第10話 琥珀
暗い森の中をユラはただ歩き続けた。目的地などなく、ただその場から逃げ出すために。
パキパキと枝を踏む音を聞いていると、先ほどまで昔話をしていたせいか、妙に故郷の山が懐かしくなった。
「そういえば、昔もこんな時間に歩いていたことがありましたねぇ」
あれは八歳くらいのことだ。何かがあって父親に怒られたユラが暗くなっている中で家を飛び出した。あの時も何か考えがあっての行動ではなかった。むしろ、暗くなってから山に入るなど自殺行為だった。
思えば、昔からあまり行動が変わってませんね……。
自嘲気味にそう考え、ユラは自分の手元を見た。小さいながらも灯りを確保して出てきたあたり、多少成長はしているらしい。
「そういえば、あの時はキョウが迎えに来てくれたんでしたか……二人で山で遊ぶときに使っていた秘密基地で泣いていたら」
そうして思い出していると、だんだん鮮明に光景が浮かんできた。真っ暗で灯りもなにもないのに、よく辿り着けたとユラは自分で自分を褒めたくなった。秘密基地とユラ達の家はそこそこ距離があった。
そんな中を独りで歩き切ったくせに、いざ辿り着くと怖くなって泣いていた。そんなアンバランスさが子供らしいといえば子供らしいのかもしれない。しかし、そんな彼を迎えに来た兄のキョウはきちんと灯りを確保してきてくれたわけだが。
その時の怒ったような、それでいて恐怖を押し殺しているような兄の顔を思い出してユラはジワリと心が温かくなるのを感じた。
「……あの頃が、一番幸せだったでしょう?」
時が止まったような自然の中で、ただ緩やかに時の流れに身を任せていた。山の中で死んだ猪は少しずつ他の動物に食われたり朽ちていき、養分となって未来に他の命を繋いでいっていた。そうした自然の循環の中で、緩やかに終わっていくのだと子供の頃のユラは信じていたのだ。
それは、ユラがたびたびトゥーラに言う「狭い世界で生きてきた」故の考え方だった。彼にとって死ぬということは、ある意味当たり前のことであり、それを避けるということは自然の流れに逆らう忌むべきことだったのだ。
しかし、父親はそれに抗う道を模索し、兄はその道を歩んでいる。しかしユラには未だにそれが良いことだとはとても思えなかった。
「……」
つい数時間前、サクヤと会った地点まで来ていることに気付いてユラは足を止めた。河原の砂利を踏みしめて、父親が立っていた場所に両足をつける。月が川面を照らして光がはじけているのをじっと見ていると、背後でガサリと物音がした。
「何ですかトゥーラ、いいから君はもう寝なさいと……」
やれやれと思いながらユラが振り返ると、そこに立っていたのは琥珀だった。思わぬ来訪にユラは逃げる様に数歩後ずさる。夕飯を食べている間もその後も、琥珀は一切ユラに接触してこようとはしなかった。だからこそユラは逃げられていたともいう。
来てほしくなかった相手にユラは顔を合わせることも出来ず俯く。あと二歩下がれば川に足が入るようなところまで下がって、ようやくユラは足を止めた。逃げ場を失った以上、彼にはただ黙って全身で拒絶することしか出来なかった。
当の琥珀はそんなユラをただ静かに見ていた。逃げるユラを追うわけでもなく、ただ開いていく距離を黙って見ている。
「……」
「……」
二人は暫く黙ったままだった。取り付く島もないもといった様子のユラはそんな沈黙にいたたまれなさを感じて、震える声を出す。
「なん、ですか……もう子供じゃないんだから、迎えなんていりません」
「……」
琥珀はそれを聞いて一歩足を踏み出した。それを見てユラが小さく肩を震わせる。まるで怒られる前の子供のようなその反応を見て、琥珀はそっと頭の中で語りかけた。
『大人になったら、心配してはいけないのかな?』
「え?」
『何歳になろうと、私にとってユラは大切な弟なんだ。心配くらいする』
【玉響】になってから滅多に喋らなくなった琥珀が珍しくちゃんと会話をしてくれることに、ユラは泣きそうな気持になりながら一歩、二歩と琥珀に向かって歩み寄った。小さな石を踏む音がいやに大きく響く中、琥珀もゆっくりと足を踏み出す。
「……ねぇキョウ」
『なんだい?』
「…………」
