2-5
白亜の城、王宮、プリティラリア宮殿、呼び名は幾つもあるが、それはこの国が観光産業によって支えられている証拠だ。というのも、国を訪れた人によって呼び方が違い、それが一般に定着したのである。
夏の国に潤沢な利益を生み続けている観光産業は、戦争以前からのものであり、それは統治者による緻密に計算された外交があってこそのものだ。王家の者は、生まれた瞬間から国家の駒であり、交友関係や政務における基礎的な知識を徹底的に教育され、親同士で頻繁に行われる食事会という名の接待に連れ回される。
何歳で結婚するのか、どこの誰と結婚するのか、いずれお前も自分の子供が生まれたら同じことをしなければならない。
幼い日も、今も、悪夢のような談話を王の傍でライアンは、聞かされ続けていた。望まれぬ子として生まれたライアンは直系の王子の死後その代わりとして、まだ母親の愛さえ理解出来ていない幼さで離別させられた。
我ながら哀れな子共だと、大人になったライアンは思い出して苦笑する。
だが、哀れなだけでは終わらせないと心に決めている。一矢報いる機会を虎視眈々と狙ってきたのである。そんな目論見など知る由もない王は、ライアンの婚約者と彼を食事会に同席させ、秋の国の王と談笑していた。
王宮の二階、翼を広げた金の鷹の装飾が施された大扉を開いた先、まず初めに視界に入り込んでくる華美なシャンデリアが眩しく、部屋の中央に置かれた長机の上には花瓶の中に白百合が飾られ、上等の酒と料理が並べられている。
ニーナとアネモネが出かけている間も、親同士の黒い笑い声と共に結婚式の段取りは着々と進められていた。
「一週間後の結婚式、最高の一日になりそうです。ね、レナ姫」
金糸の髪に、きめの細かい白い肌、宝石にも思える碧眼、美形といえるだろう目鼻立ちは、純血の貴族であることの証。形の良い唇は赤く塗られ妖艶であり、ラベンダーを思わせる藤紫の色をしたシースルーのドレスは、大人びた女性の印象を持たせる。
ライアンは復讐めいた思惑をひた隠しにしながら、秋の国の姫君レナに微笑みを向けた。
今宵、婚約の契りを交わした二人はまだ夫婦ではないにしろ同然の扱いを受けており、部屋の最奥に隣り合うように置かれた椅子に座っていた。
「は、はい……」
目が合うとレナは、その大人びた相貌に反し、子供っぽく頬を赤らめて目を逸らした。その横顔を見ると艶やかな唇をきゅっと結んでいる。
レナの時々見せるこの表情は、ライアンを不思議な感覚に陥らせる。彼女の表情は、単に恥ずかしく思っているだけでなく、悔しさみたいなものが滲み出ているからだ。
不思議だ、俺との婚約が嫌なのだとしたら断ればいいものを。それでも断ろうとしないのは、レナも自分と同じ国の駒なのかもしれない。
ならば巧みに演技しなければ腹の内が暴かれてしまうぞ、とライアンは内心冷や冷やしていた。そんな心配も杞憂に終わり、両国の王が酒に酔い潰れたのを見計らいライアンは、適当な言い訳をつけて食事の席を上手く抜け出すことが出来た。
「煩わしい時間だったな」
ライアンは日に焼け色褪せた髪をかき上げながら、大理石の床に敷かれた赤い絨毯を睨みつけ、そのまま王宮のラウンジへと向かった。夏の国の王宮には、政治的な都合で客を迎え入れることが多く、そういった外来のための休憩スペースとしてラウンジが設けられている。場所は、宮殿の入り口から入ってすぐ目の前である。
小さな噴水から円形に広がるようにブラウンの革材ソファが置かれ、壁際には酒や軽食をつまめるバー、専属の奏者が奏でる極上のハープの音色、王宮内を探し回ってもこれ以上の癒し空間はないだろう。一目見れば分かるだろうが、目印は、噴水の頂上にある石灰岩を彫って作られた一糸まとわぬ姿の美の女神像だ。
ライアンが癒しを求め、その場所へ赴くとちょうど探していた黒衣の男が、ソファで酒を嗜んでいた。だが探していたことはあくまで表情に出さず、バーでブランデーを受け取り、努めて自然を装い隣に腰を下ろす。
長い黒髪を後ろで一つに束ねている中性的な容姿の男は、こちらが隣に座ったことへの反応を示す様子もなく、グラスに入っていた蒸留酒を呷った。
酒を飲んでいる動作さえも、上品で流麗な文章で綴られる紳士のよう。
「こんなところで会うとは、機械人形も酒を飲むのだな」
ノアは冷たい眼を弧にして「ええ、嗜む程度ですが」と答えた。表情と異なり、彼の声音は、甘く包み込むような安心感がある。
だが同時にそれは、危険な香りだ。
というのも、ライアンは数年前に国を訪れた旅人から機械人形の妙な噂を耳にしていた。
機械人形は、どのような音域であろうと発声することができ、戦時中の諜報任務の際、最も人間が落ち着く声音を使い、敵国の重鎮を欺いていたらしい。しかし、初めこそ恐ろしく思ったものの今のライアンにとっては、その能力が真実であれば利用したいと考えていた。
「では、偶然席を共にしているのも何かの縁だろう。一杯付き合ってもらっても?」
「偶然……偶然とは、良い言葉ですね。私などでよろしければ付き合いますよ」
あまり心臓に良くない返答をしてきたことにやはり内心で冷や汗をかきつつ、ライアンは微笑みをそのままにまずは目論見と何の関係もない話から始めた。
外堀を埋めるように、信頼を築き上げながらゆっくりと自分のペースへと引き込む。そのはずだった。
「ところで、ライアン王子」
「どうした、改まって」
