第33話 観測気球
十二月の声を聞くまでもなく、クレイトン号事件対策本部は緩やかに解体された。陣場と北折が刑事然として振る舞ったのは半日ばかりで、本来の業務である特殊救難隊員として働く日常に戻った。
その後の調べで、明神要と水木颯也の繋がりが判明した。水木は「クレイトン号にいたのは明神要ではなく忠司だ」と証言したが、横浜市の中学校で社会科教師をしている忠司に犯行は困難であった。
クレイトン号が出航した十月二日金曜日、忠司は中学校で授業を担当しており、早引けもしていなかった。生徒や同僚教師ら複数の目撃証言もあり、忠司がクレイトン号の出航時から乗り込んでいた、という可能性は否定された。
翌十月三日土曜日、忠司は補習授業のために登校していた。新型コロナウイルスの影響で夏休みが短縮されたため、平日だけでなく、土曜日も授業を行うようになった。ただでさえ多忙を極める忠司が刑事のふりをして八丈島沖に停泊するクレイトン号内に忍び込み、小見船長を殺したと考えるのはどうしたって無理がある。
クレイトン号に明神要を乗船させた当人である北折も、忠司への事情聴取に協力した。ヘリからホイスト降下し、明神要を抱きかかえた時と同じように忠司を持ち上げてみた。兄弟だけあって骨格は似ていたが、筋肉の付き方が大違いで、北折の記憶にある明神要よりもずいぶんと華奢に感じた。
腐っても刑事の兄と、生真面目な社会科教師の弟の鍛え方が違うのは、当たり前と言えば当たり前かもしれない。北折の感触だけを頼りに忠司犯人説を否定するのはいささか乱暴ではあったが、水木の証言の不確かさを補強する参考意見にはなった。
クレイトン号内をモニターしたライブカメラの映像は、いくつかの場面が消去されていた。海上保安庁情報通信課の犯罪情報技術解析官によって消去された映像がすべて復元された。
船に出入りする人間は皆マスクを着用しており、北折忠司が乗船していないことを証明するには人間の目視では限界があった。だが、双子でさえ峻別可能な虹彩認証システムであれば、映像に「目」さえ映っていればよく、マスク着用は悪条件でもなんでもなかった。
最新の
とばっちりとでも言うべき水木の証言によって犯人候補に祭り上げられた忠司は、唐突な事情聴取に戸惑っていたが、事情を知るや、旧友である水木颯也に同情の念を示した。
「颯也はどんな最期だったんですか」
「焼身自殺です。定食屋みずきの跡地で亡くなっていました」
事情を説明する北折の声にも、やるせなさが滲んでいた。
「颯也、そんなに悩んでいたなら相談してくれたらよかったのに。でも颯也は僕を明神忠司として認識できない。颯也にとって僕は要兄さんでしかないんです」
北折との別れ際の明神忠司の声は、悲痛一色に色取られていた。
二件の殺人の首謀者と目される明神要はすっかり雲隠れした。
大麻の密売を手伝い、明神要の殺人を幇助した水木颯也は、刑事罰に問われたとしても情状酌量の余地があった。しかし現世にはもう未練などないのか、あるいは現世にはほとほと絶望してしまったのか、海上保安庁の取り調べから解放されると、父親の死をなぞるように故地で焼身自殺した。
なんとも後味の悪い幕切れだった。
「明神要はどこに消えたんでしょうか」
北折が言った。
「さあな。どこぞの外国に高飛びでもしたのかもしれないな」
陣場が吐き捨てるように言った。
クレイトン号事件の顛末は新聞やニュースで小さく報じられただけで、それほど大きな社会的関心を惹くことはなかった。海上保安庁がそのように報じてくれるよう、加害者家族に配慮したことも一因ではある。
「弟の忠司にとっては、このまま兄が消えたままでいてくれた方がいいのかもしれませんね。家族から殺人者が出たと大々的に報道されれば、学校の教師を続けてはいられない」
「明神要を逮捕したとしても肝心の凶器が見つからない。自白だけではまともに罪にも問えない。この件はもうこれで終わりだろうな」
オーシャン・コネクト社はその後、特別買収目的会社『
