1ー5

 もう季節は秋だ。

 夕日はとうに沈み、夜闇が空を覆う。夜が訪れたとしてもメインストリートの華やかな景色は、失われることなく、赤煉瓦の軒並みに吊り下げられていた色とりどりのランタンが光を灯し、それは夜空の星が街に降り注いでいるように思わせる。

 そんなメインストリートからは外れた位置にある一際背の高い黒光りするビルのレストラン、情景と表現するに相応しい夜景を背にアネモネとマリアとヴェルドはディナーを過ごしていた。

 ヴェルドは大統領という身分を隠すためか黒のハットを深くかぶっており、トレードマークのブラウンのスーツではなく濃紺のワイシャツに黒のスラックスを纏っていた。

 赤ワインを呷り、ヴェルドは光の宿った瞳にアネモネを映している。

「ひと月ぶりだな、アネモネ。元気にしていたか?」

 メインディッシュの肉料理がテーブルに並べられていたが、元々小食なアネモネには手に余る量であり、口を付けずにいるとヴェルドが言った。

「うん」

「本当? マリア、アネモネは元気にしていたか?」

 ヴェルドは、口元に笑みを浮かべているもののそれが演技であることをアネモネは知っている。仕事柄作り笑顔をしてしまうのが癖になっているのだろう。笑顔の下では、そっけないアネモネの態度に焦燥を覚えているに違いない。

 アネモネは、仕事を理由に家をほったらかしにしていたヴェルドのことをあまりよく思っていなかった。どんな人なのかも、家族のはずなのに知らない。

 自分を春の国へと連れて来た人という程度であり、どこかに連れて行ってもらったことくらいはあるかもしれないが、幼過ぎて憶えていない。

 アネモネが俯いて肉料理に視線を向けていると静かに近づいてきたウエートレスに下げられてしまう。代わりに氷菓子が並べられた。

「なあ、アネモネ。何か困っていることがあるなら言っていい」

 しかし、そんなアネモネの心情などヴェルドは露知らず、またあの嫌な笑顔を向けて言った。

「うん……」

「言ってみなさい、私は力になりたいんだ」

 真剣な声音で言われ、アネモネは委縮してしまいやはり目を合わせることが出来ず、それでも思っていたことを言葉にした。

 それは、ヴェルドの求めている言葉ではなかったが。

「もう……帰りたい」

 自分の心の脆い部分を暴こうとするその笑顔に耐えられず、居心地の悪さを露見させてしまったのである。

 ヴェルドはため息をついて肩をすくめた。

「アネモネ、少し話をしようか」

 ディナーを中断して向かった場所は小さな公園。そこでヴェルドとアネモネは二人きりになった。

 シロツメクサの生い茂る芝、白樺の木から吊り下げられた簡素なブランコと、東屋が一つあるだけの小さな公園だ。

 夜空に浮かぶ銀の月が冴え渡り、アネモネのいる東屋を照らし出している。公園という

 舞台にスポットライトという演出は、亜麻色の髪を神秘的に輝かせていた。

 銀の糸のように鋭い光である。

「こうやって二人きりで話したのは、お前を拾ったとき以来かもしれない」

 アネモネと相対するヴェルドの表情には、先ほどのような笑みは浮かんでいない。彼自身も、あの微笑みが歓迎されていないことは何となく気付いていたのである。

 しかしながら、長い間時間を共にしていたマリアと違い、ヴェルドはアネモネに対し、どのような表情を浮かべるのが正しいのか分からなかった。

「アネモネは、二人きりで話すのは苦手?」

 だからこんな風に探るような言葉を発してしまう。

 足のない少女。

 色の見えない少女。

 愛する娘。

 彼女のことを確かに大切にしたいと思っていたはずなのに、救ってあげられるような言葉が見つからない。

「うん」

 アネモネは、金糸雀色の瞳をずっと足元に向けたままで、淡々と返事をする。

 分かってあげたいのに、心に寄り添ってあげられないもどかしさが焦燥感を生む。ただ、その焦燥に従えば何一つ願った方向からは遠ざかってしまうことをヴェルドは長年の経験で学んでいた。

