泡沫の夢

卯月

泡沫の夢

 私達は人間でした。

 なんて言っても、きっともう誰にも信じてはもらえない。鱗に覆われた自分の足を撫でながら、小さく息を吐いた。コポッと私にしか聞こえない音と共に小さな泡がゆっくり昇っていく。ああ、今日も水は冷たい。

「調子はどうだい、三一三号」

 軋んだ音を立てて開いた扉。視線を向けなくても、入ってきたのが誰かは分かっている。

「別に、特に変わりないですよ」

「それは重畳」

 人当たりの良い笑みを浮かべる男にもう一ヶ月ほど同じ報告をしている。水を掻いて透明な壁にそっと手のひらで触れる。無機質なそれは体に纏わりついている水よりよっぽど冷ややかに、私を外の世界から隔絶していた。

「外に出たいの?」

「そうかもね。でも、もう私の世界はここでしょう?」

「そうだね。別に生きていけなくはないけど、歩けないし息苦しいだけだからお勧めはしないでおくよ」

 四方を石造りの壁に覆われた小さな部屋。殺風景なその中で唯一家具と呼べるテーブルにひろげられた、色彩豊かな小さな石のようなものを男は数種類指先でつまみあげた。ランプの光を反射してテーブルの木目に色を落とす。

「今日は何色がいい?」

「……何でもいい」

「そう言わないで。君は明日には出荷されてここに居ないんだよ? 最後くらい仲良くしようよ」

 ああ、なんて白々しい。相手をするのも面倒になって、私は黙って深い所に潜った。私が何と答えても与えられるものはどうせ変わらない。私が赤と答えたって、どうせ朝に与えられるのは緑と黄色とオレンジ。お昼はピンクと青と黒。夜は赤と紫と白。何を言っても何をしても変わらないのに、変えてはくれないくせに。

「馬鹿みたい」

 頭上からゆっくり降ってきた光は緑と黄色とオレンジだった。

「じゃあ、またお昼に来るね」

 私の反応など気にしていないことは、態度から丸わかりだ。ヒラヒラと手を振って、まるで友人と別れを告げるような軽い口調で扉の向こうへ消えた男を頭の中で溺死させながら、黄色を口に含んだ。黄色のくせに味は葡萄だから、これを作った人間はきっと一般常識が欠けている。

「美味しいの?」と、隣の鳥籠から、か細い声がした。

「美味しくないよ」

 私はそう答えてオレンジを口に放り込んだ。これは苺味。

 話は終わったと思っていたのに、珍しく隣人は羽を震わせながら鳥籠の柵を揺らした。声より細い指が必死に柵に絡みついている。目を合わせないようにしながら、ゆっくり口の中の苺味をかみ砕いた。

「ね、一個でいいから食べさせて」

「ダメよ。ばれたら私が怒られちゃうじゃない」

「どうせ明日には出ていくんだからいいじゃない」

「良くない」

「ケチ」

「ケチじゃない。もし私がそのせいで死んだらどうするのよ」

「どうせ、ここに居たって出て行ったって死ぬのよ。こうなった私達が外に出たからって幸せになれると思ってるの? あの男の手から逃れただけなのに?」

 甲高い声がうるさくて、思わず耳を抑えながら隣を睨みつけた。初めて会った時は「天使のように愛らしい」だの「ナイチンゲールのような声」だのと誉めそやされていたのに、今では見る影もない。

「五月蠅いな……あの男に逆らって、ご飯すら満足にもらえなくなった貴方と一緒にしないで。一生出られなくなったからって当たらないでよ」

 持ち上げられて天狗になっていたこの少女に、同情する者は誰もいなかった。しかしむしろ、あの変態に一生飼い殺しにされていた方が良いんじゃないかと、買い手がついてから思うようになった。あの男の手を離れて、どんな目にあわされるか分からない。なにせ返品されてきた仲間はいないのだから。

「ま、何でもいいか」

 隣の天使の言うことは正しい。どうせいつか死ぬのだ。死ぬまでに見る顔がいくつ増えるかなど、きっと私達には些末なこと。

 そっと、もう脚と呼べなくなった鱗だらけの下半身を撫でた。ざらざらと手を斬りそうな固い感触。こんな人工物を欲しがる好事家なんかどうせロクな奴じゃない。

 一個だけ残っていた緑色の塊を口の中で転がすと、口一杯に青リンゴがひろがった。




「うわあ、本当に人魚だ」

私が入れられた水槽の覆いが取られた。あの施設を出てからどれくらい経ったのか正確には分からないが、長く見ていなかった光が目に突き刺さる。何度か瞬きを繰り返すうちに、輪郭を取り戻した視界はベッドの上で上半身だけ起こした状態の若い男を捉えた。

