深世界

神原月人

第1話 海底ケーブル敷設船

 今後もしつこく人類の世界が続くとして、二〇二〇年はどんな年であったと回顧されるのだろう。


 太平洋上から見た朝焼けの富士山に笠雲が覆い被さっている。


 雲はすぐに流れ、一所にとどまることなく形を変えていくものだが、富士上空の奇妙な形をした群雲は、待機命令を申しつけられた侵略前夜の宇宙船かのように、その場に居座っていた。


「UFOっぽいですね。地球最後の日の予兆でしょうか」


 海底ケーブル敷設船の甲板から身を乗り出した水木みずき颯也そうやが驚嘆の声をあげた。湿っぽい海風は生温かく、全身にまとわりつくようだ。


「ありゃ吊るし雲だな」


 巌谷いわや群治ぐんじはじょりじょりした無精髭を撫でさすり、さして珍しくもなさそうに言った。


「雨の前触れだ。上空の風が強く、湿った空気があると、ああなる」


 天から見えない糸に吊られたような姿だから、吊るし雲。笠雲も吊るし雲も、どちらもレンズ雲の仲間であるらしい。


「雲ごときで、いちいち騒ぐんじゃねえよ」

「すみません」


 横浜港を出港して間もなく、「あの雲、ヤバくないですか」と騒ぎ立てたものだから、巌谷のご機嫌はすこぶる悪い。


「いいか、颯也」

「はい」


 目がまったく笑っていないので、自然と背筋が伸びた。


 巌谷は、颯也の父が営む定食屋みずきの馴染み客だった。就職の世話をしてくれた恩人でもあるが、さすがに気安く話しかけ過ぎたようだ。


「俺とお前は友達じゃねえんだ。そこんとこ、勘違いするなよ」

「はい」

「仕事は遊びじゃねえ。UFOが飛ぼうが地球最後の日になろうが、任された仕事はこなさなきゃならない」


 颯也が分かりやすくしょぼくれると、巌谷は面倒そうにがしがしと頭を掻いた。荒げていた語気を心持ち丸めると、明後日の方向を見ながら、ぽつりと言った。


「親父さん、残念だったな」


 背中をぽんと叩かれ、巌谷はそれっきり何も言わない。船体前部にある居住区の方へ、のそのそと立ち去っていった。居住区は四階建てで、最上層に操舵室を含む船橋ブリッジがあると聞いた。


 颯也は父ひとり子ひとりの父子家庭で育った。颯也が物心つく前に母が急死して以来、父はひとりで慎ましく定食屋を切り盛りしていたが、新型コロナウイルスの蔓延が世界の様相を一変させた。


 営業は自粛せよ、しかし損失の補償はしない、という政府方針は、ただでさえ体力の乏しい個人経営の飲食店にとっては死刑宣告にも等しかった。


 不要不急の外出を禁ずる緊急事態宣言期間中は店を開くことさえままならず、ようやく店の営業は再開したものの、客足はぱたりと途絶えたままで、売上がゼロの日が続いた。ランチ用の弁当なども始めてみたが、焼け石に水だった。


 火の消えた寂しい店で、父もまた火が消えたようだった。当座の生活資金が底を尽き、緊急融資制度だけが命綱だったが、いざ銀行へと向かいかけた父の言葉が忘れられない。


「どうやって返すんだろうな」


 相談窓口は長蛇の列で、何時間待たされるかも分からない地獄のような有様に父は尻込みしたのだろう。返せる当てのない金を借り、その金さえも使い果たしてしまった後は、どう生きればいいのか。


 日に日に憔悴していく父の表情は虚ろで、明るい明日などもう来ないのだ、と悟り切ったように落ち窪んだ目をしていた。今思えば、あそこが死の淵であったのだと理解できる。しかし気丈にも父は、口だけは元気さを装おうとした。


「客足が戻るように、いっちょ新メニューでも開発するか。颯也、なにが食べたい?」

「父さんの作ったものならなんでも」


 颯也が口にしたことは紛れもない本心だった。とりわけ父の揚げるコロッケやトンカツは絶品だった。それだけじゃない。豚の生姜焼きだって、鯖の味噌煮だって、なんだって美味しい。わざわざ新メニューなんか開発せずとも、定番のものだけで勝負できた。