「そっか、実は私もなんだ」

 本当に不器用で、何から始めればいいか迷った。ヴェルドは考えてまずは自分を知ってもらうことからだと、口を開いた。

 家族だが、家族らしいことは何も出来ていない。

「私とアネモネが出会ったのも、確かこんな夜だったよ。色んな孤児院を回って、結局ど

の子も私を怖がってしまったけれど、偶然路地裏で見つけたお前は懐いてくれたんだ。雪が降っていたけれど、そんなこと関係ないくらいに嬉しくて温かい気持ちになったよ」

 アネモネと出会ったあの日のことなら幾らでも話すことができた。

 ヴェルドは、アネモネの車椅子の隣に座り、その白い手を温めるように握る。

 彼女を拾ってから十年が経つけれど、自分にできた父親らしいことは何一つない。

「なあアネモネ、今日が少しだけ特別な日だってマリアから聞いているかい?」

「うん」

「実は、大統領やめたんだ」

 そこで初めてアネモネは、顔を上げてその淡い黄色の瞳でヴェルドを真っすぐに見た。

 発せられた小さな声には、驚きが含まれている。

「どうして?」

「ほら、ずっと父親らしいことできてなかったからさ」

「それは……これからは家にいるってこと?」

「……家にいたいのは山々だけど、いられるのは一週間だけなんだ。一週間後にはこの国

を出て旅をしようと思っている」

 言い終えて、アネモネが再び視線を落とすのを見るとヴェルドの胸は締め付けられるように痛んだ。その思いを押し殺すように金属部分が露になった手を握りしめる。

 金属のかしゃりという音が鳴って、ヴェルドの焦燥感を煽る。

 機械人形ヴェルドの身体はとうに耐用年数を過ぎており、いつ壊れても不思議ではなかった。そのために自分が動けるうちは、アネモネとマリアのために何かしてあげたかった。

 あと一週間、それが凡そ自分の稼働可能な時間だろう。

 旅に出るというのは、誰にも自分の死を知られたくないという思いからだった。ヴェルドの焦りは、それが原因だった。

 自分に何が出来るのか。

「だけどアネモネ、一週間だけはずっと傍にいるよ。マリアと三人で出かけよう、そういやお前は、絵を描くのが好きだったな」

 滑らかな質感を持つ木箱には、「愛する娘へ」と彫られている。

 ヴェルドは、密かに用意していた品をアネモネの膝にそっと置いて、その蓋の金具留めを外し、開いて見せた。

 その全容は、八十色の宝石とはまた異なる蝋燭のような光沢をもったクレヨンだった。

 柔らかで、優しい色で、小さな子供が見れば瞳を輝かせ手に取る品だろう。

「それは芸術で栄えている秋の国で売られていたクレヨンだ。値段は張ったが、手に入ったよ。きっとアネモネも満足してくれるだろう」

 最後にアネモネと出かけたのは、メインストリートにある花時計だった。初めて彼女がこの街にやって来た日にマリアと待ち合わせをしていた場所でもあり、記憶している限りでは、楽しそうに花時計の絵を描いていた。

