1ー6

 吐き出した息が、窓を白く曇らせる。

 春の国にも、冬が訪れていた。

 アネモネが太陽に手をかざしていると、ひとひらの雪が舞い降りてきた。

 それを初めに雪は、灰のように積もり世界を真っ白に支配してしまう。

 積もるだけ積もって、雲から生み出されるだけ生み出されて、やがては温かな春の日に晒され消えていくのだろう。

 降り始めた雪を誰かが美しいと言うのだろう。だが、溶け始めた雪のことを誰一人として悲しまない。消えゆく定めにある雪の悲しみなど誰も知りはしないのだから。

 足のない、色の見えない、両親を失った少女の悲しみなど、誰も理解できない。

――お父さんとお母さんが、いつ迎えに来てもいいように笑ってなきゃだめよ。

 優しい嘘が私を傷つける。

――君には笑って欲しかっただけなんだ。

 私の悲しみを肯定してくれる人はいない。

 世界は否定ばかりだ。

「アネモネ……ご飯よ」

「いらない」

 ヴェルドが旅に出て三週間が経った頃、アネモネは以前以上に周囲との関りを断ち、部屋の中で燻っていた。

 アネモネは、誰とも関わりたくなかった。ヴェルドが自分の気持ちなど理解しようとしなかったように、マリアだってきっと心のどこかでは自分のことを馬鹿にしている。

 どれだけ悲しんでいたって、前を向いて歩くしかない。そう思っているに違いない。

 憶測が延々とアネモネを苛んでいた。

 そんな彼女の元に一通の手紙が届き、マリアが扉の隙間から部屋の中へと届けた。

 さらにその差出人は、翌日も、その翌日も、アネモネに手紙を送り続けた。

 綴られた手紙は六通。六通目で、ぴたりと止まった。

 アネモネは、一通目に目を通した。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

この手紙が届く頃、月は一層冷たくなり、街には雪が降り積もっているだろう。

 そして私は、ずっとずっと遠くへ旅に出ているのだ。

 きっと邂逅は望めないだろう、私の愛が君に届くこともない。それは悲しいことだけれど、最も悲しいことは、君が本当の愛に気付かず生きていくことだ。

 だから、私は残りの一週間を使って君に、君のことを一番に想う人がいることを気付かせてあげたい。

  ヴェルド・ヴァレンタインより』

 二通目、部屋の扉の前には手紙と一緒に夕食のスープとパンが置かれていた。しかし、アネモネは手紙だけをとって扉を閉めた。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

 この手紙を読んでいるということは、少なくとも思いを受け取ってくれたということ。

 ありがとう、アネモネ。

 少し昔話をしよう。マリアがまだ二十代の、この小さな書店の看板娘だった頃の話さ。

 機械人形の私は、戦争が終わって自分が何のために生きているのか分からなくなっていたとき、ふと立ち寄ったその書店に彼女がいたんだ。今も変わらず置かれている店先の白いベンチで、本を読んでいると声を掛けてくれた。その本、面白いですよねって。

 その日から、私が書店を訪れる度に、待っていたかのように店の奥から現れて隣空いてます、と訊くんだ。返事しなくても隣に座るおかしな人だったけれど、気が付けば私も彼女がそう言って隣に座ってくれるのを心の何処かで待つようになっていた。

 待っていたのはなぜか考えて最近分かったんだ。どれだけ自分が落ち込んでいても、どれだけ自分が距離を置こうとしても、傍にいようとしてくれたからだと。

 次は、私たちが恋人になった話をしよう。

ヴェルド・ヴァレンタインより』

 三通目、手紙は昨日と同様に食事と共に置かれていた。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

 その日は、街中の緑葉に露の玉が輝く雨上がりの午後だった。

 マリアはいきなり交際を申し込んできてね、まだお互いの名前も知らないというのに。

 私はそのとき、答えに困った。これまでに人に恋をしたことがなくて、彼女が私に向ける気持ちが同じなのか分からなかったからだ。もし違っていたら、きっとそれは悲しい結末を辿る気がして、だけどそんなとき彼女の飴色の瞳は、真っすぐに私を映していて、訴えかけるんだ。絶対に悲しい思いはさせないと。

