2-8

 ――希望の朝を運ぶ夏の清光が、東の空から世界を照らし温める。

 月鏡の噴水が、朝焼けを受けて茜色の光の池を作り出す。ツツジの花畑が風に揺れ、桃色の海に細波が立つ。

 白桃色の髪は艶やかに、瞳はアズライトの深い藍色、白い頬には紅色のチーク、純白のドレスを控え目に飾る白ツツジの刺繍、その美しさはたった一人の愛する人へ向けられている。

 希望と不安が入り混じり、どんな顔をして彼を待つべきなのだろう。

 鋼鉄の胸に手を当て、ニーナは信じた友を思い浮かべた。


――月鏡の噴水、そこで麗しき乙女は待っていた。

 朝日を背に物憂げな表情の彼女は、こちらが桟橋を踏み鳴らすと顔を上げた。

 約束通り迎えに来た自分を見つけると、彼女はその藍色の瞳を大きく瞬かせ、口元に手を当てる。

 ゆっくりと歩み寄り、彼女の目前で手を差し出し言った。

「行こう、ニーナ」

 だがその手は、すぐには握られない。


――出会った頃と何も変わらない優しくて、寂しい瞳を彼はしていた。

 この人のこんな顔は、見たくないな。すぐに殺してやろうと思ったあの日。

 しかし、殺す前に彼は私に言った。幸せになってくれ、と。

 誰かにそんなことを望まれたのは、初めてで、胸が熱くなって、同時に痛くて、私の剣はとうとう彼を貫かなかった。

 一緒にいると、孤独が辛いものなのだと理解できるようになった。人を殺す獣は、孤独で、だがその孤独を知らずに生きていたものだから、苦しいとは思っていなかった。

 それなのに、今は一人が怖い。

 そして、これから打ち明ける真実が彼の幸せを壊してしまいそうで恐ろしい。

「ライアン……私は、あなたに幸せになって欲しい」

 自分自身の幸せなんか二の次でいい。

 そう言い聞かせて、怖さを和らげる。私には、帰る場所があるのだから。正しいと信じられることをしよう。

「聞いて、私は――」

――人殺しの機械人形。

 命令に従い、殺人をこなす従順な兵器。

――決められた運命を生きるはずだった機械人形。

 命令に背き、恋を知ってしまった無価値な兵器。

――そしてもうすぐ、壊れてしまう機械人形。

 ただ終わるのを待つだけの可哀想な人形。

 ニーナは、ドレスの裾を持ち上げ皮膚の剥がれた金属部分を見せて言った。

「だから、だから……無理して愛さなくていい」

 愛してる、ライアン。

「私のことは、忘れて」

 せめて願ってもいいのなら、忘れないでね。

「私は、忘れるから」

 あなたとの思い出と生きていくから。

「私のことは、もう、いらないって言って」

 やっぱり一人は、嫌だな。

「そんなこと、言えるわけないだろ……」

 ふわりと太陽の匂いがして、ニーナは抱きしめられた。

 気が付いたときには頬に涙が伝っていた。こんなときに笑えたら誤魔化せたかもしれない。それでも、嘘をつけるほどこの機械の身体は都合よく出来ておらず、声を上げて泣いてしまった。

「君がどれだけ俺を突き放しても、俺の気持ちは変わらないさ」


――君が必要で、君じゃなきゃダメだ。


「初めてニーナと出会った日、俺も救われたんだ。俺の気持ちを理解してくれる人なんているはずないと思っていたから、君が理解してくれて、俺を愛してくれて、どうすれば幸せになれるのか教えてくれた。それは」

――君の傍で生きることなんだ。

「何年、何カ月、何日、何秒でもいい。少しでも長く一緒にいられたら、俺は幸せだから」

「こんな、こんな」

 言葉が喉の奥で詰まり、出てこない。本当に、言葉にしてもいいのだろうか。

 風に舞う花弁のように切なく落ちてしまわないか。

「こんな……!」

 息が熱い、そして口にするのが怖い。

 勇気を、勇気をもらうにはどうすればいい。

――行ってらっしゃい。

 怖気づいてしまいそうになっていたとき、ふと親友の声が聞こえた。その声は、追い風と共に現れ、白桃色の髪を優しく撫でる。

 そして一瞬、風が強くなった、それはまるでニーナの背中を押すように。

 親友の顔が浮かんで、心の中でありがとうと呟いた。

 私は、夢を見ても許されるかな。誰も、それを咎めたりはしないのかな。

 人殺しの機械人形でも、生きる価値を失った機械人形でも、死を待つだけの機械人形でも、夢を見ていいのかな。どこにでもいる人間として、ライアンが愛してくれた人として、アネモネの親友として、生きていてもいいのかな。