 凄いだの、本当にいたんだ、だの……心底どうでもいい感想をひたすら零し続ける男を放置して私は部屋を見渡した。覆いを取ったメイド服の女は足早に部屋を去り、数人の大人が一度に眠れそうな程大きなベッドに、男が一人。ベッドの脇にはデスクライトと本が乗ったテーブルと椅子が一脚。部屋の脇に申し訳程度のクローゼットが一つだけ置かれているが、青を基調とした内装のせいでただでさえ殺風景な部屋はどこか寂しい雰囲気が漂っていた。

「ねえ、君の名前は?」

 部屋の雰囲気とは裏腹に、人懐っこい温かな笑顔を浮かべながら男は尋ねてきた。それを聞いてようやく男と目を合わせた私は、男の鮮やかなエメラルドグリーンの瞳を見ながら応えた。

「ミーサよ。どうぞよろしく、私の飼い主さん」

 私の入った容器ごとラッピングされ、文字通り出荷される前にあの変態が適当につけた名前。ネーミングセンスの欠片もないが、三一三号と名乗るわけにもいかない。渋々受け入れ、口にした名前には一切触れることなく、男は目を丸くして叫んだ。

「飼い主? 何の話?」

「貴方は私を買ったんでしょう? じゃあ、飼い主じゃない。まあ私は頼まれても、こうして会話するくらいのことしか出来ないけれど」

「いやいや、僕は君をお嫁に貰いたいんだけど……」

「……は?」

「え?」

 一切噛みあわない会話と交わったまま離れない視線。ぱちぱちと大きな緑色の瞳が瞬きを繰り返すのに、自然と私の瞬きのタイミングも重なっていく。ただ顔を突き合わせて黙りこくっていること数分、男は頭を掻いて困ったように笑った。

「えっと、ミーサさん?」

「さん、は要らないわ」

「じゃあ、ミーサ……えっと、僕と結婚してください」

「嫌ですけど」

「……」

 沈黙。いや、どうしてこの流れで色よい返事してもらえると思うのよ、この男は。

 頭を抱えて「どうしたらいいんだろ」と唸っている男に私はそっと近寄った。近寄ると言っても水槽の中なので大して寄れるわけでもないが、そっとガラスに手のひらを置く。

「ねえ、貴方、私を買ったのは結婚したかったからなの?」

「え、ああ……そうなるかな。僕は生まれつき病気でね、そろそろ死ぬんだ多分」

 まるで「明日は晴れそうですね」とでも道端で話している顔で自分の生き死を語る男の顔が、全く似ていない元隣人の顔と重なった。人は死ぬ。形あるものはいつか壊れる。そんなことは、生きている人はみんな知っている。知っていても、口に出そうとはしないけれど。

「……死ぬから、その前に『結婚』っていう人生のイベントを体験しておきたいってあたり?」

「ううん、それはちょっと違うんだけど……何だろうね?」

「私に訊かないでよ」

 眉を顰めてそう言い捨てると「そうだよねぇ」と言いながら男はまたヘラヘラ笑って頭を掻いた。この男には、笑う以外の表情がないのか。顔を合わせてかれこれ十分以上経つが、見たのは胡散臭い笑顔か驚いた顔だけだ。

「……うーん、別に誰でもよかったわけじゃないんだけどね。あ、でも人魚なら何でもよかったのかな」

「……」

 この男、人魚がその辺に転がってる生き物だと思ってるの?