ユラは粘度の高い唾を無理やり飲み下しながら掠れた声を出す。
「キョウが自分から【玉響】になりたがったって、本当なの?」
子供の時と同じ口調でそう尋ねる弟に琥珀は静かに首を縦に振った。
『本当だよ。私は自分から【玉響】にしてくれとお父さんに頼んだ』
「……どうして、ですか?」
必死に冷静をよそいながら胸元を握りしめて尋ねるユラを見て、琥珀は目を細めた。過去を懐かしむような目線はどこまでも優しく弟に向けられていた。
『長く生きたかった。出来るならば、ユラより長く』
「どうしてそんなことを⁉ 死んだらその時はその時じゃないですか! 人間はいつか死ぬものなんですから」
『そう考えられるのは、きっとユラが自由に生きていたからだよ』
ぴしゃりと言われ、ユラはぐっと押し黙った。琥珀は一度目を閉じると、その蜜のような目で月を見上げる。
『私の世界は、いつだって窓枠から内側だった。埃っぽくて冷えた空気の中で、身体も心もゆっくり退屈に殺されていくようだった。ユラが教えてくれる外の世界との間には、いつでも間にガラスが一枚入っていたんだ。その外に出ることなんかできなくて、いつだって外の世界は憧れだった』
「……僕が色々な話をしたのは間違いだった? キョウを苦しめていただけだったってこと?」
目に涙を浮かべながらそう言う少年を見て、琥珀は否定も肯定もしなかった。彼自身、それは分からない質問だった。
目を輝かせて、時にはボロボロになって外を駆け回っていた弟。それを見ていて羨ましさや嫉妬心を抱かなかったといえば嘘になる。どうして自分はこんな体なのかと親を呪ったこともある。しかし、そうして弟が笑顔で報告をしてくれる時間が、琥珀にとってかけがえのない時間だったことも確かだ。その時だけは、窓の外の太陽が自分のそばにあるように温かかったのをよく覚えている。
しかし、だからこそ琥珀は望んでしまったともいえる。外の世界を自分の足で歩くことを。
『ユラ、私はね、君と一緒に山を駆け回りたかっただけなんだ』
「……」
『一緒に木の実を取って木の上でおやつ代わりに食べたり、川に入って魚を採ったり、秘密基地で本を読みながらお昼寝したり……ただユラと一緒に一日中遊んでみたかった』
「キョウ……」
懐かしむようなキョウの言葉を聞きながら、ユラの頭の中には存在することがなかった記憶が溢れていた。
――うわ、キョウ! 急に水かけてくるなよ! 魚が逃げるだろう!
――ハハハ、だって暑いだろう?
――ユラ、あの木の実は食べられるのかな?
――食べられるよ。一応ね。
――一応って?
――煮ると甘いんだけど、そのまま食べたらこーんな顔になる。
――そんな顔は嫌だな……。
しかし、それはあり得なかった過去の話だ。
ユラは口元をおさえながらすすり泣く。そんな弟を見て、琥珀はようやく手の届くところまで歩み寄った。お互いの影が交錯し、ひとつのように溶け合う。ユラの頭を撫でる琥珀の手はどこまでも優しかった。
『ユラ、ごめんな。ずっと言えなかった』
「……」
『起きたらお前は思いつめた顔で私を見ていて……その顔は、とてもユラだと信じられないくらいに沈んでいた。それを見たとき、私は間違えたって思ってしまったんだ』
「間違いだよ。だって僕は」
『うん。分かってる。ユラは私と一緒に何かをするのが好きだったからね』
喋れないと気付いた時、手を繋いで温もりを得られないと気付いた時、資料解析に没頭するあまり、ご飯を食べ忘れて倒れかけたユラを何ともない様子で琥珀が介抱していた時……人間ではないのだと気付かされるたびに、ユラが辛そうな顔をしていたのに琥珀は気付いていた。
だからこそ、言い出せなかった。自分で望んでこうなったのだと、自分はこれで幸せだと思っているのだと。血眼になって自分を人間に戻したがっている弟にそれを言うことは、彼を傷つけると分かっていたから。
『すまなかった。私が先延ばしにし続けたせいで、ユラをこんなに傷つけてしまった』
「……」
ユラは小さく首を横に振った。しゃくりあげながら次々に雫を落とすユラに、琥珀はひたすらに「すまない」と謝り続ける。濡れている頬を拭い、彼のヒヤリとした手がユラの頬を包み込んだ。
