1ー4

 先天性色覚異常。

 アネモネ・ヴァレンタインの金糸雀色の瞳には、灰色の景色が映っている。

 鮮やかな色彩とは無縁の世界。明暗だけが世界に溢れる物の形を構成し、あらゆるものが無機質な彫刻のように存在している。

 アネモネがそのことに気付いたのは、十歳の頃まで通っていた学校で、他人に指摘されてのことだった。指摘されて、最初に感じたのは苛立ちだった。

 どうしてこんな酷い嘘をみんなして私につくのだろう、と。

 だから彼女は、凡そ自分にとって最も信頼できる存在のマリアに聞いたのである。

 その答えを聞いてアネモネは、絶望して泣いた。

 息をするのも苦しいほどに嗚咽を漏らし、痛いくらいにマリアに抱きしめてもらった。

 あの日から、二年が経ちアネモネの生活は何もかもが変わった。

 かつてマリアと共に眠っていたベッドは、その温もりを忘れてしまったかのように冷たく、アネモネの部屋の隅に置かれている。店先に飾られていたアネモネが描いた何十枚もの絵は、全てマリアに捨ててもらった。一階の寝室は、物悲しいアネモネの部屋となったのだった。

――大人と変わらない大きさの手が、窓の外に浮かぶ夕日と重ねられる。

 アネモネは、手から溢れる光が弱いのを確認し、今が夕方であることを知った。幼い頃からやっていたその動作は、色の見えない彼女にとっては生きるために必要な知恵であった。とは言え、時計の読み方を理解した今では必要のない動作だ。

 それでも時折、手をかざしてしまうのは、きっと世界への憧れ。

「色のある世界」

 十六歳になったアネモネは、言葉で言い表すことが難しいほどの美しい相貌をしていた。

 亜麻色の髪は長く真っすぐに伸びており、一本が絹の洗練された繊維のように煌めいている。沈みゆく太陽を見つめる瞳は、金糸雀色で淡く透き通っている。整えられた眉と睫毛まで淡い黄色であり、白百合の花弁にも似た肌は、それらの存在が儚く美しいものであることをより際立たせている。林檎のような紅色の頬、形の良い艶やかな唇が妖艶であり、大人の女性を思わせる。黒のリボンタイワンピースは、アネモネの華奢な身体をより細く大人びているように見せるが、赤いリボンのお陰で少女としての可愛らしさを両立させていた。また、ワンピースの長い裾は、失った足を隠している。

 足のない少女。

 色を知らない少女。

 アネモネは、そんな自分を酷く嫌い隠そうとしていた。

「…………」

 もうしばらく絵は描いていない。それは、外に出なくなったというのもあるが、何より自分のように醜悪な人間が、何かを生み出したって価値がないような気がしていたからだ。

 絵を描くのをやめて始めたことと言えば、本を読むことである。アネモネの部屋の本棚にはたくさんの本が並べられていた。しかし、本を読むからといって好きというわけではない。本が好きかと問われればアネモネは、はっきりと首を横に振る。

 なぜなら本の世界には、自分の知らない世界が当たり前のように書かれており、まるで、アネモネを否定しているかのように傲然と存在しているからだ。

 世界のどこに目を向けても逃げ場なんてないと言われているような気分になった。どこまででも、アネモネが生きることを否定してくる。

 それだけではない、本はアネモネの生きる希望を奪った。

 戦争孤児、その言葉の意味を不運にも本が教えてくれたのである。

 いつの日かマリアが言っていたことも嘘だった。幸いアネモネがその意味を知ったのは、十四歳の頃であり、その嘘が自分を傷つけないためのものだったことくらい理解できた。

 それでも現実は、残酷だ。両親をこの場所で待つことが、灰色の世界での生きがいだったのに。

 ただ、そのことに目を瞑れば良い時間潰しにはなった。加えて語彙を増やすことにも貢献しているので読んでいる。

 アネモネはテーブルに置いてあった鏡を見つめ、重い息を吐いた。鏡には、自分の本性が映し出される。足がないことを暴き、色が見えないことを暴き、そしてその表情が氷像のように無感情で生気を失っていることを暴く。

 人生に希望はない。

 強いて述べるならば、生きていればいつか死ぬことが仄暗い明りのような希望だ。

 アネモネは、今日も思う。何のために生きているのだろう、と。

「起きてる? 入ってもいい?」

 部屋の扉が数回ノックされ、それからマリアの声が聞こえた。言いにくい話でもあるのか、こちらの様子を伺う声だ。

 アネモネがどう返事しようか思案していると、扉はこちらを待たずして開かれた。マリアは驚いたように固まり、どうやらアネモネが眠っていると思っていたらしい。

「あ……アネモネ、その、眠っていると思ったの」

「うん」

 アネモネと話しているときのマリアの表情は、いつの日からか悲しげである。

 いつの日からか、それは恐らくアネモネが戦争孤児の意味を理解し、一日をぼんやりと過ごすことが多くなったのを見て何か察したのかもしれない。

 妙な気まずさがあったのだ。マリアは、無理やりという風に微笑んでから話を始めた。

「それでその、話があって」

 今日は、ヴェルドが帰って来るから夕食は外食になる。彼にとって今日は、特別な日だから素敵なレストランを予約して先に待っている、とのことだった。

「ヴェルドも来て欲しいと思うし、たまには三人で食べるのも悪くないでしょう?」

 少し考えてから、その特別な日というのが気になったので行くことにした。アネモネは、入口に立って返事を待っていたのであろうマリアの横を黙って通り抜ける。それに続いてマリアが安堵の息を漏らし、アネモネの後に続いた。

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