2-6

 「ライアン様……目覚められましたか?」

 瞳が開き、白い天井と中央にプラチナブロンドの髪と透き通った碧眼が映った。背中にある感触は羽毛の包み込むような柔らかさであり、恐らくは王宮の寝台だ。

 ならば誰の部屋だろうと、ライアンは、まだぼやけた視界と嗅覚を頼りに考える。薔薇の香りが甘く優しい、女性の部屋だろうことは推測できた。やがて、視界は元通りになりこちらを覗き込んでいた人物が誰なのか理解する。

「レナ……か」

 名前を呼ばれ、彼女はあの不思議な表情で目線を逸らした。恥ずかしさと、今は切なさも含まれているように見える。

 ライアンは、身体を起こそうとしたが、途端に頭痛が走り小さく呻いてしまった。

 その様子を案じてか、レナの白い手がこちらに伸ばされ、しかし、それが肌に触れる前に彼女は、その手で空を握りしめた。

 夢かうつつか幻か、その時の彼女に、何をするにも不安が付きまとう幼い少女を見た。

 大人びた妖艶さはなく、普段の纏う雰囲気とはかけ離れている。

 身に纏うラベンダー色のネグリジェも、子供が着るには不釣り合いなものであり、彼女が着ることに違和感を覚えてしまう。よく見れば髪は濡れており、唇も、頬も、大人の女性を象徴する化粧の赤みが見られない。先ほどから香っていた薔薇の匂いは、彼女のシャンプーの香りだった。

「レナ」

 名前を呼んだが、その声は演技された明るいものではなく、無気力な低い声だ。

演技を忘れていたのは、酒のせいかあるいは、今の状況を上手く掴めず半ば夢とさえ思ってしまっているからか。

 ライアンは、途中で考えることをやめて自分の思う通りに話しかけた。

「歳はいくつだ」

「十四です……ライアン様とは、その、四つも歳の差があります」

「そうか」

 とは言ったものの、ライアンは、彼女のことを同い年か自分より二つほど上なのだと思っていた。しかし、今の彼女を見る限りそれは嘘ではなかった。

「まだまだ子供だな、そんな歳で俺の妻が務まるのか。言っておくが、俺は我儘なんだ。美しい景色に、美味い料理に、嗜む程度の酒、この良さが分からない奴とは一緒にいたくない」

 一週間後に駆け落ちするというのに、何を話しているのだろうと思いながらも、酔いに任せて言葉を発した。面倒くさい酔い方をしている、それに気が付いている自分がいて嫌になる。

 嫌気が差したが、きっとこの少女は自分が何を言っても、小さな声で肯定するか、目を逸らして黙り込むかすると決めつけていた。だが、それは違っていた。

「こ、子供です。子供ですが、一生懸命頑張るつもりです!」

「ほう、何ができるって言うんだ?」

「美しい景色を見るためにどこまでも付いていきます。美味しい料理は、私もきっと美味しいと感じます。お酒は、苦手ですけど、ライアン様が飲めというなら嗜む程度には……というか、そういうライアン様こそ秋の国の姫に相応しい殿方なのですか?」

「何でも言ってみろ、何でもしてみせようじゃないか」

「で、では、まず紳士としての礼儀は」

 紳士らしい礼儀も、舞踏会での踊りも、一国の主としての教養も、武芸も、何でも卒なくこなせる。そんな話をしばらく続け、レナのこれ以上条件が思いつかないという悔しそうな顔を見て思わず笑い声をあげてしまった。

 頬を赤らめ、ふくれさせるその姿は、幼い彼女に似合っており可愛らしい。笑い終えてふと静寂が生まれたとき、ライアンは目を瞑り暗闇の中で思っていたことを聞いた。

「こんな人生は、間違っているって思ったことないか?」

 それは、長い間自分に問い続けてきたこと。だが、暗闇にレナの言葉は聞こえなかった。きっと質問の意味が分からなかったのだろう。

 意味が分からないということは、それを問題として捉えていないのだ。

「俺が、間違ってるのかな」

 常々その答えが、頭に浮かんではかき消してきたライアンだったが、ついに言葉として発してしまった。

 周囲の人間が狂っていると、狂っていない自分が間違っているのではないかと錯覚しそうになる。誰かに決められた人生を歩むのが普通なことなのだと受け入れてしまいそうになる。その方が楽だろう、悩まずに、苦しまずに生きていけるだろう。

