を知っているからこそ自らの意思で進む、その自由の尊さをアネモネは知るのだった。

 ミア、これも全て彼女のお陰だ。

 倒れたままそんなことを考えていると、寝室の鉄扉が開き彼女の声がした「何すっ転んでんだよ、お前?」。

「これはちょっと色々あってですね……」

 アネモネは、苦笑しつつミアを見上げる。一糸まとわぬ美貌は、相変わらず健在であり、彼女自身もいつも通りの調子だった。しかし、同性とは言え乙女の裸姿を見つめ続けるのは、変に恥ずかしく視線を逸らしてアネモネは、言った。

「み、ミア様こそそろそろ服を着てはどうです! そんなんじゃ街へ行けません」

「ああ? 服だと? んなもん俺様は持ってねえよ!」

「じゃあ私の着てくださいね」

「え……マジで?」

「マジ? えっと、ほんとです」

 服を貸してもらえることが思ってもいなかったことだったのか、ミアは目を丸くして、それから視線を逸らして言った。それは小さな声で聞き取り辛いものだった。

「い、一番……いいので」

「はい? 何と仰いました?」

「だ、だから! 一番可愛いやつにしろって言ってんだよ!」

「…………」

 ミアは、その頬を赤く染めて、しかし感情を誤魔化す様に怒鳴った。アネモネは堪えきれず言ってしまう「やっぱり可愛い……」と。

「るせえ、いちいち! 服の良しあしなど構わんからはやくしろ、外で待ってるからな!」

 言って彼女は、部屋を出て行き甲板へ向かったようだった。

 準備がはやいなあ、とアネモネは思う。ミアは、荷物をまとめている様子さえなかったが、大丈夫なのだろうか。これから三人で旅に出るというのに心配だった。

 とは言え、急がなければならない。ノアも既に用意を済ませて待っているはずだ。

 結局、昨日彼が一日中どこで何をしていたのかは分からなかったが、報告がないあたり用事は済んでいるのだろう。

 アネモネは、起き上がりスノーホワイトの革リュックを開け、桃色髪の友人から譲り受けた白のブラウスとベージュのフレアスカートを手に取った。

「季節外れだけれど、これしか持ち合わせが……」

 申し訳なく思いつつ仕方なくアネモネは、荷物をまとめて甲板へと向かった。

 それにしても、かつて友人にしてもらって嬉しかったことを誰かにお返しする日が自分に来るなど思ってもいなかった。

 桃色のニーナが、残してくれた優しさを誰かに分け与えているのかもしれない、そう思うと感慨深いものがあった。

 ヴェルドの想いがアネモネを旅立たせ、そしてニーナと出会うきっかけとなり、彼女の死を乗り越えて今へと繋がっている。孤独という檻に閉じこもっていた春の国での期間、世界から見放されたのだと思い込んでいた。けれど、それは違ったのだろう。

 私が、世界を見放していたのかもしれない。

 きっかけはどうであれ、今の自分が幸せだとあるいは幸せになろうとしていれば、こんなにも世界は、こんなにも温かく私を迎えてくれたのだから。

 そう、アネモネは思う。

――甲板へと続く最後の扉を開けるとき、春の匂いをどこからか感じて小さく微笑んだ。

「お待たせいたしました」

「おう、ちょうどいいところに来たな。俺様も用事を済ませたところだぜ」

「こんな感じの服で…………」

――あれ。

 幻覚を見ているのだとアネモネは、思った。

 そして同時に強く願っていた。

「んあ? なにボーっとしてんだよ?」

――なにって。

 身体が委縮してしまい声が出なかった。

 ミアは、珍しく笑って茶化すように言う「新しい旅路だってのに、そんなんじゃ先が思いやられるぜ」と。

「大丈夫か……?」

 言って彼女は、自らの身長百八十センチと同等はあるだろう長大な刀身の刀を肩に担ぎ、こちらへと近づいてくる。

「なあ……? どしたよ?」

 首を傾げ、心の底から心配そうに声を掛けるミアは、言いながらその刀を甲板に突き刺した。そしてそれは、甲板の上に転がっていた金属片ごと貫いて突き刺さった。

自然とアネモネはミアの背後、その甲板の上でバラバラに砕け散っている物体に視線が釘付けとなり、無意識のうちに手に持っていた衣服がするりと落ちた。

そうして震える声で言う。

「……様が」

「ああ? 聞こえねえぞ?」

 甲板を満たしていたのは、過剰なまでの破壊だった。散乱した金属片は、機械人形の四肢と胴体。いずれも、切断面以外は醜く歪んでおり、暴力的な惨状である。

かろうじて原形を留めているのは、機械人形の首から上、その頭部のみ。しかし、それさえも、右側の眼球をもぎ取られている。

死体、遺体、ゴミ、くず鉄、どの言葉が相応しいのだろうか。

破壊者にとっては、ゴミ以下でくず以下なのだろう。それほどにまで慈悲もなく、悲惨を極めている。辱めるように晒され、哀れむように頭部を残され、だがこれは、弔いと呼べるようなものではない。