先程までなかった、ドロリとした感情が胸を満たした。息苦しくて、突然呼吸が出来なくなったかのように、じわじわと息苦しくなる。溺れていく。気持ち悪い。

「……あ、僕の名前を言ってなかったね。僕はレオーラ。よろしく」

「……」

「あ、あの……」

「ねぇ……なんで人魚だったの?」

「え?」

「天使や生きた人形、妖精もいたわね……あの施設には沢山いたのに、どうして人魚だったの?」

 人魚は……あの施設であまり人気がなかった。専用の水槽から出せないからだ。その中の水も定期的に施設から届けるものに替えなければいけないため世話が面倒くさい。自慢気に連れて歩くことも出来ない。人工的に脚を変化させられただけの私達には水夫を魅了する歌声だってない。【想像上の生き物を手軽に手元に置くことが出来る】という売り込みでやっているあの施設にしては、全くお手軽ではない。

 それが私を含む人魚の実情。

「それは単純に僕が好きだからだよ」

 予想外の言葉に目を見開いた。何でもないように言った男は、私の驚きようは気にしていない様子で、ベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。一冊のボロボロの本を手に取って、大事そうに表紙を手のひらでゆっくり撫でた。表紙の文字が掠れているのは、男が日常的にこう扱っているからだろうと予想するに難くない。

 私に向けられていた軽薄な笑みはなく、ただ慈しむような色を宿した瞳と緩くカーブした唇。こんな顔が出来るのか、と思わずじっと見つめてしまった。

「僕は生まれつき心臓が悪くてね、この箱庭から出たことが殆どないんだ。人生の大半はベッドの上。そんな僕の貧相な記憶の中で、唯一鮮明に残っているのが海」

目を閉じて静かに言葉を紡ぐ男から目が離せなかった。

薄暗い部屋の中で、窓から射しこむ光がベッドの上の男の顔を半分だけ照らす。青白いキャンバスの上に、光と影が思い思いに彼という人間を描き出しているようだった。

「とても綺麗だった。そんな僕に母親が与えてくれたのがこの本だったんだ」

「悪趣味ね」

 よく見えないが、恐らく『人魚姫』であろうことは察する。自らの生きる場所を捨て、恋に走り、挙句すべて失って泡になった哀れなお姫様。子供向けの絵本では、王子様と幸せに暮らすエンディングに書き換えられているらしいから笑えない。

「人魚姫の気持ちが分かったんだ」レオーラは私の言葉など意に介していない様子で話を続ける。

「え?」

「僕は陸から出られないからね」

 ベッドから出て、緩慢な動作で地面に足をおろした。身体を支えられるのか心配になるほど細い足首が、白いパジャマの裾から見え隠れする。一歩一歩踏みしめるように近づいてきたレオーラは、私の水槽に触れた。小枝のような指が硝子越しに大きく広がっているのが見える。

「この硝子が僕と人魚姫の距離か」

「たったガラス一枚ね」

「……水の中って気持ちいい?」

「さあ……」

 水の中が大好きだった。

独特の浮遊感。最初は冷たくても、次第に体温と水の温度が溶け合っていく。上を見ると、空から挿す光が揺らめく水面を通して柔らかに差し込む。自分が何か大きなものの一部になってしまったかのような妙な安心感。

水の中が大好きだった。だから希望リストを渡されたとき、真っ先に人魚を選んだ。意味の分からない生き物になる位なら、自分の好きな所にいられる方が幸せだと思った。

今はもう私を逃がさないための透明な鉄格子にしか見えない。

「水の中に入ったらどうなるんだろ」

「溺れて死ぬんじゃない?」

「ええ……溺れたら人魚姫は王子様を助けてくれるんじゃないの?」

「自分のこと王子様とか傲慢過ぎない?」

 鼻で笑うと、泳ぐのが面倒になって水槽の底に座った。人魚が泳ぎ疲れるなんて夢のない話だが、手を使わないようにするとどうしても疲労はたまる。手を使って夢を壊すよりマシだと諦めてほしい。

「僕はもう長くない。死ぬ前にどうしても自分の憧れた存在に会いたかった」

「憧れがこんなので幻滅した?」

「思っていたより現実的で驚きはしたかな」

 くすくす笑いながら言われた言葉を否定も肯定もしなかった。科学という現実的な方法で作られた幻想の存在に、理想の姿なんて求められても困る。私は生まれた時から人魚ではないのだから。

「それで、どうして結婚まで話が飛ぶの?」

「え、王子様と人魚姫が会ったら結婚だろ?」

「貴方は常識を身に着けなおした方が良いわね」

 こんな暗い部屋で本ばかり読んでいるから、思考が夢物語に侵されるのよ。そもそも、人魚姫と王子は結婚できなかったでしょう。

 私の言葉に苦笑いをしながら、レオーラは床に座って私と目線を合わせてきた。近くでみるほど、彼の身体つきが健康とは程遠いのだとわかって私は顔を顰めた。「もうすぐ死ぬ」というのはブラックジョークではなさそうだ。