方舟代表のホムラ・シロサキ、オーシャン・コネクト社の社外取締役である伊地知俊興にも事情聴取をしたが、どちらも事件への関与を真っ向から否定した。
八丈島沖の海底ケーブルが切断されたせいで、東京都島嶼部では大規模な通信障害が起きていた。電話もインターネットも不通であるため、東京都知事を名指しし、「回線を何とかしろ」との怒りの投書が多数寄せられた。
つながる東京の旗振り役であり、コロナウイルスに打ち勝った証として、なんとしても東京五輪を開催したい都知事は、クレイトン号事件の捜査をさっさと切り上げるよう海上保安庁に命じた。
とんだ横槍であるが、クレイトン号が動けなくては海底ケーブルの補修に向かえない。二件の殺人事件の真相究明などは捨て置いて、とにかく通信障害の復旧を急がせよ、との通達だった。
人命よりも通信回線優先、さらには五輪優先という姿勢に現場は白けるばかりだが、表立って批判するのは北折ぐらいのものだった。
「オリンピック開催日に富士山が噴火する、という予言があったじゃないですか。伯父に聞いたんですけど、あれはデマのようです。火山弾が降った痕跡もない」
「まあ、そうだろうな」
陣場が興味なさそうに応じた。
北折の伯父は、高名な火山学者である北折獏だ。ここから北折による火山学の講義が始まるのか、と思うと、げんなりした。
「その話、長くなりそうか」
「端的に申し上げましょうか」
「そうしてくれ」
羽田特殊救難基地に待機している間中、火山についての講釈を聞かされては堪らない。陣場はすっかり聞く耳を持っていなかったが、北折が妙な質問を投げかけてきた。
「富士山が噴火したら、陣場さんはどこに逃げますか」
「そんなもの逃げられないだろう」
「そうですね。職務上、逃げられないと思います」
現実に富士山が噴火したとして、どのぐらいの被害になるのか、陣場には予想もつかない。被害状況次第であるが、救命活動に従事する海上保安官たるもの、おいそれと逃げられるわけもない。
「では質問を変えます。富士山が噴火して首都圏まで壊滅したら、政治家や知事はどこに逃げると思いますか」
「どう言う意味だ、それは」
「言葉通りの意味です」
「それこそ逃げ場はないだろう」
首都圏までもが壊滅するような被害となるならば、大物政治家だろうが知事だろうが、もはや逃げ場はないだろう。
「ホムラ・シロサキがオリンピックに乗じて売り込んでいたのは、深海移住計画だったようです」
無表情の北折が淡々と告げた。
「深海……移住?」
「東京島嶼部の深海域に選ばれし民だけがいざという時に逃げ込める深海未来都市を建設しているようです。まさしく
北折の言わんとしていることがあまりにも突飛過ぎて、陣場にはさっぱり理解できなかった。
「海の底に都市を作るだと? そんなこと……」
「ブルー・ガーデン社という未上場企業が水深三千メートルの深海に商業施設やホテル、住宅が入る複合施設を建設しているんです」
深海に住むなどまったくの夢物語のようで、信じがたい。
「そんなものが作れるのか」
「三兆円もあれば作れるそうですよ。工期は五年ほど、収容人数は五千人が限度らしいですけど」
「五千人ぽっちじゃ使い物にならないんじゃないのか」
「実際に使い物になるかどうかは問題ではないです。コロナ対策を方便にして海の底にオリンピックのサブ会場を作る。オリンピックが終われば、深海未来都市に早変わりというわけです」
深海移住計画。
深海未来都市。
ブルー・ガーデン社。
オーシャン・コネクト社とグレート・ホワイト社、いずれにしても地味な買収に終始していた『箱舟』の隠し玉であり、万人の耳目を集める
「ホムラ・シロサキはオリンピックマネーを奪う計画のようですね」
「北折、お前はどこでそんな情報を仕入れてきたんだ」
あまりの情報通ぶりに、陣場が呆れたように言った。
「三厨梨央からの又聞きです」
北折がさらりと種明かしをした。
「三厨は
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