1〜2

 マリア・ヴァレンタインは、二十五歳の時にヴェルド・ヴァレンタインと出会い恋人になった。とは言え、二人の出会いは、別段運命的なものではなく、どこにでもある男女の出会いの一つに過ぎない。ただ、マリアにとっては運命めいた出会いだった。

 両親から受け継いだ小さな書店を営むマリアは、透き通るようなプラチナブロンドの髪、飴色の瞳、細身の身体、白肌と聡明そうな目鼻立ちという端麗な容姿のお陰か、近所の男からは看板娘だともてはやされていた。もてはやされていたが、それを嬉しく思ったことも、だからといって驕ったこともない。

 マリアはそもそも異性を意識したこと自体今までになく、ずっと本に囲まれて、それに興味を惹かれ続けていた文学少女だった。

「どれだけ美しい花でも、咲かなければ意味がない」と両親に心配されているほどに、読書以外に興味がなかった。そんなマリアにも、あくまで彼女の主観だが運命的な出会いは、冷たい風が吹く梅雨に訪れた。

 街中の緑葉に露の玉が輝く雨上がりの午後のことだ。書店の店先に設置された白い長椅子の上に、雲の隙間から射し込む陽光に照らされ彼はそこにいた。

 本を片手に湯気が立つ紅茶を優雅に口元へ運んでいるその様を飴色の瞳が映したとき、一瞬時が止まったようにさえ感じ、正常に流れ出した時には胸が高鳴っていたのだ。それはまるで、耳元に心臓があるみたいだった。

 店先の通りに並ぶ楓の木から緑葉が、彼の広げていた本の一ページに舞い落ちた。

「あの」

 マリアは、カウンターを抜け出して彼に声を掛ける。「その本、面白いですよね」と。

 所謂、一目惚れである。

 それから彼を見かける度に。

「隣座ってもいいですか?」

 あるときは店番を放り出して。

「隣、空いてます? 空いてますよね!」

 もう、彼しか見えていないというのが丸分かりで、マリアは稀にみる一途さだった。

 そして一か月後の出会った頃を思い出させるような雨上がりの日。

「あの、私と付き合って欲しいです!」

「…………え?」

 戸惑うヴェルドの表情を見て、マリアは数秒考え言葉を補った。

「あ、そういえば自己紹介まだでしたね。マリアって言います、お名前聞かせてもらえま

せんか」

 互いの名前も知らなかったという盲目過ぎる恋の話には、マリアの両親も亡くなるまで笑い話として彼女をからかった。

「ヴェルド・ヴァレンタイン……です」

 無口なヴェルドが、自己紹介を返してくれたことが嬉しく、マリアは飴色の瞳を輝かせ

 その手を握り再度言った。

「付き合ってくれますか?」

 そして強引ではあるが二人の恋は始まったのだが、当然マリアはヴェルドのことを何も知らず、彼もまた同様である。そうした理由もあってか、周囲から見える二人の恋愛は初々しく映っており、世間から注目が集まっていた。勿論、注目される主たる理由は、元海軍大将ヴェルドの恋だったからに他ならないが。

 二月が経った頃、マリアは、彼が自分との恋にあまり積極的ではないことを不安に思うようになっていた。周りの言うように強引に交際を始めたせいなのか、本当は自分のことを好きではないのかもしれないと、根拠のない不安だけが膨らんでいく。

 破局という言葉が、夜眠るときに頭の中をぐるぐる回っていた。案じていた矢先、普段は忙しく会えないというヴェルドがマリアをディナーに誘ったのである。

 黄金色のシャンデリアが幾つも吊り下げられ、黒と白の落ち着いた制服を着こなすウエートレスが滑らかな動きで静かに料理を運ぶレストランには、訪れる人々の纏う雰囲気もどこか世離れしている。

 マリアは真っ先に「別れを切り出される」と内心で怯えていたが、当のヴェルドは普段通りの無口さで、言葉を発したのは、最後のデザートであるレモンソルベがテーブルに並べられたときだった。