その冷たさが、ユラは嫌いだった。常にベッドにいるせいか、いつでも一定の温かさで自分に触れてくれる兄の手が好きだったからだ。キョウが琥珀となってから、ユラは琥珀に触れられるのが嫌いになった。そうして……少しずつ二人は離れていった。
ユラは急激に変化した現実を元に戻したくて過去に縋るあまり、今の琥珀を否定した。
キョウは新たに得た琥珀という自分を受け入れない弟に、琥珀として近づくことを恐れた。
「僕は……間違ってたのかな? どうしたらよかったのかな?」
ユラは泣きながらそう尋ねた。迷子の子供のように。
『分からないよ。何が間違いで何が正解だったのかも、今となっては分からない』
「……」
『ユラ、それでも一つだけ確かなことはあるよ』
「……なに?」
ユラは恐る恐る尋ねた。そんな幼い頃を彷彿とさせるユラを見て、琥珀は久々に自分が“お兄ちゃん”であるということを思い出して心の中で微笑む。
『この旅は……ユラが私を戻そうとしてくれた時間は決して無駄ではなかった』
「そうかな……結局、僕はキョウの願いを踏みにじっていただけだ」
『……私は、楽しかったよ』
琥珀の言葉にユラは目を見開いた。琥珀は固まっている表情筋を無理やり動かして口角をあげて見せる。
『だって、私はユラと広い外を見られて楽しかったからね』
そう言った琥珀の顔が、先ほど別れたトゥーラの顔と重なった。
――ユラと琥珀と旅をするの、最初はしんどかったけど……でも凄く楽しかった。世界はこんなに広かったんだって実感して、初めて自分がどれだけ小さな世界で生きてたかを知れたんだ。俺がこうなんだから、きっとマーレも同じだと思う。だから、俺はマーレと旅に出たい。一緒に色々なものを見て、色々な体験がしたいんだ。
ああ、トゥーラは……ちゃんとこの顔が見えていたんだな。
ユラは俯くと、小さく声をあげて笑った。
『それに、ユラのお陰でハミヤをはじめとした皆は希望が持てたと思うよ。トゥーラにしてもそうだ。君と一緒に旅をしなければきっとあんな顔で、あんなことを言えなかったと思う。ユラが必死に前を向いていたおかげで、救われた人はいたんだ。だから……』
「いい。もういいです」
ユラは少し恥ずかしそうに頬を染めて、我に返った様子で琥珀の動いていない口に手を当てた。その行為では頭の中で話しかけてくる琥珀を実際は止められないのだが、琥珀は口を閉じて僅かに微笑んだ。
「私だって……この旅が無駄なものだとまでは……思っていません。思いたくありません」
『うん』
「お礼を言われてきました。父親のしてきたことの尻拭いをしている気分だったけれど……それでも、急に家族を奪われた人にとって、私は事情を知る大切な存在だったことは紛れもない事実です」
ユラは、ハミヤを経由して送られてくる手紙のことを思い出していた。「体調を崩したりしていないですか?」や「元気で旅を続けられているでしょうか?」など、現状報告を目的とした手紙の殆どにはそうした文面が添えられている。ヒトならざる存在に変貌する家族を抱えながら、もしくはハミヤのように【玉響】と契約している者も二人ほどいる。皆それぞれに周りに秘密を抱えて大変だろうに、ユラ達のことを心配してくれているのは家族のためだとしても非常に嬉しいことだった。
そんな文章を読むたびに心が温かくなった。この人たちの為に頑張ろうと思えた。ユラにとっては、協力者の存在は旅を続けるうえで重要な理由にもなっていたのだ。
「でもまあ、あの人たちとの関係もこれで終わりですかね」
少し寂しそうに、しかし気丈に振る舞うユラの前で琥珀は首を振った。
『人間同士の関係性が、そんなに簡単に消えるわけないだろう』
「どうでしょうかね」
『じゃあ、ユラはもうみんなと連絡取れなくてもいいのかい? その後どうなったか気になるとか、ハミヤの育てたリンゴをもっと食べたいとか思わないの?』
「それは……思いますけど、でも私達は結局【玉響】で繋がっていた仲ですし」
『そんな明確な理由がなくても、近くに来たから少し会いたいとか、その程度で良いんだよ』
長い孤独の中で凝り固まっているユラの思考をほぐすように、琥珀はゆっくりとした口調でそう言った。ユラはそれにさらに反論しようとしたものの、言葉ではなく溜息で言葉を断ち切った。自分の方が分が悪いと理解できたからだ。