「それで、そこそこ話したつもりだけど、僕のプロポーズを受けてくれる気になった?」

「まったく」

「ええ……」どうしたらいいんだろう、と小さく呟きながら頭を抱えるレオーラが面白くて口元が緩んだ。

 どのみち私はもうここに居るしかない。返品されたら別だが、この男の様子からそれはないだろうことは予想できる。でも結婚だけはしてやらない。思い通りにいかない現実へのささやかな反抗心。

「貴方が死ぬまでに落としてみせてよ、王子様?」

「……厄介なお姫様だな」

「嫌いになった?」

「案外楽しんでるよ。じゃあ死ぬまでよろしく、ミーサ」

「ええ、せいぜい頑張ってね、レオーラ」

 お互い笑みを浮かべながら、ガラス越しに手を合わせた。温もりなんか感じない。私達の世界を隔てる壁は、たった数ミリなのに厚かった。







 レオーラの一日を説明するのは簡単だ。

 起きる、食べる、読書、会話、寝る。この五つの活動を行えば終わりだ。こんな生活を送れたら……と思う人はいるのかもしれない。しかし一週間観察した人間から言わせてもらうと、こんなの一ヶ月もしないうちに気が狂う。

「貴方、なにかやりたいことはないの?」

「泳げるようになりたいな」

「……」

「そんな呆れた顔しないでよ。無理なのは自分が一番分かってるからさ」

「呆れてるんじゃないわ。憐れんでるのよ」

「そっちの方が酷くない? 僕からしたら、その中から出られないキミの方が憐れだよ」

 遠慮がなさ過ぎて暴言に近いが、決して仲が悪いわけではない……良いかといわれるとそれも違うが。結局、初日の関係がずっと続いているのだ。

「じゃあ、憐れ同士」

「しません」

「最後まで言わせてよ」

 息をするように本心とも思えないプロポーズを繰り返すこと……何敗目だろうか。もう数えるのをやめた。数打てばあたる論法にしても酷いものだ。

「これで百敗目」

 律儀に数えていたらしい。しかも栄えある三桁目。

「飽きないわね」

「飽きないよ。ね、百戦達成のお祝いに一個お願いを聞いてくれない?」

「……何かによる」

「あれ『なんで私が』って言われると思ったのに」

 目を丸くして私を凝視するレオーラにムッとしながらそっぽを向く。

「要らないならいいわよ」

「ああ、欲しい!  欲しいです! そうだな……」

 慌てて手を無意味に振り回す様子を見ていると、思わず頬が緩んだ。でもそれを知られるのが癪で、横をむいたままでいる。

「ううん、どれにしようか……」

 優柔不断か。そろそろ首の筋肉が痛いんだけど。

 意地になって横を向いているのも馬鹿らしくなって正面を見た。腕を組んで考え込んでいるレオーラは、恐らく私のことなど気にしていなかっただろう。

「ねえ、まだ?」

「もう少し……」

「馬鹿ね、また明日があるんだから適当に決めたらいいじゃない」

「明日がある、なんて限らないよ」

 そう言ったレオーラの顔が珍しく物憂げで、目を見開くのは私の番だった。退廃的なことを口にしながらも、張り付けた笑顔を崩さない男。そんな評価に小さなひびが入った。

「今日寝て、次の朝に目を覚ませる保証なんかない。だから、一度しかないかもしれないチャンスはちゃんと使いたいんだ」

「……」

 ブラックジョークが過ぎる。明日起きたら目の前で息絶えた男が寝ているとか私の心臓に悪い。でも……と、嫌な考えがよぎって唇を噛んだ。マイナスな思考はすぐ頭を侵食して、それしか考えられなくなる。

 もしそうなったら、また私はあの施設に戻るのだろう。

 端の方に置かれた、私の食べ物が詰まった瓶の方へゆっくり泳いで行った。使用人たちもレオーラの家族も、私に触れるのを好ましく思っていない。いや、きっと私自身を、の方が正しい。気味悪がられて当然だという思考と、好きでこうなったのではないという言い訳が虚しく降り積もった。