 それが良いか、悪いのかは、自分が決めるのだということをニーナは知っている。

どんな選択肢も一度きり、それが人生だ。だから私は、アネモネを信じる。

 だから、願ってもいい、求めてもいい。

たとえその選択が、苦しみや、悲しみに辿り着くとしても、やってみなければ分からない。いつか死ぬのだから、後悔しないように。


 咲かずに枯れる花よりも、咲き誇り散っていく花の方がずっと美しい。


 ニーナは、抱きしめられた腕の中で彼を見上げ、熱を帯びた声で伝えた。

「こんな、私を、愛してくれますか?」

 目と鼻の先で彼の瞳が、ニーナを映す。抱きしめる手は大きく温かい、そのうちの右手が離れて彼は、カーディガンの内側から何かを取り出した。

 そしてニーナの左手、薬指に銀のリングを通す。

「誓う、君を愛すると」

 ライアンは通してくれたその手をニーナの指に絡め、もうこの手は最後まで離さないと笑った。ニーナは嗚咽を漏らす。

 嬉しくて、嬉しくて、幸せで、幸せで、言葉が見つからない。

 何を言えばいいのか分からないままに言葉を紡ぐ。

「好きだよ、ライアン。日に褪せた茶髪も。小麦色の温かな肌も。たくさんの愛を注いでくれた瞳も。名前を呼んでくれたその声も。私を何度も撫でてくれたその手も。全部、全部なの。全部が大好き」

「ああ」

 連れて行って、どこまでも。

 遠い国でも、海の上でも、私の知らない世界でも、想像できてしまう。

 朝、目が覚めると隣にライアンがいて、おはようと言って笑い合う。身体の弱い私の代わりに彼が食材を街へ買いに行って、私が料理をする。おいしいねって、また笑い合う。夜眠るときは、離れないように少し小さめのベッドで眠り、それがとても不思議で、幸せで、愛おしくて笑い合う。

 そして機械の身体が動かなくなる最期の瞬間まで、ライアンの姿が瞳に映っている。

――また会おうねって言って笑い合う。

 きっと、そんな暮らしが待っている。

 いきたい、行きたい、生きたい。

 あなたと、生きたいんだよ……ライアン。


『マリア・ヴァレンタイン様へ

 陽光の温かなる頃、いかかがお過ごしでしょうか。私は、旅先でたくさんの機械人形との出会いと別れを繰り返しています。機械人形の方々は、皆一様に生きる意味を持っていて、悲しいことに壊れてしまう運命にありました。夏の国で出会った機械人形もまた同じ運命にあり、恋に生きていました。

 誰かを好きになり、その人と一生涯を共にすることを夢に見ていたのです。ささやかな夢でしたが、それは言葉にし難いほど切ない夢。それでも彼女は、夢を叶え、命の尽きる間際で恋人に「アネモネにありがとうって伝えて」と言ったそうです。

 国へと戻った彼女の恋人にそれを教えてもらいました。

 マリア、私は彼女の親友でした。初めての友達で、親友で、私を居場所にしてくれた大切な女の子なのです。私、今、どれだけ泣いたのかわかりません。

 大切な人を失うのは悲しいのだと知りました。マリアは、悲しいですか。私のせいで、ヴェルドは旅に出たのかもしれない。私、どうしたらいいのでしょう。

 ノア様は、淑女の振る舞いを教えてくださいますが、相談には乗ってくださらない。数週間ほどライアン王子の変装をしていました。理由を聞いても、任務だからとしか話してくれず、私はずっと一人です。私の話を聞いてくれた彼女は、もう、どこにもいない。

 マリアは、私を待っていてくれますか?

              夏の国の海の絵を添えて、アネモネ・ヴァレンタインより』

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