 厨房から油の跳ねる音がした。パチパチ、ジュワジュワ、という小気味よい音を聞くと、心底生きた心地がする。小学生だった頃はランドセルを置くなり、店を手伝い、カウンターの隅っこで宿題をして、酔っぱらったおじさんたちに見守られながら夕食を共にした。


「新メニューなんか要らないと思うけど」

「そう言うな。お前の好きな食材を買ってきてくれ」


 父に財布を渡され、颯也は渋々食材を買いに走った。ほとんどすっからかんの薄い財布をポケットに仕舞い、油でべたついた古木の扉を閉める際、ほんのわずかに父と視線が交錯した。口の端はうっすら笑っているようでもあり、油を見つめる目はどこか恍惚とした面持ちだった。


 久方ぶりに父の笑顔を見たような気がして、颯也は自身を勇めた。大学を卒業したばかりの颯也はコロナ禍を理由に就職の内定を一方的に取り消された。何十社と受けて、ようやく決まった一社であったのに、たった一本の電話で入社を反故にされた。


 颯也が内定を貰ったのは旅行代理店だった。役員との面接の場で、働き詰めだった父にゆっくり休んでもらいたいから、という素朴な志望動機を語ると、ことのほか琴線に触れたらしく、面接の最後の方には家族的な雰囲気さえ漂った。


「君のような若者にはぜひ我が社で働いてもらいたい」


 帰り際にそんな激励の言葉までかけてもらえたが、内定取り消しの電話は非情だった。観光客が大幅に減少しており、我が社の業績も見通しがつかず云々と説明され、それでお終い。


 電話が切れた後、全身から力が抜け、なんとも形容のできない虚脱感に襲われた。


 自分の人生、すべてがどうでも良い気がしてきて、どうせならば今日が地球最後の日になってしまえばいいのに、などと思いもした。


 颯也が震える声で内定取り消しの件を告げると、父は慰めるでもなく、ただ黙ってコロッケとトンカツを揚げてくれた。


 再開発という名の地域破壊によってどこもかしこも似た街並みになった挙句、テナントの家賃だけが高騰し、駅前にはチェーン店ばかりが乱立する昨今、父は定食屋を継げ、とは言わなかった。それどころか大学まで出させてくれて、将来はお前の好きにしたらいい、と言ってくれた。父には恩しかない。なんの恩も返せないけれど、せめて新メニューを考えるぐらいの手伝いは出来る。


 颯也の考えた新メニューが起死回生の起爆剤になって客足が戻るかどうかは定かではないが、この時ばかりはとことん知恵を絞り、あれこれと考えた。料理の味そのものではなく、映えだの、バズりだのが持て囃される風潮には虫唾が走るが、時代に迎合することで定食屋に人を呼び戻せるなら、背に腹は代えられない。


 ああでもない、こうでもない、と考え歩くうち、通りがやけに騒がしいことに気がついた。けたたましいサイレンの音と共に、何台もの消防車が目の前を横切った。


 颯也の胸に嫌な予感が走った。来た道を全速力で引き返すと、父の命とも言うべき定食屋が黒煙と赤い炎に包まれて燃えていた。


 一階が定食屋で、二階は父子の住まう住居スペースであったが、こじんまりとした建物もろとも黒焦げの炭になり、思い出ごと燃え落ちた。地獄の業火のごとき火事の衝撃は内定取り消しの比ではなかった。


 颯也はしばし息をするのを忘れ、その場に立っていられず、膝から崩れ落ちた。消防隊員に呼びかけられても、自分の名前さえ答えられなかった。


 事故だったのか、自殺だったのか、保険会社はいまだ判断を明らかにしていないが、その答えは永遠に明らかになりはしないだろう。それでいい。永遠に明らかにしてくれるな。


 父のことを考えると、雨が降る。吊るし雲などという雨の前触れなどなくとも、降るときは降るのだと知っている。


 古来より富士山は日本人にとって心の故郷であり、数多の画家がその姿を描いてきた。金色の雲海から顔を覗かせる荘厳な霊峰として描かれることもあれば、水墨金彩で描かれた富士図、叙情溢れる山水画もある。とかく富士は特別な山であり、日本人の心象風景を写し出す鏡である。巌谷は吊るし雲など珍しくもないと一蹴したが、颯也の目にはどうにも不吉な姿として映った。


