第32話 ゴールデンパスポート

 明神要は、ホムラ・シロサキの所有する隠れ家でシャンパンを煽っていた。国籍も新しい身分証も、金さえ払えば手に入れることが出来る。欧州連合(EU)に加盟するキプロスは、自国の不動産に二百万ユーロ以上の投資を行う外国人に市民権を発行している。


 いわゆるゴールデンパスポートと呼ばれる制度である。


 第二のパスポートと言えば聞こえはいいが、実態は富裕層向けにEU市民権を販売しているに等しい。キプロス政府は資金洗浄の疑いのある投資家にほぼノーチェックでパスポートを交付するなど、ずさんな管理体制は国外逃亡にお誂え向きだ。


 明神の仕事はオーシャン・コネクト社の企業価値を棄損させることだ。クレイトン号内で二件の殺人を犯した手前、さっさと八丈島からトンズラしたかったのだが、肝心のホムラは優雅にシャンパンを傾けているだけだ。


 隠れ家の吹き抜けの天井は高く、だだっ広い庭にはヤシ科の観葉植物であるフェニックス・ロベレニーが無数に植えられている。庭にはヘリポートまで設置されている。プライベートジェットでいつでも飛び立てるはずだが、ホムラはソファから動こうとしない。


 今頃、オーシャン・コネクト社の経営陣は、海上保安庁から殺人事件があったことを知らされ、動揺が走っていることだろう。


 あとは経営陣がホムラの買収案を呑むのを待つばかりだ。ホムラはテーブル上のスマートフォンとパソコンを睨みつけ、先方からの連絡を今か今かと待っている。


 勝利の美酒は格別の味であるのに、ホムラはむっつりと押し黙り、グラスを手にしたままで一向に口に運ぼうとはしなかった。乾杯さえもしなかった。


 買収が完了するまでは心の底から酔えない、という慎重さがそうさせるらしい。だが、時間の問題だ。気骨のない経営陣であるなら、すぐに狼狽してホムラの買収案に飛びつくだろう。


 ホムラはまさしく方舟ジ・アークだ。自ら大津波を起こし、小さな助け舟を用意する。殺人事件のあった船の経営陣には二つの道がある。


 経営責任を問われ、捜査の矢面に立たされる茨の道。

 さっさと買収を受け入れ、元経営陣に成り下がる舗装された道。

 どちらを選ぶか、やきもきしながら待つまでもない。


「俺のゴールデンパスポートは用意してくれたのかい」


 沈黙を嫌った明神が話しかけると、ホムラは鬱陶しい蚊でも見るような一瞥をくれた。蚊を追い払うような仕草こそしなかったが、見下すような目にはぞくりとする冷たさが滲んでいた。


「水木颯也が事件の全貌を自白する危険性はないか」


 ホムラは明神の質問には答えなかった。どこまでも心配性なご仁のようだから、明神は安心させるように言った。


「大丈夫だ。水木はカプグラ症候群だからな」


 明神がほくそ笑んだ。


「……なんだ、それは?」


 ホムラの表情が歪んだ。世界の何もかも思い通りになると思っている男でさえ、カプグラ症候群のことは知らないようだ。


「いわゆる、そっくりさん幻想さ」


 身近な人間が瓜二つの分身ドッペルゲンガーに入れ替わったように感じる妄想に陥る精神障害。


 即ち、そっくりさん幻想。替え玉幻想、ソジーの錯覚とも呼ばれる。


「水木は自分の家族が偽物のそっくりさんと入れ替わっている、と妄想している。自分の父親さえ本物だと思えないのさ」


 明神要の弟である忠司ただしと水木颯也は地元の公立小学校、中学校で同級生だった。水木は幼い頃から浅黒い肌をしており、父親は老齢、母親もいなかったせいでガイジンの子だと散々に苛められた。


 ガイジンの「ガイ」は害虫の「害」だ。殴られても蹴られても、水木はへらへら笑っているだけで、やり返すこともない。


 正義感の強い忠司が助けに入ると、その時だけは嵐が止んだ。明神は二歳年下の忠司といっしょに登校しており、そこに水木がくっついてくるようになった。人知れず水木は悩みを抱えていた。


「ほんとうはぼくは父さんの子供じゃないのかもしれない」

「ほんとうの父親は定食屋によく来る客の誰かなのかもしれない」

「ぼくの母親はフィリピン人とかなのかもしれない」


 小学生の半ばから口にしていた妄想は、水木が中学を卒業する頃になってようやく名前がついた。


 カプグラ症候群――知っている人間を替え玉だと思い込む障害。


 水木は遂に自分のことまで替え玉であると感じるようになった。鏡の中に映った水木自身を見て、「お前は誰だ! お前はぜったいに僕じゃない!」と金切り声をあげて叫んだこともあった。


 水木の症状が最も悪化したのは高校生の頃だ。しかし年齢とともに徐々に収まっていた。他人の顔と名前が一致しないことはままあり、どいつもこいつも替え玉に見えたようだが、日常生活に支障がないぐらいまで症状は落ち着いた。


