第15話 帰還不能点

 配管が剥き出しの浴室は冷え冷えとしていた。灰色の壁とステンレスの浴槽はどことなく死体安置所を思わせる。熱い湯に浸かっているのに、陽の気分は重々しかった。


「うえー、くせえ」


 シャワーを浴びながら三厨が憤慨している。執拗に髪を洗っているが、なかなか吐瀉物の臭いは落ちないようだ。口に水を含んではガラガラとうがいを繰り返し、何度も口をすすいだ。人間の目玉を飲み込んでしまった悪夢のような穢れをすすごうとしている。


「三厨、だいじょうぶ?」

「あのサイコパス野郎、あたしのぶっ殺すリストの最上位になりました」

「いいから、おいで」


 陽が手招きすると、三厨がざぶんと浴槽に飛び込んできた。


「あーーー、生き返るぅ」

「三厨って、けっこうオッサン臭いよね」

「……は? どこがすか」

「自覚はないんだね」


 船内の生活用水は造水装置によって海水から作られている。海水の風呂は少し身体が浮きやすい気がしないでもない。舐めるとほんのり塩辛いが、肌に触れてもピリピリするようなことはなく、入り心地は真水とそう変わるところはない。


 ただし、船内において水が貴重であることに変わりはない。航海のたびに、節水を心掛けて、と言われるため、個室のシャワーで済ませることが多い。


「ねえ、三厨」

「なんすか」


 三厨はオッサン扱いに不満があったのか、露骨に機嫌を損ねた。地の底から響くような声は対話拒否の前兆だ。


「司厨長を殺したの、彼だと思う?」

「100パー、そうでしょう。それ以外にだれがったんすか」


 恨み骨髄の三厨は、水木颯也が司厨長殺しの犯人であることを露とも疑っていないようだ。状況的にその可能性が高いとはいえ、陽はなんとなしに釈然としない気分だった。


「殺しの動機は?」

「そんなの知らねえっすよ。殺したくなったから、殺したんじゃないですか」

「でもさ、三厨。殺したいと思うことと、実際に殺すことの間には、天と地の隔たりがあると思うんだよね」


 殺意を抱くことと殺人を実行することをまったくの同列にするならば、三厨とて水木を殺していたと見なすことになる。


「それを言うなら、三厨だって殺意を抱いたでしょう」


「まあ、そうっすね」


「三厨の場合は殺意を抱いても仕方のない状況だったけど、彼にはどんな理由があったんだろう。なんの理由もなく人を殺したなら、そりゃあサイコパスで間違いないけどね」


「殺しの動機ねえ。知りたくもねえっす」


 三厨はふんと鼻を鳴らし、苛立った声で吐き捨てた。


「ライブカメラに殺人の現場が映ってないかな」

「映ってるかもしれないっすね。データごと消されてなければ」


 クレイトン号には、あらゆる所にライブカメラが搭載されている。船内WiFiによりタブレットでも映像を閲覧でき、複雑に入り組んだ船内状況を把握しながらの作業に一役買っている。


 搭乗階段タラップ脇にもライブカメラが目を光らせており、不審者が乗船していないか、HDDハードディスク容量が尽きない限り録画され続ける。


「密航者がいたなら、どこかのカメラに映ってるはずだよね」


 船内に設置されたライブカメラは二十七基。不審者が船に乗り込んでいたとしても、すべてのカメラに一切映り込まずに行動することはほぼ不可能だ。


 水木颯也は食堂に船員を並べ、人数を数えさせた。


 一人、足りなくない?


 水木がそう口にしたことが、どうも頭の片隅に引っ掛かっている。


「三厨は船から人が飛び込むのを見たんだっけ。水上バイクで走り去っていったのを見たの?」


 陽は三厨の言葉を正確に思い出そうとした。


 あれ、水上バイクですかね。走り去っていきました


「見た気がしたんですけど。だとしたら誰が逃げたんですか」

「さあ……」


 陽と三厨は互いに顔を見合わせ、首を捻った。


「31番目の乗船者がいたってことっすか。そんでそいつが司厨長を殺したってことすか」


「司厨長を殺したの、彼だと思う?」


 陽がもういちど同じ質問をすると、三厨の声に迷いが混じった。


「99%、そうでしょう」

「1%減ったね」

「サイコパス野郎を擁護するんすか」


 三厨にぎろりと睨まれたが、陽は少しも怯まなかった。


「擁護するわけじゃない。ただ疑問なの。犯人が誰であるにせよ、司厨長殺しの動機が分からないなって」


 びしょ濡れのまま風呂から上がったが、陽はバスタオルも着替えも用意していなかったことに気がついた。脱ぎ捨てた汚物まみれの私服に袖を通すことは考えられず、せっかく風呂に入って身綺麗になったのが台無しだ。