純粋なる暴力。

無意味にもぎ取られた深緑の瞳が、金属片に紛れて捨てられていた。

――凄惨無慈悲。

 途端、アネモネの中で何かが消えていく。


――春の匂いが、失われる。

――世界の輝きが、失われる。

――心の色が、褪せていく。


 見間違えるはずがあるのだろうか、幻覚を見ている可能性はあるのだろうか、一体全体誰がこんなことを。誰が。

 誰がなんて、希望を持つだけ無駄だった。

「ノア様が」

 震える声を振り絞りアネモネは、言った。無駄な希望を捨てきれず、事実確認を取るように言ってしまった。

 ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が、ノア様が。誰が、誰が、誰が、誰が、誰が、だれが、だれが、だれが、ダレガ。

 誰ならば、こんな破壊行為を許せるというのか。

 看過できるのか。

 受容できるのか。

 意味が分からない。

「ああ、あああ」

――アネモネは、膝から崩れ落ちミアの片足へと縋りつく。

 指をさして言った。

「誰がこんなこと……」

 本当に誰がこんなことを。アネモネは誰に答えを求めるでもなく、呟いていた。

「誰って、そんなの言うまでもねえだろ」

 ミアは、まるでこれが日常の風景というように飄々としていた。驚いているこちらが、何も知らなかったこちらが、私という異常者を見下ろして彼女は、平然と言った。

「俺様以外に誰がいるって言うんだよ、いたら軽くホラーだぜ……まあ幽霊なんて怖くねえがな」

 アネモネの額に汗が浮かび、うっすらと血の気がひいていくのが分かった。思考を放棄すれば、すぐにでも意識を失いそうだった。

「お、そういえばそこ落ちてんのが服ってやつか? ありがたく着させてもらう」

「…………」

 とうに限界だった。気持ちの悪さを堪えるのがやっとだった。

「どうよ、俺様ってば天才かもしれねえ。一発で着られたぜ……ちょっと小さいみたいだけど」

 耐えられずアネモネは、その場でうずくまり吐き出してしまう。

 この気持ちの悪さは、金属片が飛び散っているせいでも、ノアが殺されているせいでもない。この狂った状況を普通だと認識している化け物に、気色の悪さを覚えているのだった。

「大丈夫かよ、アネモネ?」

 ミアは駆け寄って、アネモネの背をさするも彼女はそれを払った。強い拒絶をもって。

 それでもまだ希望は捨てきれず、言葉を紡ぐ。

「どうして……こんなこと」

「どうしてって、それが俺様の存在意義だからに他ならねえだろ」

「意味が……分かりません」

 分かりたくありません。

「だから何回も言ってんだろ。俺様は、機械帝国海軍の究極兵器だってよ……そもそも兵器ってのは、物を破壊する以外の存在意義なんかないだろうが。お前ら人間が、生きてる限り無駄なことをするのと一緒だと思えば、そんなに難しい話じゃない」

 何か、私は勘違いしていた。

 同類だと勘違いしていた。

 分かり合えると勘違いしていた。

 彼女は、何度となく言ったじゃないか。

 自らは兵器であると、殺人機械であると、壊すために存在しているのだと。

 けれど、納得も理解もできなかった。

 きっとどのような理由があったとしても、認められなかった。

「それが……どうしてノア様を……壊すことに繋がるんです」

「んーとな、俺様はそこらへんの兵器とは違って究極兵器なんだぜ? 人類の英知によって生み出された切り札なのさ。だから俺様には、生まれた瞬間からある使命を託されているわけよ」

「使命……?」

「使命っつーか、俺様がそうしなければ死んじまうプログラムみたいな……簡単に説明すると世界平和かな」

 ますます意味が分からなかった。

「世界から戦争をなくす使命だ」

「戦争なんて……起きちゃいないでしょう!」

「いずれは起きるだろ。人間レヴェルの精神があれば絶対起きる」

 だから、とミアは言う。

 その言葉は、あまりに究極的で絶望的で不可解で難解で、しかしどの結論よりも、論理よりも、単純な回答だった。


「人類文明を滅亡させることが手っ取り早い解決策ってわけ」


「…………え」

「なんだその顔、驚くこたあねえだろうよ。ああ驚くか、てか怖いよな。フツーに考えて」

 ミアは、凄惨に笑って話し続ける。

「でも安心しろよ、アネモネ。最初に言ったがお前は、俺様に選ばれたんだ。世界から戦争を消し去ったあとも、その命の保証はする。いやあ、それにしても良かった。ぶっちゃけると俺様、全員殺しちまったら独りぼっちになって寂しかったからお前がいてくれて助かったよ。しかも、アネモネってすごく面白いし、一緒にいて落ち着くんだ」

 彼女の言葉は、別の言語のようにアネモネの耳を通り過ぎて行く。

「きっと……似た者同士なのかもしれねえな。なあ、アネモネ」

「…………」

「お前も…………」

 その声は、震えていた。

 虚勢がふるい落とされていくように、揺れていた。

「お前も……分かってくれるよな」

「…………」

「俺様は……退屈しなかったぜ、孤独すらどこかへ行っちまうくらいにさ」

 彼女も、気付いていたのだろう。

 自らの狂気に。

 だからこそ知っていたのだ。

 そしてアネモネの欠陥と己の完全が、混ざり合うことも、ましてや共存することなどありえないということを。

 究極であるが故に生まれながらの孤独を抱えていた不死身のミア。

 欠陥であるが故に孤独を自らに背負わせていたアネモネ。

 人間と機械人形。生物と無機物。狂気と常軌。

 そこに大した差はないけれど、そこには本質的な差がある。

――だから決して、二人は分かり合えない。


「俺様と共に来い」

「私は行けません」


 二人の間にそれ以上の会話は、ありえなかった。

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