2-7

 ライアン・プリティラリア・ホーネット王子とレナ・アストラル・フリーデ姫の結婚式を明日に控え、港町は、多くの人間が慌しく動き、建物を飾り付ける。隣り合う建物を繋ぐようにして花嫁のヴェールを模した透き通る布が掛けられ、日の光を受けたそれが神々しく輝き、風が吹くと音もなくなびき街路に植えられたハイビスカスの花弁が釣られて踊る。ターコイズブルーの海、潮のさざめき、石灰石の石畳、色鮮やかな街並み、憧れの結婚式は、情景と表するにふさわしい。二人の結婚に誰もが思いを馳せ、羨みと祝福の思いを隣人と分かち合う。忙しく、華やかに時が流れていったのは午前中の晴れ間、突如降り出した夕立に作業は一旦中止となった。

 ニーナは街の美術館で催されていた画廊展へ来ていたのだが、ちょうど王宮へ戻ろうとしていた矢先の雨に思わず立ち往生していた。

 灰色の雲より落ちる雨は、鉛のように強く石畳を打ち付け、世界を憂鬱に染め上げる。

溜息をついてニーナは、美術館へ再び入った。

港町にしては珍しい赤レンガの美術館は、優雅な音楽を聴きながら、絵画を眺めることができ、気に入った作品があれば高価ではあるが購入することも可能だ。

コンクリートの床と白い壁紙で統一された空間、華美というよりは寧ろ簡素で飾り気がなく、そのお陰か壁に展示されている絵画は、部屋を彩る唯一の花のようである。細い一本道が迷路のように枝分かれしており、飾られた絵を追ううちに連れ人とはぐれてしまうことはよくあることだ。絵は、まるで別世界。絵画に触れると吸い込まれてしまうのではないかと妄想してしまうほどに、人の心を連れ去っていく。

互いの想いを確かめるように見つめ合う男女の絵、口づけを交わす男女の絵、雨の日の街で、中庭で、海で、至る所で、誰もが二人を見ているはずの場所で、二人だけの時間を生きている。大胆で、迷いのない二人に、羨望の眼差しを送ってしまう。

恋人以外が見えない、そんな瞳が欲しいと思った。そうしたらきっと、私は馬鹿みたいに彼を追うことが出来るのに。自分に心臓があったなら、締め付けられるように痛んでいるのだろう。

