灰色のアネモネ

西谷水

第零話 始まりの機械人形

 誰かの瞳が開いた。

 その瞳は、今はまだ幾重にもレンズが重なっただけの機械部品だった。

 機械部品は自分が何者であるか、そう考えるだけの意志を持たず、淡々と目前に広がる映像を映す。そこは狭く、古びた木造の物置小屋だった。長い間剃られていない散らかった髭を生やした、だが若い赤毛の男がこちらを覗き込んでいた。

 機械部品は意思もなく、機械的にそのレンズに男を映すと、彼は歯を食いしばり悔しげに俯いていた。口を動かして何か言っているが、聞こえない。


 誰かの瞳が開いた。

 次に開かれたとき、それは音を感知できた。

 広がる視界に映る赤毛の男の髪には、白髪が混じっている。

 その傍で女が縋りつくように泣いているが、それには目もくれず男は、こちらに何か言った。

「音が拾えている、やった成功だ。次は動作だが、資金が足りない」

 機械部品には、意味はまだ理解できない。

「もうこんなことやめましょう…………お願いよ!」

 女は泣き叫んでいたが、やはり意味は、分からない。


 誰かの瞳が開いた。

 次に開かれたとき、それは指示に従い動くことが出来た。

 そして広がる視界には、狭い物置小屋ではなく、リノリウムの床に真っ白な天井、壁はガラス張りの広い密室だった。

 透明な壁の向こうから赤髪の男は、こちらに向かって「立て」と言った。

 音に反応して、その瞳を有する何かは機械的な動作で椅子から立ち上がる。

 その様子を背後から見守っていた濃紺の軍の制服を纏った男たちが、眼を見開いていた。


 誰かの瞳が開いた。

 次に開かれたとき、機械部品は人間の形をしていた。赤髪の男が、手鏡を握りかつて機械部品だった人形を映した。

 十七歳ほどの少女の姿をしていた。髪は男と同じ紅葉のような赤色で、瞳は夕焼けを思わせる色をしていた。肌が虚弱さを思わせるスノーホワイトで、それはドールハウスに置かれている人形のように冷ややかな美しさをもっていた。


 誰かの瞳が閉じられたまま、じっと音を聞いている。

「どうせやったって無駄だ、やめておけ」

 これは赤髪の男の声ではない。

「一体、何のためにやってるんだ」

 別の人間の声だ。

「お前も、もう長くない。もっと、別のことに時間を」

 別の声。

「そんなことをしたって」

「関係ない……娘に、会いたいんだ」

 赤髪の男の声だ。

「もう少しだ、待っていておくれ」

 その瞳を有する人形は、言葉の意味を理解できるようになっていた。


 誰かの瞳が開いた。

 身体が滑らかに動き、音を感知し、その意味を理解できる。視界に映ったのは、あの物置小屋と白髪の年を取った男。

「嗚呼、なんてことだ」

 私は、その男のことを知っていた。

 かつて赤髪だった男のことを理解した。

 男は、瞳から涙を溢れさせ言った。

「やっと会えた、やっと会えたんだ……ソフィア!」

 生まれた頃から私は、別の誰かなのだった。


 私の瞳が開いた。

 ベッドで寝たきりの男は、白髪の老人となった。時々苦し気に呻く男の身の回りの世話を私はしていた。

「ソフィア」

 男は、私のことをそう呼ぶときだけ明るい顔になる。そして「偉いね……愛してるよ、ソフィア」と頭を撫でてくる。

 撫でられると不思議と鋼の胸の内側がじんわりと温かくなって感じた。


 ソフィアの瞳が開いた。

「今、近くにいるかい」

 普段通りの朝だった。

 カーテンを開けて陽光が男の部屋を満たす。

「パパ、私はここにいる」

 男に返事をしても、その眼は誰もいない天井を見ている。そっと手を握るとそのまま口だけを動かし、掠れた声で言葉を紡いだ。

「君を……縛り付けて悪かった。これからは」

――自由に、生きてくれ。

 そして男は、暫くして動かなくなった。

 男の表情を目に焼き付ける。

 もう私のことをソフィアと呼んでくれる人はいなくなった。ふと胸に手を当てると穴が開いているような気がした。

 ソフィアでなくなった私は、何のために生きていくのだろう。

――最初の機械人形は、亡くなった娘を想い続ける哀れな男によって造られた

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