「やっぱり、あれはUFOの襲来だよ」


 女々しい涙を拭ってみると、よけいにはっきりと不気味な絵面に見えてきた。富士山の頂上に乗ったシャンプーハットのような笠雲は宇宙船の母艦で、笠雲の上部に微動だにせずにいる吊るし雲は、母艦を守護する護送船団だろう。襲撃を受けている富士山は怒りを溜めているようであり、爆発の日も近いように思える。


「君、見ない顔だね」


 颯也がぶつぶつ呟いていると、妙齢の女性が物珍しそうにこちらを見ていた。前髪をかきあげたショートカットは海風に揺らぎもせず、凛とした佇まいからして船酔いとは無縁そうだ。青い作業着が海の色と同化して、ただのツナギ服がいやに格好良い。


司厨員しちゅういんとして入りました。水木颯也と言います」


 颯也がしゃちほこばって答えると、そんなに緊張しなくてもいいから、と言わんばかりに微笑んでくれた。


「船の仕事は初めて?」

「はい」

「いきなり船に乗ろうと思ったの。海に興味があったとか?」

「いえ、そういうわけではなく」


 就職活動の面接のように根掘り葉掘り訊ねられ、颯也が戸惑っていると、ツナギ服の女性がぷっと吹き出した。


「ごめん、ごめん。若い子がいきなり船に乗るなんて珍しいな、と思っていろいろ聞いちゃった」

「若い……ですかねえ」

「富士山を見て、UFOがどうとか言ってたでしょう。いやあ、若いなあって」


 馬鹿にされた風ではなく、気持ちの良い笑みだった。笑うと口元に笑窪ができて、そこはかとなく色気を感じた。


「あの、名前を教えてもらってもいいですか」


根本ねもとよう。太陽の陽と書いてハルカと読ませるつもりだったらしいけど、ヨウのほうが呼びやすいじゃん、と誰かが言って、私の名前はヨウになったみたい。適当でしょう」


 根本陽はオーシャン・コネクト社の有する海底ケーブル敷設船・クレイトン号に乗り込む海洋土木技術者であるという。


「会社と船の名前、初めて聞きました」


 颯也が平然と言うと、陽が驚きの声をあげた。


「船に乗るとき、なにも説明されなかったの?」

「細かいことはなにも」


 事前に説明されたのは、職場は船の中で、乗船期間は一週間から一ヵ月程度に及び、船内に居住すること、の三点ぐらいだ。


 司厨長の指示に従って食事の調理補助、乗組員への配膳、食器類の後片付け、食器洗い、食堂の清掃、ごみ出しをこなし、一日三度の食事を用意したら、それ以外の時間は休憩時間だと聞いている。


 定食屋だった父に料理の基礎技術は教え込まれていたので、船の中という環境に慣れさえすれば、仕事自体は問題なくこなせそうだ。


「パスポートはあるか、って聞かれなかった?」

「はい。船に乗るのに、なんでパスポートが必要なんですか」

「世界のどこかで通信障害があったら世界のどこにでも駆けつける。感覚的には消防署にいる消防車と同じだね」


 オーシャン・コネクト社は海底ケーブルの「敷設」と「保守」を中核事業にしている。保守作業中心のクレイトン号はふだんは母港の横浜に停泊し、いざトラブルがあれば二四時間以内に出航する。


「作業が終わったら横浜に戻って次の出航を待つ。出航時は日本を出ることになるから出国手続きが必要で、帰港時には入国手続きが必要なの。だからパスポートには日本を出国後、別の国に立ち寄ることなく入国した記録のスタンプがたくさん並ぶんだよね」


 海洋土木技術者の多くは一年のうち、一五〇日から二〇〇日ほどを洋上で過ごすという。むしろ陸地にいるほうが珍しいようだ。


「海底ケーブルって、故障するものなんですか」


「底引き網の漁具に引っ掛かったり、海底の岩に擦れて切れちゃったり、大きな地震があると地滑りや海底の地形が変化して、複数のケーブルが複数地点で同時に切断されたりもする」