「ダメだよ、それ食べる種類とか数とか色々守らないと危ないらしいから」

「きいた。ここに来る前はただの意地悪だと思ってたんだけどね」

 好きな時に好きなものを食べれないなんて、やはりこんな体になるものではない。過去の自分を殴るべきだ。

「そうだ、じゃあここに来る前の話を聞かせてよ」

「……は?」

 他人の思考を読んでいたのかと疑うくらいタイムリーな話題に、間抜けな声が漏れた。そんな私に気づいているのかいないのか、名案だとばかりに何度も頷いている目の前の男。過去の自分の前に殴ってやりたくなった。

「……聞いても面白くないわよ」

「面白いかどうかは聞かなきゃ分からないよ」

「……」正論だ。

 ほう、と小さく溜息を吐いた。天井に向かって浮かんで行った泡が空気に溶け込むのをじっと目で追った後、レオーラに視線を戻す。興味津々と書かれた顔には一切の悪意はない。元々この男は悪意というものを知らない可能性すらある。天然記念物に登録されてもいいんじゃないだろうか。

「……聞いてから幻滅しない?」

 人魚という体に詰まった幻想の欠片もないノンフィクション。そんなものをこの男に浴びせていいのだろうか。

 私の心配をよそにレオーラは不思議そうに首を傾げた。

「聞かなきゃわからないよ」

「あんたって、本当に面倒くさい」

「ひどい」

「ひどくない……ああ、もうわかったわよ」

 頭を掻いてそっと底に腰をおろした。膝を抱えるように俯くと、視界の中で腰から下についた鱗が少しずつ剥がれていく。代わりに現れるのはレオーラより細い脚。骨のまわりに引き攣った皮膚がまとわりついているだけの貧相な体。

「私は十歳のころまで、お母さんと弟と三人でスラムに住んでたの。その日暮らしのままならない生活で苦しかったけれど、別に悪いとは思ってなかったわ。周りも同じような生活だし、生まれた時からその生活しか知らなかったんだもの」

 それ以上もそれ以下もなかった。限りなく狭い視野で生きていた。大した欲望なんか生まれようもない中で、唯一の楽しみは近くの入り江で泳ぐこと。環境に相応しく育った小さな器は、ちょっとしたことで満たされる。

 しかし、そんな生活は突然終わりを告げた。

「お母さんが盗みを働いたところを警察に捕まったの。お母さんを助けようとした弟も一緒に……」

「君は?」

「その時は別のところでパンを抱えて走ってたわ」

 いつまでも帰ってこない母と弟。二人が捕まったのを知ったのは、連れていかれた四日後だった。

「私に二人のことを教えた男が、私を買ったの」

「それって君がいた施設の?」

「そういうこと。突然一人になって怖くて蹲ってた私に現実を突きつけておきながら、夢物語の登場人物にならないかっていうのよ? 笑っちゃったわ」

「でも受けたんでしょう?」

「だって、独りは嫌だもの」

 男が提示した「ご飯がちゃんと食べられる」や「屋根のあるところで暮らせる」といった即物的な話には一切興味がわかなかった。どうでもいいからさっさと立ち去れと叫びたくて、乾ききった喉から唸り声を零した。

『君と似たような子達が沢山いるんだ。きっと寂しくない』

 その言葉が、たったそれだけが私を動かした。

 寂しかった。ただ、それだけだった。

 お腹が空いて動けないのも、裸足に石が刺さって痛いのも、寒さで死の淵に立たされるのも……別にどうでもよかった。誰かが手を差し伸べてくれないことの方がずっと辛かった。

「独りじゃなくなるなら、何でもよかった」

「……」

「あとはまあ、想像できるでしょう? 何になりたいかって、天使とかケンタウロスとか色々書かれた紙を見せられて、その中から人魚を選んだら二年後には今の状態になってたの。私が来た頃はまだ人魚を作る技術がしっかり確立されてなくてね……今では一ヶ月もあればこうなるわ」

 いつの間にか鱗の戻った脚を撫でる。堅くて手を斬りそうなカルシウムの塊。最初に自分の脚に現れた時のことが、もう霞の向こうだ。喜んだのか、悲しんだのか、私はどう思ったんだっけ?