絵画に描かれていた恋人たちの世界を追ってニーナが歩いていると、一度外の様子を確認しに行った際にはぐれてしまったアネモネを見つけた。

「アネモネ?」

 名前を呼んだが返事はなく、絵画を見るのに夢中になっていた。彼女が立ち止まり眺めていた絵は、ヴァイオリンを弾く一人の女性が落ち着いた色合いで描かれている。

 女性は、亜麻色髪に金糸雀色の瞳で、白百合の花弁を思わせる白い肌が美しく、口元には微笑みを浮かべている。

――女性は、アネモネと瓜二つだった。

 作品自体は、他の絵画と比べると片手で持つことができる大きさであり、元々売り出すつもりはなかったのだろう。自分の家で鑑賞用に描いたのかもしれない。

 作者にとってその女性は、大切な存在であることが絵に溢れ出している。この絵の持つ雰囲気は優しく、穏やかな日常を感じさせるのだ。

 ニーナが軽くアネモネの肩に触れると、はっとしたように振り向き「魅入っていました」と小さく笑った。そして自分も笑い返す。

「この絵、アネモネにそっくりね」

「私は、ヴァイオリンなんて弾けませんよ?」

 首を傾げこちらを見上げる彼女は、説明を求めている。どこからどう見ても似ているというのに、説明は不要だろうと思いながらもニーナは話した。

「髪の色とか、瞳の色、肌の色まで似ている。ねえ、何かの運命だと思わない?」

「色……ニーナ、ずっと黙っていたのですが」

 アネモネは、金糸雀色の瞳を絵画へ向け、平常心を装った声で、しかし、それが嘘なのだと分かる弱々しさで言った。

「私は、色が見えないのです」

 海も、街も、星空も、光と暗闇だけの世界で、ニーナと同じ景色は見えていませんでした。ごめんなさいと謝る彼女にニーナは言った。それは同情でも、哀れみでもない。

「そんなの、関係ないよ。私が似ているって言ったら似ているの。だからきっと、この絵はあなたと出会う運命だった」

 関係ない、アネモネは何があっても親友だ。どんな話だって打ち明けられる間柄で、一緒にいるだけでどんな悲しみも忘れられる。それだけは、自信をもって言えることだ。

「この絵、買ってあげる。ほら、私もうすぐ死ぬし、お金なんかいらないじゃん。その代わりに聞いてほしいことがある」

 対価など払わなくとも、アネモネが自分の話を聞いてくれることは分かっている。分かってはいるが、話し出すには理由が必要だった。

「明日、ライアンが結婚することは知っていると思うけれど」

 アネモネは今、どんな表情でこの話を聞いているのだろう。彼女のことは信頼しているが、その背中を見ていると少し不安になった。

 こんな話をして困らせていないか、どうか不安だ。

「でも彼は、結婚式を抜け出して月鏡の噴水へ私を迎えに来るって約束してくれた。そしてどこか遠くへ行って楽しく暮らそうって話してくれた。私も、嬉しくて、彼と二人だけの生活は幸せだって、想像しようと思えばいくらでも想像できた」