 海底ケーブルの最大のリスクが「ケーブルの切断」であり、東日本大震災が起きたときには、二〇地点以上の切断箇所を四カ月以上かけて修復したそうだ。


「いまや通信インフラは電気、道路、水道と同じくらい、生活に欠かせないものでしょう。当たり前に繋がるインターネットを実現するのが私たちの使命」


 陽がしきりに力説するが、いまいち海底ケーブルの重要性が分からない。たった一本、ケーブルが切れただけでそんなに大事になるのだろうか、と颯也は内心で思った。


「イエメンはたった一本のケーブルを失うだけで、二千八百万人の国民がインターネットを使えなくなった」


 半信半疑な表情を見透かされたのか、陽が付け加えた。


 アラビア半島の南端に位置するイエメンはインフラ整備が遅れており、バックアップの接続手段も限られることから、たった一本のケーブルの不調で国全体がインターネット不通に陥る。


 イランやカシミールのような紛争地域ではインターネットの遮断が政治的手段として利用されてきたが、イエメンのケースでは陰謀が絡んだ切断の徴候は認められない。船のアンカーなどが絡んで、うっかり切断してしまったのだろう、と結論付けられた。


「海底ケーブルを増やせば済む問題なんですか」


 陽は、そう単純ではないとばかりに首を振った。


「ケーブルを追加すればするほど、引っかかったり、壊れたりするケーブルが増える。ケーブルが増えて多様化するのは素晴らしいことだけど、地上や海底の地形、航路といった制限もあって一筋縄ではいかない」


「いろいろ大変なんですね」


 颯也が月並みな感想を口にすると、陽はなんとも言えない表情を浮かべた。この子、ほんとうに理解したのかな、と言いたげだ。


「インターネットは通信衛星で繋がっているイメージがあります」


「そういうイメージを持っている人は多いね。メジャーリーグの中継とか、外国からのテレビ中継はみんな衛星でやってくると思っているのだろうね」


「違うんですか?」


「昔は衛星中継がほとんどだったけど、今は海外との通信は九割方海底ケーブル経由。海底ケーブルで送るほうが衛星中継より速いし、雨や台風の影響も受けにくい」


 日本とアメリカの距離は九〇〇〇キロだが、通信衛星は地上から三万六〇〇〇キロ上空にある。電波は上ってから下がるため、二点間の距離は七万二〇〇〇キロになる。地球上の二地点を結ぶ距離は、海底ケーブルの方がずっと短いため情報が速く届く。一秒間に送れる情報量も桁違いだ。海底ケーブルは通信衛星の一〇〇〇倍以上もの大量の情報量を伝達することができる。今や光ファイバーによる海底ケーブルは世界中のインターネットで交換されるデジタルデータ量の九割以上を担う通信の大動脈だ。


「海底ケーブル、めちゃくちゃ凄いですね」


「海の底に沈んでいるから、普通に暮らしていたら実物を見る機会はないし、いまいち重要性がぴんとこないんだけどね」


 陽はツナギ服のポケットからスマートフォンを取り出した。


 液晶画面に世界地図が表示され、網の目のように張り巡らされた海底ネットワーク図サブマリン・ケーブル・マップが表示される。


「どう、血管みたいでしょう」

「地下鉄の路線図みたいですね」

「そういう意見もあるね」


 二〇二〇年現在、海底ケーブル網は世界に約四〇〇本あり、持ち主も様々だ。海底ケーブル専門の事業者、旧来の電話会社の事業者、GAFA――グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン――のプラットホームを通じて、メッセージや音声、動画などのコンテンツを提供するOTTオーバー・ザ・トップ事業者を含めた事業体の共同所有で敷設されている。


「ケーブルが切断されるのはだいたい事故だったり、自然災害だったりするんだけど」


 陽は手庇をして、眩しげに富士山を眺めた。


もちらほらある。ケーブルが設置されるのは、いちばん深い所だと深海八〇〇〇メートルとかだよ。富士山が丸々二つ沈むような深さに人の手が及ぶと思う?」

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