「マリア」

「あ、えっと、あの、私、ソルベ好き」

「マリア」

 彼女は何とか悪足掻きをしようと話を逸らすも、頑なに名前を呼ばれ、ついに観念して視線をソルベに落とした。

「もう知っているかもしれないが、私は機械人形で、その、一応この国の大統領を務めている。だから君の思い描くような恋人にはなれないかもしれない」

「うん…………」

 いくら世間に疎いマリアでも、そのことには薄々気付いていた。自分は、叶わぬ恋をしているのだと、感じていた。余計にそれが不安に拍車をかけていたのだろうか。

 マリアの瞳が悲しみに揺れ、うっすらと涙の膜が現れる。

 しかしそれは、杞憂に終わった。

「だけど私も、出来るだけ君の理想に近づけるように努力する所存だ」

「うん……?」

「君の傍にいると何より落ち着くし、よく笑うようになった」

「笑ってるの?」

「こ、こう見えても私は、笑っているつもりなのだ」

「へえ、怒ってるのかと思ってた」

 自分の危惧が杞憂だったことを察し、ヴェルドをからかうと、彼は耳を赤らめながら話を続けた。

「笑っているよ、からかわないでくれ……だから、その」

「だから?」

「恋人として傍にいることを許してくれないだろうか」

 不器用なヴェルドなりの告白に「こちらこそ」と微笑んで答え、マリアは暫く愛する恋人のことを見つめ続けたのだった。

 その日のレモンソルベの味が、とても甘かったのをマリアは憶えている。

 二人の蜜月の日々が続くこと五年、二人の恋は大きく進展することとなった。

 それは、記録的な豪雨が二人を家に閉じ込め、よりにもよってマリアの誕生日に外出できなくなってしまった残念な日の出来事である。

 ヴェルドとは、週に一度会えれば良い方だというのに。薄暗い部屋の中でヴェルドと寄り添い合うようベッドに座っていたマリアは、窓を強く打つ雨水の礫を睨みつけていた。

 そんな彼女を見て気遣ってくれたのか、ヴェルドが言った。

「何か、欲しい物はないか」と。恐らくそれは、誕生日プレゼントのことを指していたのだが、マリアは少し意地悪なことを言ってしまった。

 溜まっていた不満をぶつけてしまったのかもしれない。マリアの年齢も今日で三十二歳になる。周囲の女友達も結婚して子供を授かって幸せそうだ。自分も望んだっていいじゃないか、そんな不満だったのだろう。

「子供、私、可愛い女の子が欲しい」

 ヴェルドが数回瞬きをして何も言わないのを見て、罪悪感が芽生えた。彼は機械人形で子供など作れないことを知っていた。それなのに、マリアは言ってしまったのだ。

 彼に人間じゃないと言い放っている気持ちになった。

「冗談、冗談。気にしないで、本当はカメラが欲しかったの。ほら、一緒に思い出を残していけるでしょう」

「わかった」

 そう一言呟いて、部屋の中はまた雨の音に包まれた。心配して覗いたヴェルドの横顔は、悲しんでいるようには見えず、どこか思案している、そんな面持ちだった。

 言葉にはしなかったが、マリアは、何か奇跡を起こしてくれるのではないかと期待してしまった。

 日付が変わる頃にヴェルドは、仕事で春の国を出て行ってしまった。一人でいることの孤独にこの頃マリアは耐えられなくなっていた。

 ヴェルドといる時間が安らぎとなっており、一際一人の寂しさに弱くなっているのか。

 それとも、周囲の同年代が幸せそうに赤子を抱いているのを見て、羨ましく思ってしまったのか。理由は、色々考えられた。

 しかし、一週間後、木漏れ日が波のように揺らめいている温かな春の日に期待したこと

は期待通りになった。

 メインストリートから外れたマリアの書店近くにある花畑、一輪草であるアネモネの花がそよ風にたゆたうその場所で彼女はヴェルドの帰りを待っていた。

「おーい、マリア」

 遠くから落ち着きのある低い声がマリアを呼んだ。

 冬の国へ行ってきたというヴェルドが、その手にボロボロのワンピースを着た小さな女の子を抱いて帰って来たのである。驚きで息が詰まりかけたマリアだったが、恐る恐る「どこの子、まさかヴェルドの隠し子!?」と尋ねると、彼は「私に子供を作る機能は、備わっていない」と苦笑した。

「この子は、戦争孤児だった。歳も、名前も分からないが、多分六歳くらいだろう。親を失ってから一度誰かに引き取られたみたいなんだけど、家を抜け出したのか一人で路地裏にいたんだ」

 そこまで言って、ヴェルドの表情が急に暗くなった。心なしか次に発した彼の言葉も重く妙にゆっくり感じた。

「それと、これから何を見ても驚かないで欲しい」

 これ以上語る必要がないとばかりにそこで言葉を区切り、その女の子のワンピースの裾を少したくし上げた。

 そしてマリアは、全てを知り言葉を失った。

 飴色の視界に映ったのは、白百合の花弁のように白い肌とそして膝から下に本来あるべきものがないということだ。

「この子、冬の国が爆撃されたときに崩れた建物の下敷きになってしまったらしくて、足

が潰れて壊死していたそうなんだよ。だけど、生きているだけで奇跡だ」

 生々しい戦争の古傷を前にマリアは、瞳を潤ませ、その膝に触れる。すべすべとしており、温もりを感じる。だが触れた瞬間、女の子がこちらを見ており、その金糸雀色の瞳は冷たい。緊張しているのか、表情は硬かった。

