1〜1 灰色のアネモネ

 ラシア大陸の中央に位置する春の国は、夢と見紛うほどに美しい自然と人々の温かな営みが調和した大都市である。春の国と呼ばれながらも、この土地には四季折々の風物詩とも言える景観が一年を通して巡っている。その景観を前にしては、訪れた誰もが息を呑む。春は鮮やかな色彩の花々が赤煉瓦の街並みを華やかせ、夏は高緯度であるため涼しく、夜空には飴細工のような繊細な輝きを持つ星々が散りばめられ、秋は目の覚めるような赤色の絨毯が街の景色を一変させる、冬は降り積もる雪の厳しさが人々の営みの温かさを気付かせてくれる。また、春の国は経済的にも発展しており、街を雅に魅せる色とりどりの服を纏った観光客や、一日にこの街を通る千本もの機関車と人の往来を盛んにする百台の馬車が、この国家の栄華を物語る。

 かつてこの土地は、殺戮のための機械人形を製造していた機械帝国の帝都だが、長きに渡る世界戦争の末、都は春の国へ生まれ変わった。

 そのため春の国は、誕生してまだ新しい。

 街並みも、語られる歴史も、行き交う人々の顔ぶれも。何もかもが新しく、多くの人が人生を歩き出すにはうってつけの街である。

 この街が帝都の上に建設された十年前、有名な詩人が言葉を残した。

――幸福な一時は、風のよう。いつの日か、この一時を思い出し、微笑む日が来る。

 きっと、誰もがその意味を知る日が来る。

 人は幸せを追い求める生き物だからだ。

「幸せを追い求める……か」

 ヴェルド・ヴァレンタインは、春の国の統治を任ぜられた大統領にして、かつて世界戦争にて帝国海軍の指揮を執った海軍大将である。彼が今現在の役を与えられるまでの経緯は、人に胸を張って語れるような栄光の日々とは程遠い。

 ヴェルドの歴史は、今から三十年前に遡り、機械帝国の兵器工場にて軍隊の指揮者となるべく製造された。その瞳に世界を映した瞬間からヴェルドは、軍の将校となるべく士官学校へと入校し、忘れるという機能を持たない機械人形の特性を発揮してあらゆる知識を吸収することに成功した。

 その後も順調に軍の指揮官としての評価を人間の政治家から勝ち取っていき、その後勃発した五年に及ぶ世界戦争では海軍大将に昇りつめ、機械帝国の野望たる世界征服に王手をかけた。しかし、戦争の雌雄を決したであろう海戦で、彼は人の心を持つが故にエラーを起こしてしまう。

――戦争を勝利へ導くために生まれた私は、戦争が終わってしまった後、何のために生きていくのだろう、と考えてしまった。

 戦争が終わって欲しくない、ヴェルドは生きる意味を失ってしまいそうで恐怖を感じ、機械帝国を裏切り戦争を長引かせた。

 だが、始まったものは、その瞬間から終わりへと向かうしかなく、十五年前に戦争は帝国の敗北にて終戦を迎える。

 そして喪失感の中にいたヴェルドに新たな役目が与えられた。

 帝国の解体と武力を捨てた国家の建国と統治、それがヴェルドの仕事。

 長身に加え筋骨隆々な体躯、白銀の髪はオールバックに整えられ、端正な顔立ちに深く刻まれた皺が厳格な印象を与える。ブラウンのスーツに青と赤のチェック柄ネクタイ、黒光りする革靴、彼の今の正装である。もう軍服は纏っていない。

 彼の執務室は、分厚いカーテンによって日の光を遮られており、薄暗闇に置かれているカウンターテーブルの上には、使い古した万年筆やネームプレートなど年季物が佇んでいる。全て就任した当時から使用しているものだった。

 けれど、そこに思い入れはない。

 たった一枚、小さな額に飾られていた写真を除いて。

 ヴェルドは黒革の座椅子座り、それらを眺め物思いにふけっていた。

 戦争が終結してはやくも十五年が経つ。

 生きてきた三十年、そのうちの殆どが思い出せず、だが、十五歳から今日までの十五年という時間が自分の人生の全てだったように感じられる。全て忘れてしまっているというより、朧げには憶えているものの映像的には思い出せないのである。

 戦争という盤上から敵という駒を排除するために費やした日々。

 やがて妻となるマリアと出会った日。

 戦場以外で自分が生きていることなど考えられず、何もかもを見失い怯えた夜。

――そして、私の人生を変えてくれた少女を家族に迎えた日。

 あの日、真冬の路地裏で凍えていた戦争孤児の少女を抱き上げ、改めて瞳を瞬かせたときのこと。それは、この世界に造られた時と同じように全てが輝いて見え、ヴェルドは自分の人生がやっと始まったのだと思った。

 ヴェルドは、机上に並べられていたものの中から写真の額を手に取り、無意識のうちに口元を緩ませる。

 額に被っていた小さな埃を払うと、皮膚が剥がれ金属部が見えてしまっている彼の手が、軋んだ音を鳴らした。長い間海上にいたせいか、身体の内側にある鋼鉄は潮風にやられてしまっており、いつ綻びが生まれ壊れてしまうか分からないほどにボロボロだった。

「壊れるとしたら」

 ヴェルドの口から小さく漏れた息のような声でそれは発せられた。

「壊れるとしたら、誰も見ていない場所で、悲しませずに生涯を終えたいものだ」

 本日をもって大統領という職を退任する彼は、写真に写る少女に向かってそう呟いた。

 少女の名は――。

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