2-3

 白亜の城、プリティラリア宮殿の外来用寝室は、部屋面積が広く高価な宝石をあしらったシャンデリアや世界有数の羽毛を使用したベッドなどが贅沢の限りを尽くして備えられている。凡そ世界中の宿を探し回ったとしても、ここより財の掛かった客室はないだろう。

 目を覚まして最初にニーナの視界へ鮮やかな赤色の絨毯が飛び込んでくる。

 自分にはもったいないほどの部屋だと、ニーナは朝起きる度に思う。

ニーナは、ライアンの客人として待遇を受けているものの、自分のような者が王宮にいることを望まない人間も大勢いることは、嫌というほど肌で感じている。

――王子に遊ばれているだけの勘違い女、と裏で囁かれていた。

 彼の心の中が覗けたらいいのにとニーナは思う。

 最近のライアンは、政務などで忙しく一緒に過ごせる時間も一年前と比べると減っており、自分よりもそちらの方が大事なのかもしれないと嫌な方向に考えてしまうのだ。

 時間を持て余していると余計に考えてしまう。

 そんなニーナは、持て余している時間を街へ降りて潰すことにしていた。今日は、街へ出かけようと予定していたので早く起きた。時計の短針は五を指し示している。

空気は夜の冷たさを残し、朝日が世界を温め、鳥たちが静かに歌い出す刻だ。

 夏の国の朝は、今までにニーナが訪れたどの場所よりも爽快である。

 しかし、隣にライアンの姿がないと思うと、その孤独さが心を虚しくさせる。

 ネグリジェ姿のニーナは、ベッドから身を起こし、そこでふと違和感を憶える。閉じていたはずのカーテンが丁寧に束ねられていたのである。

 夏の清光が、幾本の光として部屋に降り注ぎ、爽やかな風が通り抜ける。レースカーテンが風に揺れ、その影が波のようであり、この部屋を陽だまりの海に変える。

「アネモネ……起きてたんだ」

 その中にパジャマ姿のアネモネ・ヴァレンタインを名乗った少女がいた。車椅子には座らず、膝から下のない足を重ねて寝かし、赤い絨毯に腰を下ろしている。亜麻色の髪が陽に煌めき、金糸にも思える。