――しかし、間違いなく生きている。

「なあ、マリア。その……君が良いというならその子を私たちの家族にしないか?」

「家族って……ヴェルド、私たちまだ結婚すら……え」

 マリアは、ヴェルドの伝えようとしている想いに気付き、説明のつかない感情、しかし、胸の奥底から温かな思いが込み上げてきたのが分かった。

 彼と出会ってから五年が経っていた。

 あっという間のようにも思えるし、長かったようにも感じる。

 ヴェルドを好きになって、私の世界が彼だけを映すようになったあの日。

 彼のことを考えて喜びを感じ、彼のことを考えて苦しさを感じた日々。

 色々あったなと、どこか他人事のように思えるのが不思議だ。

 それでも、時間が戻っても、彼とまた一緒にいることを望むだろう。

 出会えて良かった。

――私は今。

「だからその……私は、その子に君との愛を誓う。君を必ず幸せにする、それじゃあダメ

かな」

 目頭が熱くなる、彼が傍にいるのに涙がこみ上げてくる。

 だけどそれは、寂しさじゃない、これからは一人じゃないのだ。

 無意識のうちにマリアは、口角を上げて泣いていた。眩しいほどに泣いていた。

「ええ、誓う。私も、この子に愛を、誓います」

 指輪はない、愛を誓う指輪は、不変の証はもらっていない。

 その代わりマリアとヴェルドの間には、温かな命が存在していた。

「私にも……抱かせて」

 そして初めて抱き上げた女の子は、とても愛おしい日の匂いがした。

 艶やかで肩の位置で整えられた亜麻色の髪が、陽光を受け煌めく。

 少し丸い頬が赤みを帯びており、柔らかい。

 冷たい瞳は、菜の花のように淡い黄色。

 唇は、ぷっくりとしており形が良い。

「怖かったでしょう……でも、もう大丈夫よ。このマリアが傍にいるわ」

 そう言うと緊張していた少女の表情が少し柔らかくなった。

 マリアは、この日のことを決して忘れないと心に誓った。晴れ渡る空に誓った。そして、自分をこんな気持ちにしてくれたヴェルドと少女に誓う。

 密かに誓って、微笑みながら少女を見ていると、彼女はその小さな口で言った。

「まりあ」

 少し不安気な表情をした少女が、舌足らずな声でマリアの名前を呼んだのである。

「今、今なんて言ったの!?」

 驚きと嬉しさが混じって、つい大きな声が出た。すると腕の中で抱かれていた少女は、気圧されたのか身体を縮めてしまった。

 一度息を吐いて、今度は優しくお願いする。

「そう、私がマリアよ。もう一度言って?」

 少女は、何が楽しかったのか今度は、眼を弧にしてマリアを見つめた。

「まりあ、まりあ!」

――ああ、なんて幸せなのだろう。

 感じていたことが、そのまま言葉として漏れてしまった。

 幸せだ。

 けれど、それが何によって構成されているのかは言葉にするのが難しい。

 たった一つ分かることと言えば、私は、満たされているということ。

 夫と娘をもった普通の家族、これから訪れる喜びの日々に心が躍る。

「ねえ、あなた。お名前は?」

 聞かれて少女は、目下に咲いているアネモネの花を指さして言った。

「アネモネ」

「そうよ、この花はアネモネっていうの。鮮やかな色で綺麗でしょ。それで、あなたの名

前は?」

「…………アネモネ」

「アネモネ、それがあなたの名前なの?」

「うん」

「アネモネ、ね」言ってマリアは、その響きを心の中で吟味して、再び微笑んでから感想を述べた。

「素敵な名前ね、アネモネ」

 艶やかな亜麻色髪に、金糸雀色の無垢な瞳、透き通る白肌の頬にほんのりとかかった紅色、まだ恋さえしたことのない幼い少女の顔立ちは愛らしい。

 あなたを愛する、確かそれがアネモネの花言葉だった。

「本当に名前が良く似合う子」

 少女の淡い黄色の瞳を覗き込んでマリアは思いを注いだ。

 これから長い時間をかけて少女を、アネモネを愛していこう、と。マリアは、この瞬間に世界一の幸福者になれた気がした。

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