「……い」

「どうした、言葉も出ないくらい嬉しいのか?」

 ヴェルドは、その記憶を頼りに秋の国の商店街で必死に探し、アネモネの生き生きと絵を描く姿に思いを馳せながら土産として大事に保管していた。

 喜ぶ姿を頭の中で思い浮かべ、温めていた。

 何度も、何度も。

 幼い彼女のことを思い出して。

 機械人形は、忘れない、忘れるという機能を持たない。

「これからもたくさん絵を描いてくれ、私はアネモネの絵が――」

 好きだったんだ。

「こんなのいらない!」

 苛立ちを露にした静寂を切り裂く声が、夜の虚空に放たれ、やがて消えて行った。

 その声を追うようにして、アネモネの手が暗闇に白い線を残し、膝の上に置かれた木箱を振り払う。

 シロツメクサの芝へ飛ばされた木箱からクレヨンが放り出され、散乱する。その様子は、何とも虚しく、ヴェルドは一瞬言葉を失った。

 何というべきか、言葉を思案し、一度アネモネの方を見ると、彼女は唇を噛み肩を震わせながら頬に涙を伝わせている。

 「アネモネ……」

 頬の涙を拭ってあげようと金属の手を彼女に伸ばし、しかし、その手は戻され静かに空を握った。

 自分の気持ちをアネモネに届かせることは、無理なのかもしれないと、そう思った。

――こんなのいらない。

 その言葉が全てだった。

 ヴェルドは、何も言わず、散らばったクレヨンを拾い始めた。

 赤色、黄色、緑色、青色、自分には確かに見えている色を拾う。

 赤色、黄色、緑色、青色、自分には楽しそうに絵を描く娘の姿が見えていたはずだった。

 アネモネは、もう絵を描かない。そんな変化にすら自分は気付けていなかった。

 愛する気持ちだけでは、どうにもならないのだと知った。

 ヴェルドにとってアネモネは、あの日の小さな女の子のままで、それは姿形が変わろうと決して色褪せることなく記憶している情景で、いつまでも思い出せる。

――べるど、舌足らずな声で名前を呼んでくれた。

 君を抱きしめ、君にマリアとの愛を誓ったあの日の喜び。

――べるど、紅葉の中で寄り添う棒人間が二人、君は笑ってその絵を説明してくれた。

 仕事で時々しか会えない私にも、平等に幸せをくれた君を忘れない。

――ヴェルド、最近は一月に一度しか会えないね。

 マリアが寂しがっていると言ってくれた君に、誤魔化す様に微笑んだ。

「それもそうだな、ごめんよ、アネモネ」

 君をマリアに任せきりだったつけが回って来たようだ。最後くらい自分の愛情が届けばいいと都合よく思っていたが、それは無理みたいだ。

 せめて、自分が彼女のためにしてあげられること。

 それは、私の生きる意味を果たすことだ。

「でも、君には笑って欲しかっただけなんだ……」

「もう……話しかけないで」

 ヴェルドは、言われた通りに黙って彼女を家まで送り届けた。小さな書店の店先にある白いベンチにランタンの明かりが一つ、その傍で目を赤くしたマリアが帰りを待っていた。

 彼女にアネモネを任せ、ヴェルドは白いベンチに座って月を見た。

 そして多くの時間をこの場所で過ごしたことを思い出す。

「全て、この場所から始まったんだなあ」

 哀愁漂う夜の空気は冷たく、風に揺れる赤い楓の木々はただ静かで、一年中絶えず街を流れる花の香りは芳しい。機械人形は、その情景を忘れない。

 戦争が終わっても、生きる目的を与えてくれたこの街を、記憶し続ける。

 もう一人、ヴェルドの隣に座った。

「十五年ってあっという間だった」

 プラチナブロンドの髪、飴色の瞳が愛おしい妻のマリアが、あの日と同じように隣で座っていた。

 愛を誓った十年前も、出会った十五年前も、君は美しい。

「なあ、マリア……私がいなくなるって言ったら寂しいかい?」

「寂しい」

 即答だったが、「でも」とマリアは続けた。

「遠くに離れることでヴェルドが幸せなら私はそれでいいの。だって、あなたが愛を誓ってくれた日、決めたのだもの。私を幸せにしてくれたアネモネとヴェルドを今度は、自分が幸せにしてあげようって」

 紡いできた日々を彼女も憶えている。

「マリア……」

「ほんと、もらってばかりの人生だった。ヴェルドにも、アネモネにも。だから、二人がどんな道を歩んだとしても、私は応援したいし、できることならずっと支えていきたい。まだ私は、何も返せていないから」

 言葉は静かに、濃密に、心に染みていく。

 もらってばかりの人生は、自分の方だとヴェルドは心の中で呟いた。最後に自分がこの愛する妻のためにできることを考えて言った。

――遠く、遥か遠くへ旅に行こうと思う。

 でも、忘れないでくれ。

 飴色の瞳に誓う。

「私は、君を必ず幸せにする」

 言い残して、ヴェルドは書店を離れた。

 それからヴェルドは、メインストリートの花時計で待ち合わせしていた黒衣の男と落ち合い、春の国の夜景の中へと消えて行った。

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