 そして恋は始まって、忙しかったけれど、一緒にいる時間が増えて、傍にいるだけで安心できるんだ。きっと、彼女のいる場所が私の居場所になったんだ。

 私は、一応軍人だったし、男だったけれど、彼女に守られていたのかもしれない。逆に彼女が私といて安心できたかどうかは分からない。マリアは自分の弱い部分をあまり言わないし、泣いたりもしない。それなのに健気で、相手のことばかり気にしている。

 毎日一緒にいたらそれが当たり前になっていて気が付かないかもしれないけれど、私は会えないことが多かったからそれがどれだけありがたいことなのか、身に染みて感じていた。

ヴェルド・ヴァレンタインより』

 四通目、手紙が届くのを待っていて扉を開け閉めしていたら食事を持ってきたマリアと目が合って、どうしてだか胸が切なくなって、アネモネは手紙だけを受け取った。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

 手紙を書くのは、とても大変なことなのだと身に染みて感じるよ。書ける環境が悪くて字が少し震えているかもしれないけれど、そこは許して欲しい。

 さて、今日はアネモネが春の国に来た日のことを話そう。

 君が来る前、あれはマリアの誕生日だったかな。どしゃぶりの雨の日で彼女の表情も曇っていたから、私は笑って欲しくて欲しい物はないかと聞いた。そうしたら彼女は娘が欲しいと言って、すぐに冗談だと言い直し、笑った。

 それが冗談ではないことくらい私にも分かった。本当ならもう結婚して子供がいてもおかしくない年齢だったからね。だが、私は機械人形で子供はつくれない。

 だから君を養子に迎え入れた。

 アネモネにとっては、私の行動が自分勝手に映っていたかもしれないけれど、それでも私はね、マリアに笑っていて欲しかったんだ。昔みたいに、どこかおかしくて、瞳にはいつも私を勇気づける光が宿っている、そんな彼女を取り戻したかった。

 幸せになって欲しいと願っていた。その願いはきっと無条件で、強いて理由をつけるなら私は気付いたからだ。

 マリアからたくさんのものをもらっていたことに。

 自分が悲しんでいるときに優しくされる喜びも。優しくしてくれる人を思いやることがどれだけ難しいかも。難しく、苦しく、困難を極め、力になれなくても傍にいたいと思うその気持ちを何と呼ぶのか教えてくれたんだ。

 アネモネ、ただ傍にいたいと思う気持ちを愛と呼ぶってこと。

ヴェルド・ヴァレンタインより』

 五通目、アネモネは、扉の前に置かれていた夕食の冷めていたスープを飲んだ。それから手紙に目を通した。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

 もう、長く書く必要はないかもしれないね。

 アネモネ、よく考えて欲しい。そして思い出して欲しい。

 君がこの街に来たとき、涙を流しながら君を抱いてくれた人がいたこと。

 君の車椅子を押して色々な景色を一緒に見て微笑んでいた人がいたこと。

 君の描いた絵を一番に見て、褒めてくれた人がいたこと。

 君の両親が帰ってこないのを一緒に待っていてくれた人がいたこと。

 君の瞳が色を映せなくても、変わらず抱きしめてくれた人がいたこと。

 その人はね、君のお陰でまた笑顔になれた人で、ずっとずっと君のことを想って見守ってくれているよ。

 愛しているんだ、アネモネのこと。

ヴェルド・ヴァレンタインより』

 六通目、アネモネは扉の前に置かれた温かな料理を泣きながら食べた。

『アネモネ・ヴァレンタイン様へ

 私は温かい料理が恋しいよ、アネモネ。

 君のことを楽しそうに話すマリアのことも、恋しい。

 アネモネ、最後に父親らしく説教を君にすることを許して欲しい。

 人はね、生きていればいつか死ぬ。機械人形も、例外なく、ね。

 だから後悔しないように生きて、最後は幸せだったって思いたいはずなんだ。

 でも、どうやったら幸せになれると思う?