 症状が再び悪化したのは就職活動のせいだ。何社もの面接に挑み、そのたびに不採用となる。水木は不採用の理由を考えた。


 僕は本物の人間ではなく、替え玉の偽物だから採用されないのだ。


 中学の同窓会で、忠司は久しぶりに水木と再会した。しかし水木は忠司のことを認識できなかった。忠司がしきりに自分のことを思い出させようとすると、水木が口にしたのは「久しぶり、要兄さん」という脱力を誘う言葉だった。


「兄さん、颯也のことを覚えてる? 僕のことを要兄さんって呼んだんだ。僕が兄さんなら、兄さんのことは僕だと思うのかな。時間があったら颯也の様子を見に行ってあげてよ」


 面倒見の良い忠司からそんな電話がかかってきた。


 水木颯也など、幼馴染みの腐れ縁に過ぎない。そんな奴のことなど、警察官になってからはすっかり忘れていた。


 しかし、使と明神は思った。


 明神は神奈川県警から大麻をかっぱらったものの、販路に困っていた。大っぴらに売れば足が付く。保管場所も明神の頭を悩ませた。薬の売人を使おうかとも思ったが、信用できない奴は早々に裏切る。


 もしかすると、水木颯也は最高の手駒になるのではないか。大麻の保管場所になり、黙って売人となり、明神を裏切らない。


 明神の予感は的中した。


 非番の日に定食屋みずきに顔を出すと、水木の第一声は弾んだ声だった。


「久しぶりだね、忠司君。この前、要兄さんに会ったんだ」


 明神を弟の忠司だと錯誤している水木は、親しげに話してきた。明神は何度か店に通い、奥座敷に他人の目がない時を見計らって、灰茶色の大麻をちらつかせた。


「いい薬があるぜ」


 水木はたいへんな衝撃を受けたようだ。乾燥したパセリを微塵切りにしたような代物の正体は分からずとも、常に優等生だった忠司が変心し、悪の道に染まってしまったのだと思ったことだろう。


「僕はそういうのはやらない」


 水木はきっぱりと拒否した。違法薬物に手を出さない点に関しての意思は固かったが、不幸なことに水木は義理堅かった。幼い頃、自分を助けてくれた忠司にひとかたならぬ恩を抱いていた。


「これを保管して予約注文があったときに売ってくれるだけでいい。回収した代金は俺が顔を出したときに渡してくれ」


 明神が土下座せんほどに拝み込むと、水木は渋々ながらも大麻の密売に協力してくれた。大麻は水木の部屋に隠した。注文の暗号は水木の好物を拝借し、「トンカツとコロッケ、スペシャルミックス」とした。パソコン経由で隠語込みの予約があったときは店の奥座敷に案内し、食事を隠れ蓑に灰茶色の粉を提供することにした。


 明神は不定期に定食屋を訪れ、売上金を回収した。水木は売上金に手をつけることもなかった。働きぶりに感心した明神が協力金を手渡そうとしたが、水木は毅然として固辞した。


 そもそも定食屋に予約客は少ない。不自然でないぐらいに予約を絞ったので、一生遊んで暮らせるほどの大金にはならなかったが、明神の商売は順調だった。しかしコロナ禍がすべてを変えた。


 四月に緊急事態宣言がなされてからというもの、定食屋みずきも客足が遠のき、廃業もやむなしという風前の灯となった。客が激減したなかで、大麻の受け渡しなどすれば親父さんにバレてしまう。それ以前からも水木は親父さんから疑われていたのだろう。奥座敷で何かよからぬことをしていると勘付かれていた。


 事実が露見したとしても、水木は明神のことを売らないだろう。だが、水木の父親はリスク要因でしかなかった。


 定食屋みずきに足繁く通っていたのは、弟の忠司ではなく明神だ。カプグラ症候群の水木だけは明神を忠司だと思い込んでいるだけで、警察が聞き込みに来れば、すぐさま明神の存在を嗅ぎつける。


 水木の親父を始末しなければならない。それも出来るだけ早急に。


「定食屋に火をつける裏バイトを募集してみたらどうだ。面白半分の客が来るんじゃないか」


 忠司を装った明神は、苦境の定食屋みずきを救う助言を与えた。水木はなにも疑うことなく裏バイトの募集を始めた。


 その後、明神は水木を装った偽アカウントを立ち上げた。


 #裏バイト

 #指定の定食屋に火を点けるだけの簡単なお仕事です


 まずは水木が集客として裏バイト募集を始めた、というアリバイを作った。それから水木の模倣犯をでっち上げた。


 水木が店を離れ、水木の父親が調理を始めた瞬間を見計らって、定食屋に火を点けた。事前にガソリンをたっぷり撒いていたので、大麻の顧客とやり取りしていた証拠となるパソコンごと、景気よく燃えた。水木が戻ってきたとき、店は黒焦げになっていた。