 絵画世界の住人のように幻想的な景色の中心に彼女はいた。

 朝日に手をかざし、金糸雀色の瞳はじっと手の平から零れる光を見ている。まるでその手の内に大切なものがあるかのように、瞳は一点に注がれている。

 その景色は、夢のように美しく儚さを感じさせる。

 アネモネの手には、彼女にしか見えない大切な何かが存在している。一瞬、どうしてか確信を抱いていた自分がいたことにニーナは戸惑った。

「あ……ニーナさん、私、その……早起きで」

 こちらに気付き振り向いた彼女の頬には、一滴の涙が白い頬を伝っていた。

 アネモネは、動揺し、視線を赤い絨毯の上で泳がせている。

 離れ離れになった父、ヴェルドのことを考えていたのだろう。

 会えるわけがないのに、馬鹿みたいだ。そんな言葉が浮かんで胸がざわつく。その気持ちの悪さにニーナは我慢できず言ってしまった。

「あのさ、叶わない夢を追うとかやめなよ。苦しいだけでしょう?」

 先ほどまで己の世界にいたアネモネは、表情をしぼませ落ち込む。可哀想だが、それでいい。泣くほどに苦しいことを夢見るのは、見ている方も苦しくなる。

 アネモネは何も言い返さなかった。本気でヴェルドを見つけられるとは思っていなかったのかもしれない。

「何かごめんね。でも、アネモネのために言ったの」

 言葉と裏腹にニーナは、彼女の落ち込む姿に少し安心していた。

「さて!」

 両手で挟むように頬を軽くたたき、暗い雰囲気を切り替えて言った。

「今日は、外出しましょう!」

「外……ですか? 何時に帰ってこられますか? それと私は、この部屋で待っていればいいでしょうか?」

 アネモネは小首を傾げ、少し開いた形の良い唇が「一人で何をすればいい」と訴えかけてくる。

「アネモネ、何とかしましょうって言われたときは誘われているときなの」

「誘われている……私が?」

 人と話し慣れていない、そんな感じを覚える物言いだった。

 ニーナは何と言えばいいのだろうと考え、ライアンと街を散歩していたときに見かけた若い娘たちの言葉を借りた。

「そう、他にいないでしょ。私はね、アネモネと遊びに行きたい。普通の女の子同士みたいな遊びよ」

「遊び……」

 アネモネは、小さく呟き、やがて白い頬がほのかに赤みを帯びる。

「あ、遊びって……と、友達とするものでしょうか!?」

「そ、そうだけど、それがどうかした?」

「私……遊びに行ったことがありません。ど、どのように振舞えばいいですか。ノア様にも、ふ、振舞い方を聞いた方がいいでしょうか!」

「ねえ、もしかしてだけど」

 アネモネの動揺ぶりは凄まじく、ニーナは何となく彼女の内心を察していたが、念のため聞いておくことにした。

「友達いないの?」

 聞かれたアネモネの顔は、熟れた林檎ようになってしまっていた。

 それが質問の答えであり、何だかおかしくなったニーナは、声を出して笑い、このアネモネという少女のことを益々気に入った。

「いません……!」

 アネモネは頬を朱色に染め、顔を背けているが、その瞳は横目にこちらの反応を待っている。

 ニーナは、微笑みを湛え「じゃあ」と、座り込んでいたアネモネに右手を差し出す。

「私が最初の友達ね」

 アネモネの瞳が大きく見開き瞬きもせず固まっていた。そして数秒後、複雑な処理を終えたコンピュータのような低速な動きでニーナの手を握る。

 握られて、そっと胸を撫でおろす。

 外面は落ち着きを払っていたが、友達を作るという行為に酷く緊張していたのである。

「じゃあ、まずは出かける服装に着替えなくちゃ」

 服選びに迷うこと一時間半、ニーナは慌しくアネモネの車椅子を押して王宮を出た。

 庭の花壇に咲く白百合、青空に浮かぶ入道雲、気持ちの良い風が頬を撫で、何度見ても美しい世界だと感嘆の息を漏らす。

 日差し除けに青いリボンの麦わら帽子、白の半袖ブラウスをベージュのフレアスカートが上品に飾る。ニーナは、連れているアネモネにもお揃いの服を着させた。

 街娘のような桃色髪の乙女と、スノーホワイトの革リュックを背負った車椅子の娘。

 他人には、二人が仲の良い年頃の女の子に映っているだろう。

こんな風にライアン以外の人と出掛けるのは初めてだった。

黒の鉄門を抜け、傾斜の急な白い坂道を車椅子の車輪が滑り出さぬように慎重に降りていく。

一陣の風が吹いて思わず麦わら帽子へ手を伸ばし、それからゆっくりと顔を上げる。

藍色の瞳が瞬き、ニーナは、歩くことをやめて目下の景色に見入ってしまう。

 下った坂道の先に見えるは、おとぎ話の世界に例えられるカラフルな建物で賑わう港街、エメラルドグリーンの浅瀬から波紋のように広がるグラデーションのターコイズブルーの海、その景色にアネモネとニーナは息を呑んだ。

 気まぐれに、行きたい場所は決まった。

「今日は海に行くことにしよう!」

 ニーナがそういうとアネモネの頬が少し赤くなった。それは嬉しかったからだろう。

 こうして気まぐれな冒険は、希望に満ちて始まった。

――白浜の向こうには鮮やかな青のグラデーションの海、マリンスポーツを楽しむ人々の快活な表情が夏の国の風景を作り出す。

「これが海なのですね……ふわふわの泡が浮かんでいるみたいで素敵です」

「はやく行くよ!」

 波の音が好奇心をはやらせ、ニーナは海へと走り出したのだが、振り向くとアネモネは白浜にすら車椅子を走らせていなかった。

「どうしたの? はやくアネモネも来て!」

「えっと……私は多分行けそうもありません。見ているだけでも、楽しいですのでニーナさんはお気になさらず」

 「何で?」と聞き返すと、アネモネの眼は車輪と浜の砂を交互に見た。その視線の動きを見て、車椅子では砂の上を走れないのだとニーナは気付いた。

 何だ、そんなことか。アネモネの目前へと走って戻り、背中を向けて屈んだ。

 そして言った。

「ほら、背中にどうぞ!」

 彼女が中々こちらの意図を掴めず戸惑っている姿に一度嘆息ついて、強引に腕を引き寄せその華奢な身体を背負った。

「な、なになに!?」

 アネモネの身体は軽かった、ずっと不健康な生活を送っていたかのように。足がないことも理由の一つかもしれないが、それだけじゃない。思えば、美しい相貌に気を取られていたが、彼女の顔は少しやつれているようにも見えていた。

「ニーナさん、急にどうされたんですか?」

 覚えた違和感を塗り隠すようにすぐさま笑顔を作った。

 「おんぶしてあげる」とだけ返し、そのまま波打ち際まで歩いてサンダルを脱ぎ捨てる。透き通る水の中に片足を着けると想像以上の冷たさに声が裏返ってしまった。そのとき、背中に乗せていた小さな身体が僅かに揺れた。

「もう、今笑ったでしょ?」

「笑ってませ、んよ。本当です」

 声が笑っているではないかと、ニーナはアネモネには見えないが頬を膨らませて言った。

「笑った?」

「笑っていません」

「笑ったでしょ?」

「口角は上がっています」

「笑ってるじゃん!」

 そんな押し問答を繰り返すうちに、その馬鹿馬鹿しいやり取りがおかしく思えて二人して吹き出してしまった。それからニーナはゆっくりとアネモネを降ろし、水の中に膝を着けさせた。

 冷たいと言って瞳を大きく開くアネモネと、腹を抱えて笑うニーナ。

 同い年くらいの若い娘たちが、街で笑っているみたいに、ただ純粋に同じ時間をアネモネと過ごしているのだと、肌で感じられる。楽しいという感情は、きっとこの気持ちを言うのだろう。

 ニーナは、普段遠目で見ていた風景に自分もなれたような気がしていた。それは街の景色を彩る人々の日常と同じ世界を生きているような、そんな群体感にも似た思いだ。人間としては不完全なアネモネと、存在として欠陥品なニーナだが、どうしてだかこの時ばかりは、人になれた気がした。

 そしてそんな時間はあっという間に過ぎていき、短い空の季節は夕闇に染まる。先の見えない暗澹とした夜闇と寂しさを漂わせる茜色のグラデーションが、一日の終わりを世界に知らせる。夜の訪れを察した住民は、赤や黄色のカラフルな住居のベランダで干していた洗濯物を取り込み、それから街はランタンの橙色の光に照らされ、夕食の食欲をそそる匂いで満たされていた。

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