 答えは人の数だけあるけれど私は、何のために生きているかが分かって、それを達成できたときだと思っている。

 私の生きる意味は、マリアを幸せにすること。

 私は、機械人形として軍隊の指揮官となるために造られた。そしてその目的を果たし、生きる意味を失ったと思った。だけどそれは違ったんだ。生きる意味は一つじゃなくていい、失くしたならまた自分で見つければいい。

 私は、マリアに愛してもらって幸せにしてもらったから恩返しをしたい、それが私の生きる意味になったんだよ。

 アネモネ、人生は失って気付くことの方がよっぽど多い。君は、自分の境遇があまりに不幸で悲しみの底にいて、何のために生きているのか分からなくなっているのかもしれない。それでも、君には笑って生きて欲しいと願う人が世界には少なくとも二人いる。

 それが誰なのかは、君の眼で確かめてほしい。

 さあ、会いに行ってあげなさい。必ず君を待っているから。

ヴェルド・ヴァレンタインより』

 アネモネは息も切れるほどに力強く車椅子の車輪を回し、キッチンへと向かった。コンソメスープの香りが廊下に漂っていて、今日の夕食を作ってくれているのだ。

 鼓動が早い、心臓が早鐘を打っている。

 そしてアネモネは、扉の前に相対しドアノブを回した。

 キッチンは久しぶりに入ったが、ずっとアネモネを待っていたかのようにそのままの姿である。

 キッチンに取り付けられたカウンターテーブルを暖色のランタンが照らす。テーブルには、お盆の上に肉料理とコンソメスープが並べられていた。アネモネには、その景色が全て灰色に映っている。それでもこの場の空気が温かく優しいことは感じられた。

 そして今まさにそのお盆をマリアが運ぼうとしていたのだろうか、しかし、その手には一つの額縁が握られていた。

 マリアがアネモネに気付いて、握っていたものを背後に隠した。

「あ、アネモネ!? こ、これは違うのよ、その私……」

 ああ、あの絵だったんだ。

 私が、見ていられなくなって捨てて欲しいとお願いした紅葉の絵だ。

 自分にとっては、どれだけ醜くて悲しいものだとしても、マリアにとっては大切な品だった。そのことをアネモネは理解した。

 理解して、泣きだしそうになって、それを堪えて、名前を呼んだ。

「マリア」

 名前を呼ばれた彼女は、アネモネの雰囲気が違うことに気が付いたのか、微笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 そして何も言わず、抱きしめた。

 抱きしめられて、アネモネはその無条件の愛に金糸雀色の瞳を揺らす。

「マリア、私ずっと、ずっと、自分が、独り、ぼっち、だと思って、て」

「うん」

 優しい声が、温もりの手が、アネモネを包む。

「でも、でも……! マリアは、私のこと……!」

「うん、うん」

「愛して、くれていた……元気になるのを、そっと待ってて、くれ、た」

 揺らして、言葉を紡いで、アネモネは泣いてしまった。

 辛くて、誰にも理解されない悲しみを独りで背負うのが苦しくて、アネモネは、ずっと傍にあった愛情に気が付かなかった。

 それがどうしようもなく悔しくて、悔しいのに嬉しくて、嗚咽交じりに言葉があふれ出

してくる。

――ありがとう、ありがとう、私も……大好きだよ……ありがとう、マリア。

 そんなアネモネに、明るい声でマリアは言った。

「一緒にご飯、食べよっか」

 アネモネは、この人の笑顔のために生きようと心に誓う。

 

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