 警察に事情聴取された水木がなんと答えてもいい。明神が撒いたガソリンの存在が発見されなければ、父親の失火とされる。誰かが意図的に放火したというのなら、息子の犯行である線が濃厚となる。二つの可能性が否定されたとしても、水木の模倣犯めいた書き込みが見つかる。捜査範囲は絞れるどころか、よけいに広がる。


 警察が明神に辿り着く頃には、ゴールデンパスポートを手にした明神はすっかり別人となり、EUのどこかで悠々自適に暮らしていることだろう。


 大麻を売り捌いて得たあぶくぜには、ホムラ・シロサキが代表を務める特別買収目的会社に投じる。収益が上がれば万々歳。万が一買収が不発に終わったとしても投資資金は利息付きで返還される。


 どちらに転んだとしても負けはない。大勝ちするか、手堅く勝つかの違いだけだ。ホムラ・シロサキという抜け目のない男が、まさか買収をしくじるとは思えない。仮にそうなったとしても、明神が損を被ることはない。


 絶対不敗の勝負ゲームだ。楽勝イージー過ぎて笑えてくる。


 腹の底から笑いが込み上げてきた。明神が警察官になったのは、成り行きに過ぎない。品行方正な忠司と違い、明神は素行が良くなかった。札付きの悪というほどではないが、そこそこの悪だった。


 中学生の頃、学校の敷地内で煙草を吸って停学になった。高校生になり、悪友と大麻に手を出したのがバレて、生活安全課の刑事に補導された。大量の反省文を書かされ、更生を誓わされた恨みは今も忘れてはいない。弟の忠司は、不道徳な兄を反面教師にした。


 明神はすっかり改心したふりをして、高校を卒業すると警察官となった。取り調べを受ける弱者になるぐらいなら、取り調べをする強者になったほうが良い。


 だが、そんな本音はおくびにも出さない。


 私を改心させてくれた生活安全課の刑事さんのような立派な人間になりたいです、とうそぶいて、まんまと警察組織に潜り込んだ。


 高卒から足掛け六年、それなりに真面目に奉職したが、明神の心の奥底にはいつだって刑事への反骨心が巣食っていた。大麻に手を出し補導された時は、弟の忠司は腫れ物を扱うように接してきた。


 弟のくせに明神を見下すような舐めた態度をしやがった。虫けらか、ゴミクズを見るような目だった。許せない。いつか殺す。いや、ただ殺すのは生温い。社会的に抹殺する。あっさり殺すより虫けらのように生きる方が何十倍も辛かろう。


 そうだ、いつぞやの刑事にも吠え面をかかせてやりたい。そんな子供じみた動機で、よく知りもしない人間を二人もあやめたと、いったい誰が信じるだろう。


 だが、それが事実だ。それこそが真実だ。二人を殺した真犯人である明神が姿をくらませば、誰が犯人に祭り上げられるだろうか。


 カプグラ症候群の水木が脅された相手は、明神要その人ではなく、弟の忠司だ。不幸なことに、。律儀な水木は忠司を庇うだろう。だが、執拗な事情聴取が続けば、水木とていつかは自白ゲロするだろう。


 僕を脅し、両目を抉らせたのは、明神忠司です。


 根負けした水木がそんなことを口走ったらと思うと、痛快だった。


 おかしい、どうにも笑いが止まらない。


 全身に力が入らず、ぐにゃぐにゃのクラゲのようになった明神はソファに倒れ込んだ。明神の手からシャンパングラスがこぼれ落ちた。大理石の床にぶつかって、グラスが粉々に砕ける。


「なっ……、ん、だ……」


 まともに呼吸さえできず、明神は苦しげに喘いだ。ゆらりと立ち上がったホムラ・シロサキは、手にしていたシャンパングラスを逆さまにし、琥珀色に泡立つ液体を明神の頭に注いだ。


「やっと効いたか」

「な……に…を…」


 何をしやがった、と明神が言おうとしたが、舌がもつれてうまく言葉にならない。全身が弛緩し、指一本とてまともに動かせない。


「筋弛緩剤と睡眠剤の混合カクテルさ。特別上等な味だっただろう」


 ホムラ・シロサキがぱちんと指を鳴らした。どこかに潜んでいたらしい屈強な男たちが現れ、無抵抗の明神を担ぎ出す。だだっ広い庭には、人ひとりが余裕で埋められるほどの大穴が掘られていた。明神は穴の中へ無造作に投げ込まれた。


 目に映る一瞬、一瞬の出来事がいやに鮮明で、スローモーションのように思えた。明神の頭上に大量の土砂が降った。


 足が埋まり、腰が埋まり、肩が埋まり、口と鼻を覆い隠すほどになっても、明神は身じろぎひとつできない。


 身体は言うことを聞かないのに、思考だけはいやに鮮明だった。明神はホムラ・シロサキの所有する私邸の庭下に埋められ、即身仏となるのだろう。穿った穴はフェニックス・ロベレニーで蓋をしてしまえば、警察の捜査でもない限り、掘り返されることもない。


 なるほど、これがゴールデンパスポートか。


 二度と帰って来られない片道切符……。

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