第18話 死神
「くそっ、くそっ、くそっ! なにが定食屋の息子だ。俺を殺しに来やがったんだな」
船長室に立て籠もった
船長室は公室と寝室からなり、公室は常時ドアを開けっ放しにしておく決まりだ。しかし、今は緊急事態だ。操舵室のすぐ隣に位置する船長公室の扉を完全に閉ざし、誰も出入りできないようにした。
それでも安心はできない。
船長個人のプライベート領域である寝室に逃げ込むと、そこに見知らぬ男が立っていた。体型は中肉中背。顔には黒いマスクをしており、人相がはっきりと分からない。
「誰だ……」
退路はすでに塞いでしまっている。小見の声は情けなくも掠れ、船長の威厳など微塵もなかった。男は何も答えず、小見の狼狽ぶりを楽しんでいるようだ。
「海上保安庁の人間か?」
「そんなはずないだろう。あんた、おめでたいな」
心底、見下したような声に小見の
オレンジ色の潜水服は着ていないから、特殊救難隊でないことぐらいは分かる。ワイシャツとスラックスというラフな出で立ちは、ほとんど匿名であることと同意だ。せめて船員の制服を着ていれば、肩章や袖章を見ることで職務や階級を把握することができるが、それも叶わない。
「あんたはもう用済みだよ、ご苦労さん」
男の手には刃渡りの長い刺身包丁が握られていた。小見は咄嗟に理解した。目の前のこの男こそ、伊地知船長の子種ではないか、と。
「ま、待て。待ってくれ。頼むから待ってくれ」
小見が必死に懇願するが、男は刺身包丁を腰だめに構えた。躊躇なく小見の左胸目掛けて突きかかってくる。
「船長命令は絶対だ! 待て!」
小見が腹の底から絞り出すように金切り声をあげた。伊地知船長が酔っぱらった際によく口にしたのが「船長命令は絶対だ」という、本音とも冗句ともつかぬ放言だった。
男は一瞬だけ立ち止まり、「おっ」という表情を垣間見せた。
「残念。あんたはただの傀儡だよ」
「待て、いや、待ってください。お願いします、命だけは」
小見の懇願も虚しく、男の握った包丁が左胸を貫通した。
「船と船長は運命共同体だろう。共に沈め」
男の高笑いには、はっきりと聞き覚えがあった。ああ、やはりな。さすがに親子だ。笑い方がそっくりだな、と小見は思った。
伊地知船長の寝込みを襲った角南のように、男は何度も、何度も、執拗に小見の左胸を滅多刺しにした。包丁を突き立て、抜いてが繰り返され、鮮血が噴き出し、だんだんと意識が遠退いていく。
小見の視界が赤く染まり、指の一本すら動かせなくなっていた。
伊地知船長もこんな風に刺されたのだろうか。だとしたら、よくぞ一命をとりとめたものだ。よほど悪運が強いのか、それとも生への執着が人並み外れていたのか。
船長命令にびくびく脅え、ただただ下僕のように仕えていた小見には奇跡の生還など、どだい望むべくもない。どんな名医が手を尽くそうとも、命の灯をサルベージできぬことなど知れ切っている。
それでも後生だから、どうか教えて欲しい。
俺の命を奪いに来た死神よ。
貴様はいつから、この船に乗っていた?
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