「寂しくはなくなった?」

「ええ、それはね。隣には喧嘩友達もいたわ」

「そう、良かったね」

「ええ、良かったわ」

 望みが叶った。寒い路地裏で独り朽ち果てる運命から救われた。

これはハッピーエンドだ。

「で、幻滅した?」

「全然」

「それは良かった」

 笑って腰を上げた。わざと大きくヒレを動かしてレオーラの方へ泳ぐと、そっとガラスに両の手を付ける。これが私の世界の果て。

 狭い世界の幸せに溺れて私は生きていく。

「……今は?」

「え?」

「寂しくない?」

 俯いたレオーラの平坦な声だけが私に届く。

「寂しいわけないでしょう? 貴方がいるじゃない」

「そっか、そっかあ……」震えた小さな声が鼓膜を僅かに揺らした。

 一体何があったのか分からなくて、私は軽く目の前のガラスを叩く。水のせいで全く音が鳴らないけれど、何故か私の手は止まらなかった。魔法にかかったように喉が引き攣って声は出なかった。

「……ごめんね?」

顔をあげた彼は泣いていた。

透き通った宝石のような瞳一杯に涙をためて私を真っ直ぐ見る。私は何も言わず、視線も逸らせず、ただ彼の涙腺が決壊するのを見ていた。

「僕じゃ君を幸せにしてあげられない」

 目から溢れると、骨ばった頬から顎へと伝い、シーツの海へ音もたてずに落ちていく。緑の泉から生まれた透明な感情は、誰にも救われることはない。

「……馬鹿ね。私はたった一人の王子様に固執して、その人から愛情をもらえないと死んでしまう憐れなお姫様じゃないのよ?」

「じゃあ、君は他の王子様を見つけられるのかい?」

「さあ、どうかしら」

 彼の涙をぬぐうように、ガラス越しにゆっくり指で彼の輪郭をなぞる。

「少なくとも、貴方を短剣で刺そうとは思わないわ」


 私達には間に入って来る人間のお姫様も、救いを運んでくるお姉様達も、ついぞ現れなかった。ただ静かに穏やかに毎日を過ごして、当たり前のようにその生活は終わった。

 数日前から体調を崩していたレオーラは、医者の提案を蹴って自宅に留まり続けた。普段は家族の言うことに素直な彼らしくない、頑ななその態度に根負けして医者も家族も諦めた。

『病院に行くと独りなんだ』

 死んでもいいのか、と尋ねた私に彼は困り顔でそう言った。

『今まではそれでも良かったけど』

 言外に「今は違う」といわれたことに浮かれた。その後に続いたプロポーズには応えてやらなかったけれど。

 応えてやらない内は別れも訪れないと思っていた。でも、現実でそんな夢の中のようなご都合主義はなくて……今私の目の前に広がっているのは誰もいない整ったベッドが一つ。

 応えれば彼は生きていたか、答えは否。

 生き物はいつか死ぬ。

 施設の外に出て私は幸せになれたか、答えは否。

 結局私はまた独りだ。

 あの傲慢な天使は、存外正しかったようだ。帰ったら嘲笑されるだろうか……それは嫌だな。自分を嘲笑う痩せた顔を想像して苦笑いを浮かべる。顔が引き攣って笑うのも一苦労。気を張っていないと泣きそうだ。

 水の中では自分が泣いているのかも分からない。でも、きっと私は泣いてない。人魚姫は泣くことが出来ないのだから、あの男が涙腺もいじってくれているだろう。泣くのは王子様の、人間の特権だ。

 目の奥が痛くて、そっと両手で顔を覆った。浮かんでくるのはレオーラの顔ばかりだ。一緒にいたのはたった一ヶ月足らずなのに、あやふやになった家族の顔と違って鮮明に思い出せる。

 エメラルドグリーンの瞳が涙に濡れて輝いていた。

 顔から手を離すと、静かに底の方へ泳いだ。私の栄養が詰まった色とりどりの瓶から、たった一つを手に取る。味と見た目がちぐはぐな、私と同じ人工物の中で、唯一真実だったその色を二つ口に含む。いつもより塩気の強い味に口元が緩んだ。


 泡になれない偽りの人魚姫ならば三百年経たずとも、彼と同じ場所に辿りつけるだろうか。願わくはこれが、人生最後の涙であってほしい。


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泡沫の夢 卯月 @kyo_shimotsuki

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