1ー3

 アネモネとマリアとヴェルドの甘い春の匂いに満ちた日々が始まった。

 三人での生活というよりは、多忙を極めるヴェルドのいない、アネモネとマリアの自宅を兼ねていた小さな書店での暮らしだった。大統領という格式高い職を担う夫がいたとしても、マリアは贅沢な生活を望まず、ただ一緒になれればそれでいいという考えを尊重しての暮らしである。マリア・ヴァレンタインの飴色の瞳が開くと、窓から溢れ出す朝日の輝きに一瞬目を細

めた。昨日は、忙しかったせいか身体に疲れが残っている。

 しかし、そんな疲労感も隣で眠る少女を見つめると吹き飛んだ。

 足のないアネモネとの生活にあたり先んじては、二階の部屋に置いてあった寝具一式を一階のリビングに移した。夜眠るときは、幼いアネモネを昔飼っていた子犬を抱くようにして眠った。

 一人じゃない朝が、不思議で嬉しくて胸の内側がくすぐったい。

 マリアは隣で静かに寝息をたてているアネモネの額にキスをする。

 それから時間が経って空高くに日が昇るとアネモネも起きて、一緒に朝食を取る。

 檜のテーブルに並べられたものは、トーストと紅茶である。湯気の立つ紅茶は、香りを楽しんでから口に含み、風味を堪能する。小麦の薫るトーストにバターを塗るとそれは輪郭を柔らかくし、僅かに艶やかだ。アネモネが、きつね色の生地に歯を立てると耳触りの良い音がリズムよく鳴る。

 マリアが、その様子を眺めていると彼女は小首を傾げ、照れたように笑った。

――朝が始まる。

 食べ終えて、席を立ちキッチンに向かう足取りは弾むように軽やか。

 お盆に乗った食器の揺れる音、カーテンの開かれる音、水道から流れる水の音。

 瞬きする度に、違う景色が広がっている。

 そして、流れるように時間は進み始めた。

――マリアは微笑む。

 アネモネを車椅子に乗せて、メインストリートを歩く。道の脇に咲いた花々に、そよ風が奏でる緑葉の木々のコーラス、小鳥のさえずり。アネモネの瞳は、好奇心の輝きに満ち慌しく視線を動かしている。

――幼い手に先端に切り込みの入ったストローが握られている。

 季節が青々とした初夏の朝、書店の前の楓並木の道でアネモネとシャボン玉を飛ばした。

 石鹸水の入った小皿にストローの先をつけてアネモネがふーっと息を吐くと、泡が気球のバルーンのように膨らんで空へと昇っていく。太陽とシャボン玉が重なってシャボン玉が虹色に煌めいた。アネモネの瞳が瞬き、小さな手を虹色の風船に向かって伸ばした。

――かざした小さな手から陽光が溢れる。

 目の眩むような冴え渡る赤色の秋、爽やかな朝の陽光にアネモネは手を伸ばし、冷たくなった風が伸びた亜麻色の前髪を揺らす。車椅子に座った膝上には、キャンバスとクレヨンが置かれており、その真っ白な世界に色の線が走り出す。アネモネは暇があれば絵を描いていた。絵を描く際に見せる屈託のない笑顔をマリアは、宝物のように見守っている。

――書店の店先に額縁と共に飾られた子供らしい紅葉画。

 七歳になったアネモネは、学校に通うこととなった。普通の学校ではなく、生まれつき身体の不自由な子共や、戦争で身体の一部を失った子供が通う支援学校だ。マリアは、彼女のいない時間によくその絵を手に取って思いを馳せる。その絵は、不思議な色合いで、かろうじて紅葉を描いていることが分かるのだが、葉の色合いは赤と青が混じっている。

 そして紫色の幹の元には、棒人間が二人、一人は立っていて、もう一人は座っていた。

 二人は、マリアとアネモネらしい。

 独創的だが、この絵を見ると嬉しそうに説明してくれたアネモネの笑顔が蘇り、マリアはつい頬が緩むのだった。

 だからマリアは、この絵を見て思いを馳せるのだった。

 今、学校にいる我が娘は、どんな景色を見ているのだろう。

 マリアは、アネモネの真似をして昼の太陽に手をかざす。

――静謐な夜に細く幼い声が響いた。

 眠っていたマリアは、身体を揺すられ目を覚ました。ぼやけた視界にアネモネが映り、そしてピントが合うと彼女が目を赤らめていることに気が付いた。「どうしたの」と心配がって声を掛けると、アネモネは堪えていたのか声を上げて泣き始め、マリアの胸の中に飛び込んだ。そして涙の理由を話し出す。

「お母さんとお父さんが、どれだけ呼んでも、振り返ってくれないの。迎えに来てくれないの……」

「それは夢の話?」

「うん、お父さんとお母さんは、いつか迎えに来てくれる?」

 アネモネの揺れる瞳の奥には、返す言葉に迷うマリアの姿が映っていた。アネモネは、戦争孤児であり、既に両親は死んでいる。だが、幼い彼女はその言葉の意味を理解していないのだろう。

 何と返事するのが、アネモネを傷つけず、安心させられるのか考えて、マリアは微笑みを作って言った。

「大丈夫、ここで一緒に待ってあげるからね。お父さんとお母さんが、いつ迎えに来てもいいように笑ってなきゃだめよ」

 その言葉を聞いて安心したのか、アネモネは泣き止んでまた眠りについた。

――茜色の空に沈んでいく夕日へアネモネはまだ小さい手を重ねる。

 店先の楓並木には雪が降り積もり、白銀の世界に茜色の光の粉が散りばめられているような幻想的な景色が広がっていた。マリアは、その景色を一緒に見ようとアネモネを車椅子に乗せて外へと連れ出した。

 寒くないように赤青のツートンカラーのマフラーと、ブラウンのダッフルコートを纏わせ、雪の中に車輪の跡を残しながら歩く。

 一際大きな楓の前で立ち止まりマリアは「綺麗でしょ」と言ったが、何の返事もなかったので、アネモネの方を見た。

 いつものように、夕日に小さな白肌の手をかざしていた。

 十歳になったその横顔は、少し大人びたが、まだあどけなさを残している。しかし、その日のアネモネの表情はどこか物憂げであった。

「ねえ、マリア」

 視線は夕日に向けられたまま、白い息と共に言葉が発せられた。

 マリアは、微笑み首を傾げて見せる。

「怒る?  私が学校をやめたいって言ったら」

「どうして……?」

 責めることはせず、その理由を聞くとアネモネは小さく唇を噛んで話そうとしなかった。

 マリアは、言いたくないことなのだろうと彼女の気持ちを汲み、自分の方から聞いた。

「いじめられた?」

 アネモネは頷いたが、「でも、私が悪いの」と言って続けた。

「マリア、夕日は……茜色なの?」

 まるで確認しているかのような口ぶりに戸惑いながらも、マリアは答える。

「ええ、そうよ。とても綺麗な茜色で、雪にも反射しているわ」

 言い終えて、まだこちらに目も合わせずにいたアネモネの顔を覗き込むと、その瞳には涙の膜が揺らめいている。アネモネは、白い息を吐いて、それから大きく吸った。

 その瞬間の彼女の顔は、今までに見たことがないほど赤らんでいる。そして途切れ途切れに、細々と彼女は言葉を紡ぐ。

「マリア……私……わた、し」

――色が見えないの。

向けられた幼い美貌には、大粒の涙が流れていた。

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