その時、ひときわ強い風が吹いた。二人の髪や木の枝を揺らした風は、空の高い所でも拭いていたのか、雲が動いて月が顔をだす。月明かりに照らされて、琥珀の飴色の髪がキラキラと光を放った。
それをじっと見たユラは、緊張した面持ちでその髪に手を伸ばす。琥珀は黙って頭をユラに向かって差し出した。壊れ物にでも触れるような手つきで琥珀の髪に振れたユラは、ガラスを触っているような感触に一瞬驚いて手を離す。しかし、またその指を埋めていった。
『どう?』
「……冷たいですね」
『そっか……自分じゃよく分からないから』
「……私は、温かい人間が好きです。【玉響】はどうも冷たくてかなわない」
ユラはそう言いながら、琥珀の形を確かめるように手を這わせ始めた。頭から額、頬に落ちて首をなぞりながら肩にゆっくりと手を置いていく。やはり温もりはない。しかし、確かに上下している胸やユラの手がくすぐったくて少し身を捩る姿は、琥珀が生きていると実感するには十分すぎるものだ。
「……琥珀」
『なんだい?』
「琥珀は……戻りたいですか? 人間に……キョウに」
『……』
喉奥から必死に発せられたユラの声に琥珀は目を細めた。そして、俯くユラの顔をあげさせるように琥珀は頬を包み込む。夜の冷えた外気に晒されているためか、ユラの頬は琥珀の手と同じくらい冷たかった。
『今は……戻ってもいいと思ってる』
「え?」
『ずっと苦しかった。ユラに本当の気持ちを伝えられなくて。でも、【玉響】としての日々を送って新しいものに出会うたびに……あの故郷が恋しくなった。そして何より、ユラに置いて行かれるのが怖くなった』
「キョウ……」
琥珀の言葉にユラはぎゅっと手を握りしめた。それは、自分の望んでいた答えだったはずだ。しかし、今のユラにそれをただ喜ぶ心は芽生えなかった。
キョウが【玉響】になりたかった理由を知った。そして、その日々を楽しんでいたことも。そして、そんな旅を決して苦しいだけのものだと思っていない自分と向き合ったとき、ユラには琥珀はこのままでいいのではないかという気持ちが芽生えていたのだ。
黙りこくってしまったユラを見て、琥珀はすまなさそうに眉根を下げる。
『気を遣わせてしまったかな? でも、これは私の本心だよ。だから……もしユラが私に人間でいて欲しいなら私は戻るのはやぶさかではない。後はユラに任せるよ』
「なんで……自分のことでしょう?」
悩み、苦しいユラが咎めるようにそう言うと、琥珀は穏やかに微笑んだ。
『この命はもうユラの為につかうと決めたんだ。私を想って住み慣れた故郷を離れ、十年も旅をしてくれた……大切な弟に捧げると』
「……ハハハ……なんですか、それ……狡いですよ」
止まっていた涙を再び零し始める弟の頭を琥珀はそっと撫でた。それすらユラにとっては涙を呼ぶ引き金にしかならないのだが、琥珀は気にせず手を動かす。
「…………考えさせてください」
琥珀の腕の中で泣き続けていたユラは、鼻をすすりながらそう言った。その目は未だ気持ちの揺らぎを映してはいるが、一筋の光が宿っている。その光を見て琥珀はゆっくり頷いた。
『私は君がどんな選択をしようと、ユラの味方だ。それだけは忘れないでね』
「分かってますよ。もう、十分理解出来ました、私がどれだけ子供だったのかも……どれだけ、兄に想われていたのかも……」
はにかむようにユラが笑うと、琥珀も笑った。その瞬間、ランプの中の蝋燭が燃える部分を失って消える。真っ暗になった周囲を照らすのは月明かりだけになった。
どちらかが促したわけでもなく、示し合わせたように二人は顔を空に向けた。そこに見える空に空いた穴のような月と無数の星たちを眺めながらユラはぼそりと呟いた。
「昔……こうして天体観測をしたことを覚えていますか?」
『勿論。星の図鑑を二人で囲んでいたくせに、そんなもの無視して星座を勝手に作ったこともあったね』
「はい……とても、楽しかったです」
『うん。楽しかった』
作ったそばから忘れる勢いで新しい星座を作っていくユラを思い出して、琥珀は頬が緩むのを感じた。
「……故郷の空と全然違うものに見える。遠くまで来たんだって実感しますね」
『そうだね』