 腐る、何も考えずに敷かれたレールの上を歩き続け、それに何の疑問も抱かずに歳を重ね、腐っていけばいい。愛する人の傍にいたい、そんな不確かな世界を夢見るよりも、誰にでも平等に優しい腐れの中で狂いながら生きればいい。

 狂っているのは、自分なのだ。

「レナ……?」

 心の中で自分に言い聞かせ、呟いた彼女の名前は、情けないほど小さい声だった。

 ライアンは、間違っていないと言って欲しかった。誰の言葉でもいい、自分の思いを肯定してくれる人が欲しかった。

 世の中は、否定ばかりだ。

 そして瞼の裏の暗闇に彼女の声がようやく聞こえた。

「答えを考えていました」

 その答えを聞くのが、怖かった。思っていた返事でなかったとき、次に彼女の名前をいつも通りに呼べるだろうか。平常でいられるだろうか。

 不安、不安なのだ。世の中は暗澹としていて、先が見えない。

 見えなくて、迷う。見えなくて、答えを求める。正解などないことくらい分かっているのに。

「でも、分かりませんでした。だけど、私は」


――あなたに会いたくて今、ここにいます。


 言葉が、絞り出したように紡がれた言葉が、ライアンの瞼を開かせ、少女を映す。白い肌は、酒が回っているかのように赤く、宝石を思わせる碧眼は、しかし、真っすぐにライアンを見ていた。

 強い眼差しだった。彼女が初めてライアンに向けた眼差しは、心臓を捉えて逃がさない。

 どきりと胸が鳴った。

「……酔ってるのか?」

「いいえ、飲めませんので。もう一度、言います。私はあなたに会いたくて今、ここにいます」

 会いたいなんて直截的な言葉は、初めて言われた気がする。恋人のニーナにさえ、言われたことがなかった。

 言ってしまって、自分の思いが伝わらずすり抜けて消えてしまうかもしれない。どんなロマンチックな言い回しより、思ったままを伝える方が怖いのだ。

 だからレナの告白は、勇気が必要だったはずである。

 夢を他人に打ち明けるのと同じくらい勇気が必要で、自分の想いを信じる必要がある。

「好きです、ライアン様のことが。誰よりも、お慕いしております」

「俺のどこが良いんだよ……」

「どこが良いかと聞かれれば、あまりライアン様のことを知らないので答えるのは難しいです。でも、そうじゃない。あなたは、この小さな手を握ってくれた」

 そう言ってレナは、小さく白い右手を胸に当て、左手で包み込むように握った。その手の内に大切なものがあると彼女を見た者が、信じてしまうほどに優しく包み込んでいる。

「初めてこの国に連れられて、いきなりお見合いが始まってとても不安だった。顔にそれが出ていたのでしょうか、ライアン様は、私の手を握って先を歩いてくださりました。そして時々振り向いて笑ってくれます、恥ずかしくて、ずっと背中を見ているしか出来ませんでしたが、それがどれほど嬉しくて頼もしかったことか」

「あんなのは演技だ、現実の俺を見て落胆しただろう…………」

「現実のライアン様も、私は好きです。自分の知らないライアン様を知ることが出来て、それだけで私は嬉しい」

――考えるだけで胸が高鳴る。

――風景にあなたがいるだけで、どんな景色より色鮮やか。

――傍にいてくれる。それだけで自分はどこまでも歩いて行ける。

「きっと、私は、恋をしているのです」

 少女の瞳が、輝き揺れる。

 薔薇の香りを纏う姫君は、未だ幼く可憐。

 だが、自らの恋に確信を抱き行動する様は、世の中のどんな花にも劣らず美しい。

 恋の行方は、暗澹としている。恋は、小さな世界で、先が見えない、見えなくて不安だ。それでも彼女は、見えない恋心を信じている。

――私は、恋をしているのです。

 正しいから信じるのではなく、信じているから正しい。きっと、そうなのだとライアンは思った。

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