第3話 揺れとの戦い
船での料理は、まさしく「揺れ」との戦いだった。
突然の
司厨員として雇用された颯也は船体が傾くたびに右往左往した。なんとか両足を踏ん張って転倒するのを堪え、皿の落下をすんでで防ごうとした。しかしあと一歩で間に合わず、指先を掠めるように皿が床に落ちた。
乗船間もない颯也はその場にただ立っているだけでも一苦労で、皿を受け止めることさえ覚束ないが、
「皿、大丈夫か」
「すみません。何枚か落ちました」
「しょうがない。今日は少し揺れるな」
おいおい、これで少しなのかよ、という颯也の心の声が聞こえたのか、角南の両肩が軽く上下した。これが日常だぞ、早く慣れろ。肉付きの良い丸まった背中が雄弁に語っており、この程度の揺れで狼狽えるな、と言わんばかりの仕草だった。
「司厨長はぜんぜん動じませんね」
「海の足を持っているからな」
「……海の足?」
「船で長時間過ごすと、どんな揺れでもバランスを取って歩けるようになる。英語圏では
「これ、ふつうの揺れなんですか」
「近くで地震でもあったかな。マグニチュード4か、5ってところだろう」
慌てふためく颯也を尻目に、角南は平然としている。
颯也の着る白いコックコートは真新しいが、角南のコックコートはベージュで、年輪を刻んだ古木のような風合いが滲む。
「この揺れだとナイフとフォークを使うのは危険だな。おい、丸パンを持ってきてくれ」
「はい」
「切り込みを入れろ」
昼食に豆腐ハンバーグを用意していた角南は急遽方針を転換した。颯也にバーガー用バンズを持ってこさせ、豆腐ハンバーグをサンドした和風バーガーに仕上げた。レタスとしゃきしゃきのごぼうサラダを挟んで、てりやきソースを塗りたくれば一丁上がり。
クッキングペーパーで包めば手掴みで食べれるため、揺れる船内でナイフとフォークを使わせるよりもよほど安全だろう。味噌汁をマグカップに入れて本日のランチが完成した。定食屋ならば味噌汁はお椀に入れるべきだが、ここは船の上だ。洋上には洋上のルールがある、ということをまざまざと思い知った。
「運んでくれ」
「はい」
颯也はギャレーと食堂を往復し、和風バーガーを船員に配った。クレイトン号は最大六十名の乗船が可能だが、新型コロナウイルス対策もあり、搭載人員の半数での航海となっている。船員に食事を提供する司厨部は角南と颯也の二人だけだった。
父の営む定食屋みずきを手伝った日々と重なるところがあり、丸々とした角南は痩身だった父の面影とはちっとも似てやしないが、なぜだか懐かしい気分になった。
「揺れている船でどう料理するかばかり考えていましたが、揺れているなかで食べる側のことも考えなければならないんですね」
「フライヤーやオーブンは船が揺れると油がこぼれて火災を起こす危険がある。自分が火傷をするかもしれない。その日の海面状況にあった献立を考えるのが重要だ」
貴重な助言をくれたので、颯也は忘れないうちにメモした。角南は訥々と話しながらも調理の手を止めることはなく、手際よく豆腐ハンバーグを焼きあげていく。船員は交代で食事休憩を取るため、角南は頃合いを見計らって、和風バーガーを仕上げていった。
「複雑な調理はなるべく避けろ。これは切るだけ、これは焼くだけ、と手数を減らしたほうが安全だ」
「はい」
いちおうは頷いたが、颯也に複雑な調理を凝らすほどの腕はない。言われるがままに、肉や野菜を切ったり、焼いたり、揚げたりするぐらいがせいぜいだ。しかし船の上では、それで良しとされる。
「司厨長はどうして船に乗ろうと思ったのですか」
颯也が興味本位で訊ねてみると、親切な助言が不意に中断された。私的なことはあまり訊ねてはならなかったらしい。
「できたぞ。持っていけ」
「はい、すみません」
よけいな話はするな、と言わんばかりに釘を刺された颯也は和風バーガーと味噌汁入りのマグカップをトレーに乗るだけ乗せて、よたよた歩いた。あいにく海の足を備えていない颯也は不安定に揺れる船内を生まれたての小鹿さながらにぷるぷると震えながら進み、なんとか食事を落とさずに済んだ。
ちょうど食堂へと歩いてくる根本陽の姿が見えた。陽は後輩と思しき女性を連れていた。オレンジに近いピンクの髪は人目を惹くが、手書き風のクリオネのイラストが刺繍されたマスクのほうがよほど奇抜で、髪色よりも視線が吸い寄せられた。
「根本さん、どうぞ」
颯也が親しげに笑いかけ、和風バーガーを手渡す。
陽は心ここにあらずといった面持ちで、颯也に笑い返すこともなく、おざなりに小さく会釈しただけだった。昨朝、友好的に接してくれた人物とはまるで別人のようで颯也の心はさざ波立った。陽と見た目がそっくりなだけの別人だとすれば、ことさら親しく接しないほうが良いのだろうか。
「どうぞ」
連れの女性にもバーガーを手渡すが、こちらはどことなく敵意のある表情さえ浮かべており、「あ、ども」と小さく呟くばかり。
他の船員は「食べやすそうでいいね」などと好意的な感想を漏らしたが、大抵は何の反応もなく、拍子抜けしてしまう。颯也は女性二人の座ったテーブルにマグカップを置いて、そそくさと立ち去ろうとした。
と、そこへ、
巌谷は颯也のことなど目に入っておらず、ピンク髪の女性をぎろりと睨みつけた。
船内の組織は船長を頂点に、
エンジンをはじめ、船を動かす様々な機械の管理が機関部の仕事で、船舶の運航、貨物の管理、船体の整備など、航海と荷役に関わるのが甲板部の仕事だ。海底ケーブルの敷設と保守に従事する陽も甲板部所属の技術者だという。
「みぃー、くぅー、りぃいー」
「……すんまそん」
ミクリと呼ばれた女性は落雷から身でも守るように、さっと頭を防御した。ふて腐れ、反省の色のない態度が火に油を注いだのか、巌谷は怒り心頭の様子だった。定食屋の息子である颯也は客商売の常として、どんな相手にも愛想よくしておけ、と言われて育った。
「巌谷さん、どうぞ」
怒れる巌谷に和風バーガーを差し出すと、怒りの火が消退した。
美味そうな料理を目の前にすれば、怒りの感情はどこかへ消えてしまう。なんとも食欲をそそるハンバーガーと鼻孔をくすぐる匂いを前にして、それでも怒っていられるほうが難しい。
「食事、まだですよね。食べてから怒ってください」
「ん、ああ、サンキュー……」
颯也から和風バーガーを受け取った巌谷は大きな口でかぶりつき、ものの数十秒で食べ終えてしまった。口元にてりやきソースが付いているのも構わず味噌汁を胃に流し込んだ。怒りをぶちまけようとしたところを中座されたからか、巌谷はなんともばつの悪い表情を浮かべている。
「コーヒー、もらえるか」
巌谷が不機嫌そうに言い、これから食事をしようとしかけていた女性二人組から離れたテーブルにどっかりと腰を下ろした。
「はい、お持ちします」
颯也がにこにこ笑いながら答える。巌谷が退いたのを横目でちらちら見ていたピンク髪の女性がクリオネ柄のマスクを剥ぎ取った。颯也に向かって小さく頭を下げ、いやに馴れ馴れしく挨拶した。
「
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