 どうしたものか、と陽が途方に暮れていると、三厨が廊下に待機中の北折に大声で呼びかけた。


「バスタオルくださーい。あと、着替えも」


 およそ恥じらいのない呼びかけに答える声はなく、天からバスタオルが降ってくることもなかった。


 三厨は人間の目玉を飲み込み、吐瀉物まみれになってから一目散に浴室に駆け込んだ。とにもかくにも穢れを洗い清めるのが先決で、風呂上がりに全裸で捨て置かれることなどはちっとも頭になかったようだ。


「しょうがない。部屋まで戻りましょ」

「裸のままで?」

「平気っすよ。なに、恥ずかしがってるんですか」


 三厨はまったく恥ずかしがる様子もなく浴室を後にした。置いてけぼりの陽は慌てて後を追う。船員は皆、食堂に集まっているのだから、付き添いの北折以外の人の目はない。


 そこは見て見ぬふりをしてくれたとしても、廊下の各所にある無遠慮なライブカメラは、陽と三厨のあられもない姿をきっちり撮影するだろう。


 密航者探しのためにカメラ映像を見直せば、陽と三厨の一糸まとわぬ素肌が捜査関係者の目に触れる。そんな生々しい想像をすると、あまりの恥ずかしさに顔から火が出そうだった。


「三厨、待って。待ってってば」


 陽は胸元と股間を両手で隠し、俯きながら走った。北折は気を利かせてくれたのか、どこにも姿が見当たらない。おかげで、気まずく対面することはなかった。


 ふだんは船内のあちこちにさりげなく設置された天井ドーム型のカメラなど、強く意識することはなかったが、今日ばかりは違う。羞恥心と怒りがむくむくと湧いてきて、つい破壊衝動に駆られた。


「許可なく監視してんじゃねえよ」


 陽は恨み言のように呟く。自室近くに差し掛かったところで、ほっと胸を撫で下ろしたが、私服のポケットに個室の鍵が入りっぱなしであるのを失念していた。男所帯の船内では、男性船員は個室の鍵などかけやしないが、女性の船員はそうもいかない。


「うわあ、最悪だ」


 元来た道を引き返し、個室の鍵を手にしてまた戻るとなると、一度ならず二度までもライブカメラに全裸を晒すことになる。これぞ恥の上塗りであり、まさしく帰還不能点ポイント・オブ・ノー・リターンだ。もはや後戻りできない。


 どうしたものか、と思って陽が隣室を見やると、ずぼらな天使は案の定、個室の鍵などはかけていなかった。


「ミクリオっ!」

「なんすか、なんなんすか」


 三厨が完全に扉を閉めてしまう前に、陽が大声で叫ぶ。


 幼気いたいけな流氷の天使がびっくりして上目遣いになったところで、陽はすかさず個室に雪崩れ込んだ。意図せずして抱きつく格好となり、陽の濡れそぼった髪から水滴がしたたり落ちる。


「陽さん、もしかしてあたしのこと……好き……なんすか」


 熟れたトマトのように真っ赤に頬を火照らせて、三厨が小声でぼそぼそ言っている。いつもと違って妙にしおらしく、ぷっくりした唇がてらてらと光っている。


「可愛いと思ってるよ」

「あたしも……陽さん、好きっす」

「そう。ありがとう」


 陽は後ろ手に鍵を閉め、狭い個室に二人きりになった。女同士で裸で抱き合い、どちらからとなく唇を重ねた。三厨の目がとろんとなっており、夢見心地のような蕩けた表情をしている。


「えへへ、陽さぁん」


 三厨がいやに甘えた声を出すので、よしよしと頭を撫でてやった。風呂上がりに全裸で船内を走り、ライブカメラに隠し撮りされるという稀有な体験をした者同士、妙な興奮状態にあるのかもしれない。


「ねえ、三厨」


 陽が大真面目な表情をして、三厨に向き直った。


「なんすか」


 三厨はごくりと唾を飲み込む。


「悪いんだけど、着替え貸してくれない?」

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