空になった酒瓶が二本、蒸留酒とスパークリングワイン。どちらもアルコール度数が高く、それら全てを飲み干したのはライアンだった。ノアはその美しい容姿からは想像もつかぬ話し上手であり、それだけでなく聞く側に回っていた場合も、話している側の舌を饒舌に変えてしまう才があるようだった。
気分が良くなり、眠気に襲われ始めていたライアンはソファの背もたれに頭をぐったりと預け、既にかなりの酒が回っていた。
名前を呼ばれ、歪む視界の中にノアを捉える。
ノアは、旅人であるというのに自分と比べると随分と白い肌をしている。そのせいか、この男を見ていると、冷たく研ぎ澄まされた刃を想像させる。隙を見せればすぐに心を切り裂かれてしまいそうだ、そんな危惧を感じていたそのときだった。
「ニーナさんとの駆け落ちは、一週間後といったところでしょうか」
時が、一瞬止まったように感じられ、背中にぞわりと寒気が走った。
ノアの物言いは、知っていて当然、常識だろう、そんな感じであった。
――酔いが一息に覚める。
切れ長の翡翠の瞳が、真っすぐにこちらを映し、口元には冷笑が浮かんでいる。
「何で、それを?」
どこで聞いた、誰かに話したのか、何で知っている、その言葉が二周、三周した後ノアが口を開いた。刃物が放たれたように、それは心を刺した。
「お答えすることは出来ません、任務ですので」
「任務って……お前はアネモネと一緒にヴェルド大統領を探しているんじゃないのか?」
「いいえ、勝手に付いてきているのは彼女ですよ」
落ち着いた面持ちでこちらを見つめるノアを前に、ライアンは焦燥感に駆られ立ち上がった。
「お前がその情報をどうしようと勝手だが、もし俺とニーナに何かしたらお前を……」
ノアをどうするのだ、何が出来るのというのだ。
「私を、どうするのでしょう?」
それ以上は、何を言っても無駄だと判断し、ライアンは席を立ち彼に背を向け歩き出す。
告げ口されていたのなら、計画は破綻する。
破綻した先で、待つのは駒として生きるだけの地獄の日々。
吐き気のするような空間での日々、陽気な笑顔を浮かべ、好きでもない人間の頼みを快く受け、不味い酒の味に耐え、くだらない国家の安寧を洗脳のように説かれ続け、ようやく人脈を築き、誰もが俺を信じ切ったこの環境が、努力が崩れ去るのだとしたら、それはなんと恐ろしいことなのだろう。
いや、そんなことは何も恐ろしくない。
本当に恐ろしいのは、その地獄の中で何のために生きているのか分からなくなることだろう。
ライアンは、歩いた。遠くへ、もっと遠くへ。この場所から離れなければ、今まで自分は何のために生きてきたのだろうかと考えてしまうから。
今まで、運命に抗おうと必死だった。
たった一度きりの人生を他人に決められた通りに生きなければならない運命に抗い、その中でずっと夢を見ていた。
――ここからずっと遠くの街で愛する人と生涯を共にする。
愛する、母と。愛する、恋人と。
きっと、多くの人にとって当たり前の暮らしがライアンの夢だ。
どうして願ってはならない、望んではならない。
「少しは、報われたっていいじゃないか」
小さな声で吐き捨てるように言うと、心の中で返事が聞こえた。
――そんなの夢物語だ。
アネモネに向けた言葉が跳ね返ってきて自分が酷く惨めに思えた。
拳が、汗ばむのを感じる。焦燥が、胃を痛める。
縋るように胸ポケットに入れていた恋人への指輪を服の上から握った。
「ライアン!」
その時、聞き慣れた恋人の声が自分を呼び、思わず振り返った。しかし、その視界のどこにもニーナの姿はなく、代わりにラウンジのソファで寛いでいるノアがこちらを見ていた。何が起きたのか状況を理解できずにいると、ノアが口を開いた。
「私が呼びました。話を聞いてほしくてね」
その声は、ニーナのもの。そして次は、彼自身の、冷たい声で放たれた。
「ニーナに恋をするのはやめろ」
呆然と立ち尽くして、ライアンは静かに「どうして」と返した。
――彼女は、機械人形だ。
「機械人形ニーナから向けられる愛情は全て偽物だ。創造主である人間によって人を愛するように生み出されているに過ぎない。被造物主が造物主を愛すことがあろうとも、その逆はあるべきではない……ただ虚しいだけだ」
「嘘だ」
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「本当さ、ライアン王子」
ノアの言葉は、氷の刃のごとくライアンに襲い掛かる。
ニーナが機械人形のはずがない。でも、どうしてそう言い切れようか。
だが、そんなことは実際のところどうでもよかった。
動揺してしまったのは、本当ならどうして言ってくれなかったのか。自分のことを信用してくれなかったのだろうか。という不安からだ。
こんなにも、愛しているのに。彼女は、俺を。
俺を、愛していなかったのだろうか。
「それでも」
ノアは、ライアンの眼を見て、吐き捨てるように言った。その声は、どうしてか苦しみを含んでいる。
「お前が彼女を愛し続けるのなら」
彼はソファから立ち上がり、落ち着いた足取りでライアンの方へと歩き出し、そして通り過ぎて行った。その際彼は、耳元で一言囁いた。
「次に会うとき俺は、お前だ」
ライアンは、その場に呆然と立ち尽くし、胸の中で彼の言葉を反芻していた。
次に会うとき俺は、お前だ。
しかし、その言葉の意味が分からず、あまりにもどかしく、苛立ちを露にしたままラウンジへと戻り、度数の高い酒を眠ってしまうまで飲み続けた。
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