返事をしながら、琥珀はユラに向かって手を差し出した。目を瞬かせながらその手と琥珀の顔を交互にみるユラの手を、琥珀は強引に握る。
『どれだけ遠くに来ても、こうして思い出せるなら故郷は私達の心の中にある』
「くさいセリフですね」
ユラはそう言って苦笑いしながらも、ゆっくり琥珀の冷たい手を握り返した。
こんな距離に近寄ったのは、いつぶりでしょうか。
硬い手の感触を味わいながらユラは独りごちる。その距離感をうんでいた一つの要因はきっと頑ななユラの【玉響】への嫌悪感だった。それが遠回しに【玉響】となったキョウのことも傷つけていたのだと悟り、軽く自己嫌悪に陥る。
しかし、そんな彼の手を琥珀は強く握りしめた。
『大丈夫。何処にもいかないよ。だから、そんな顔しないで』
「……はい」
ユラが泣きそうな顔で微笑む。月に照らされたその美しい顔に琥珀もそっと微笑みを返した。
『ユラが明日、どんな選択をしようと私はユラの味方だ。それだけは忘れないでね』
「……明日、あの男の元に行くって、私は言ってませんが……」
『でも行くだろう? トゥーラを独りで行かせるなんて、ユラがするはずないもの』
「……まあ、しませんけど」
信用されているのだと感じながらも気恥ずかしさが勝ったのか、ユラは顔を背けながら一歩前に出た。
「ほら、帰りましょう。もう遅いですし、夜は冷えます。風邪をひいてしまいそうだ」
『ユラが風邪をひいたら私が看病するよ』
「……子供の時と逆で、なんだか悔しいから嫌です」
『強情だなぁ』
他愛のない会話をしながら二人は並んで森を歩いた。月に照らされたその影は一点でしっかり繋がっている。それはまるで、子供の頃に飛び出したユラを迎えにきたキョウと瓜二つだった。ただひとつ違うとすれば、片方の少年の髪が月に負けないくらい輝いていることだけだろう。
懐かしく優しい空気に包まれながら、二人はゆっくりとテントのある方へ歩いて行った。
【アンバー】(琥珀)
琥珀は鉱石のひとつとして数えられるが、正確には石ではない。約四千万~五千万年前も昔の松柏類の針葉樹から滴った樹液が長い年月と共に化石となったものであり、植物由来なのである。古くから装飾品として、また神秘的なでき方からパワーストーンとしても重要視されてきた。
そんな琥珀にまつわる神話や伝説は、数多く残されているが、そのどれもが琥珀の起源を女神の涙と結びつけている。例えば古代ギリシアでは太陽神ヘリオス(アポロン)をめぐる物語で登場する。ヘリオスは毎朝炎の戦車に乗って天空をかけまわるのを仕事としていた。そんなある日、彼の息子であるパエトンが父の代わりに戦車に乗り、大空を駆け回りたいといって来た。息子可愛さ故にそれをヘリオスは許可するが、パエトンの技術は未熟であり、戦車は暴走してしまう。その結果、地上で大火災を起こしたのを見た大神ゼウスは世界が燃えるのを防ぐために雷を落とし、パエトンを撃ち落とした。彼の遺体は、彼の落ちた川の精霊たちが葬った。
パエトンの妹である三人の太陽の精霊たちは直ぐに兄の捜索に向かい、川のほとりで兄の墓を見つけることになる。変わり果てた兄の姿を見た妹たちは悲しみのあまり泣き崩れ、いつまでもその場所に留まると誓い合うと、昼夜問わず泣き続けた。そうするうちに彼女たちの足は根になり、身体は幹になり、手は枝になった。それでも泣き続けた彼女たちの涙は川に流れおち、太陽の光で固められて琥珀になったという。
他にも古代ギリシアではメレアグリデスの流した涙が琥珀になったという伝説があるほか、バルト海に住む人魚の女神ジュレイテの失恋物語でも涙が琥珀になっている。琥珀は元々が液体であることを踏まえると、ある程度現実にそくしているともいえる。
また、イギリスでは結婚十年目を「琥珀婚」と呼んで琥珀を送り合う風習がある。琥珀はヨーロッパで「幸せを運び、愛をつたえるもの」と考えられており、現在では男女関係なく送り合うようになっている。何千万年もの時を経て出来る琥珀には、日本の錫婚式と同様に「いつまでも続くように」という願いが込められておるのかもしれない。
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