 情景だ、あの絵画のような世界が容易に思い浮かぶ。

 夢だ、思い描いていた夢が目前にある。

「でもね、私はその日、待ち合わせの場所には行かない」

 車輪の回る音がして、アネモネが驚いたように目を見開いていた。どうして、とその眼が訴えかけている。

「ライアンがいなくなったら、たくさんの人に迷惑がかかる……でしょ」

 諦めるのは、簡単だ。言い訳を探せばいい、いくらでも見つかるだろう。

 本当は、死ぬまでライアンの傍にいられたらいいな、と思う。しかし、それをしようとしないのは自分の真実を打ち明けるのが怖いからだ。

 機械人形で、人殺しで、孤独で、もうじき壊れていなくなる。

 そんな自分を愛して欲しいと望むのは、怖い。ライアンを傷つけてしまいそうで、自分自身も嫌われてしまいそうで。

「それに私は、一人でもいい。この街で最期を迎えてもいいかなって」

 死ぬまで、彼との思い出を頼りに生きていくだけで幸せだ。

 今に満足していると嘘をついて。

「…………ニーナが、それでいいのなら」

 親友は、優しい声音で肯定してくれた。

それから画廊をお互いに黙って周り、雨の音が弱くなっていることに気が付き、絵画を買って外に出た。

空はまだ曇っており、いつ降り出すか分からない不安を孕んでいる。

ニーナは逃げた、付き纏う不安と後悔から逃げるように足早に車椅子を押して歩く。しかし、その途中、自分の帰る場所はもうないのだと気付き立ち止まる。

別々の世界で生きるために捨てたのだ。彼と過ごした思い出の場所を。

「ニーナ、帰らないのですか?」

 灰色の空から一滴、鼻に落ちて、次第に雨は強くなり、悲しみの音が響き渡る。

 石畳を打つ音、通行人の傘を打つ音、心を激しく動揺させる音、耳を塞ぎたくなる。ニーナは、辺りを見渡した。逃げ込める場所はないかと、探し、見つけた。

 港町の建物の間、路地裏で、死んだ野良猫を見つけた。

 孤独に、横たわっている。

 アネモネの車椅子を離し、肉の塊となった死体に近づき、屈んで触れる。温かさを失ったが、まだ腐敗していない猫の死体。

 撫でながら言った。

「ねえ、アネモネ……」

 雨を辛うじて防げる路地裏で、親友の名前を呼んだ。彼女は、ただ傍で死んだ猫を撫でるニーナを見守っていた。

「私も、死んだらこうなるのかな。誰にも気付かれずに、独りで腐るのを待つのかな」

独りになるってこういうことなのだろうか。

考えて、ニーナは言ってしまった。

「旅なんかやめてさ、この街で二人、一緒に暮らそうよ」

 自分はいつか死に、アネモネは一人になるだろう。それでも、孤独が怖くて、言葉は絶えず紡ぎ出される。

「車椅子じゃ旅をするのも大変だって言っていたよね。私なら押してあげられる、それに眼が良くないなら私が代わりに眼になるから。旅なんかやめて、この街で生きようよ?」

「それは……」

――できません。

「何で? あ、そうだ。私なんかといても楽しくなかったか。ごめんね、何言ってるんだろう私……」

 傷つける、きっと今の言葉はアネモネの心を傷つけている。

 だから、彼女にどんな言葉を返されようとそれは仕方のないことだ。

「違います……ニーナと過ごした時間は、宝物のように大切なものだと思っています」

「じゃあ……何で?」

「まだ、探している人を見つけられていません」

 世の中は思い通りにいかず、もどかしい。ニーナは、耐えきれず、声を荒げてしまった。

「あんたさ、いつまでそんな馬鹿みたいなこと言ってるの! 一人じゃ何にもできないのに、夢なんか語らないでよ! ノアがいなかったら、アネモネなんかこの野良猫みたいに野垂れ死ぬだけなんだよ? そんなの私は嫌だ……独りなんか嫌だ!」

 言葉はどしゃぶりの雨のように、溢れ出すのも構わず放たれる。

「アネモネだって、ライアンだって、私を置いてどこかに行くんだ……付いていきたくても怖くて付いていけないよ……」

「ニーナ……」

「いなくならないで、私の傍で、私の最期を看取ってよ。お願いだよ……もう、死んじゃうんだよ。ある日突然、動かなくなるんだよ……?」

 縋るようにアネモネの服の袖を掴む、掴む力は弱く、重力に従って滑り落ちた。

 ぶらり、と白い手が操り人形のように垂れた。もう既に握力は、腕の故障で失われ始めている。

「たとえ、たとえそうであったとしても、私はヴェルドを探します」

「酷いよ……そんなの」

「ニーナが本当に傍にいて欲しいと思う人は、私ではないはずです」

「怖くて、傍にいられないよ……本当のことを打ち明けて、嫌われてしまったら」

 そんな未来を想像するだけで震えてしまう。何を頼りに生きて行けばいいのか、分からなくなる。きっと、それは本当の孤独なのだ。

「怖くても……傍にいるべきです。後悔しないためにも、そうすべきなのです」

「後悔って……?」

 見上げて映る彼女の笑みは、どこか寂しげで、しかし、包み込むように優しい。

「私は、後悔しているのです……ヴェルドに酷いことを言ってしまい、それが交わした最後の言葉になってしまったこと」

――だからニーナには、後悔して欲しくないと、微笑み言った。

「真実を打ち明けることは、怖いです……苦しいです。それはきっと、叶わない夢を信じて追うのと同じくらい。それでも、私は、ヴェルドを見つけるために旅をするのです。今の私は、こんなにも幸せな日常を過ごしていると知って欲しくて探すのです」

 どうして、そんな小さな希望を、夢を追うことができるのだろう。

「もし、ヴェルドが死んでいて、その夢が叶わなかったらどうするの? 私だったらもう、生きていけなくなる」

 何か一つを追い続けることは、怖いことだ。それが叶わなかったら全てを失うのだから。

「叶わなくても、私は生きていけます」

「どうして?」

「帰る場所が、私を待っていてくれる人が春の国の小さな書店にいるのです。もし、ヴェルドとはもう会えないと分かって、悲しみに暮れていたとしても、その人は私にこう言います」

――おかえり、よく頑張ったね。一緒にご飯食べよう。

「その日は、明るい部屋で旅の話をして、温かいスープを飲むのです。だからどれだけ苦しくても、怖くても、信じて歩ける。ニーナにも、帰る場所が、待っていてくれる人が」

「そんな人、いない! いないよ……私は人間じゃないんだから!」

「います!」

――アネモネ・ヴァレンタインが、ここに、あなたの親友がここに、います。

 強い声だった、軸のしっかりとした真っすぐな声である。

 私の閉ざしていた扉を突き破ろうと、どこまでも力強く叩いてくる。

 どうしてこんなにも、頼もしく、信じてしまいそうになるのだろう。ニーナの藍色の瞳は潤み、アネモネの顔がぼやけて映った。

「勇気を出して、それでも叶わなかったのなら、私はこの場所でニーナが帰って来るのを必ず待っています! だから、だから怖くても立ち向かい、苦しくても歩き続けていいんです……おかえりって、頑張ったねって、言います」

 ぼやけた視界でも、確かに彼女は微笑んでいた。

 灰色の世界に咲いた一輪の花は、美しく咲き誇る。

 アネモネ・ヴァレンタインは、私を抱きしめて「行ってらっしゃい」と言った。


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