第8話 辰砂
惜しまれながらもサマンを旅立って、また一ヶ月ほどが経った。ユラとトゥーラが出会い、琥珀も含めた三人での旅が始まってからこれで半年が経とうとしていた。
そんなある日、一行は川辺で休憩をしていた。すっかりトゥーラも旅のペースに慣れ、今となってはゆっくり水を飲みながら会話ができるまでになっていた。次の街は以前に行ったことがあるというユラの話を興味深そうに聞いていたトゥーラだったが、ふと居住まいを正しだす。
「……なぁユラ」
「何ですか」
「マーレを見た時に『半年は動かない』って話をしてただろ? あれってどういうことなの?」
トゥーラは緊張した面持ちでそう尋ねた。ユラはその言葉に目を細めると、水稲の中身を一口飲んでからトゥーラと向き合う。
「人間が【玉響】になるには、二つの段階があります。一つ目はトゥーラも知っての通り、黒い石の中でゆっくり侵食されている期間です。この間はあの非常に重たい石のせいでまず移動させるのは不可能です。そして、あの状態でいる期間は私の知る限り最短で半年です。長い人間だと十ヶ月くらいあのままだった人もいます」
そこでユラが琥珀の方を向いて「ノートを出してください」と言った。琥珀は小さく頷いてカバンの中から日に焼けたノートを取り出すと、それをめくってトゥーラに近寄っていく。トゥーラが彼の手元を覗き込むと、簡単な図と膨大なメモ書きが目に飛び込んできた。几帳面な文字はもう見慣れたユラのものだ。
「そして、次がこの状態」
ユラは膝を抱える人のような図を指さした。
「石の黒い部分が粉々に壊れ、皆このような姿勢になって宝石の中で引き続き眠りにつきます。この期間が一ヶ月ほどあり、人間は【玉響】になります」
「なんか、想像するとかなり綺麗そう」
「ええ、すごく綺麗ですよ。人間がインクルージョンになったらこんな感じなのだろうと毎回感嘆します」
「言い方……」
「実際、その状態は一番危険なんです。綺麗だから、他人から狙われやすい」
一度その状態で野党に奪われたという人がいましてね、と続けるユラの話を聞いて更にユラは弟を想って不安になった。
「マーレも……早かったらそろそろそうなってるかもしれないのか」
「……そうなりますね」
唇を噛んで俯いたトゥーラをユラはじっと見つめる。弟を心配する気持ちが分からない男ではない。暫く視線を彷徨わせたユラは、ゆっくりトゥーラの頭に手を伸ばす。髪を梳くように優しく撫でるユラの手つきにトゥーラが視線をあげると、穏やかな微笑みが視界に広がった。
「大丈夫ですよ。あの酒場の店主は信用できる……私は、ひとを見る目には自信があるんです」
「……うん。あの人が良い人なのは俺が一番知ってる」
「でしょうね」
トゥーラは一度大きく息を吐き、勢いよく立ち上がった。
「ごめんな。ちょっと弱気になった」
「いえ……そうなって当然です。君にとってはたった一人の肉親なんですから」
「まぁな。マーレとこんなに離れ離れになるなんて、正直半年前までは考えたことなかった」
「そんなもんです」
ユラは大きい石に腰かけたまま空を見上げた。太陽がまだ高く昇っているそこは目が痛くなるほど鮮やかな水色をしている。ユラは目を細めながら小さく微笑んだ。
「当たり前の日常が明日も続くと、人間は無意識に信じています。それはこの国のように情勢が安定していると尚更です。しかし、当たり前ですがそんな保証はどこにもない。未来はいつだって不確定ですから」
「……ユラの国はそうじゃなかったのか?」
「いえ、この国と似たようなところでしたよ。だからこそ、私も君と同じようにこんな旅をすることになるなんて微塵も考えていませんでした」
自嘲気味にユラは笑った。その様子を見ながら、トゥーラは興味の芽が自分の中で育っていくのを止められなかった。
ユラは、基本的に自分の話をしない。誰かの話を聞くことが得意であり、そうして多くの人間の心に寄り添いはするが、自分の心に誰かを寄り添わせているのをトゥーラは見たことがなかった。強いて言うならば琥珀の存在があるが、トゥーラの知る限り彼らが親密そうに話をしていることは滅多にない。そもそも琥珀の声が彼には聞こえていないので、琥珀がお喋りなのか物静かなのかさえ彼は知らないのだが。
そんな秘密主義なユラが珍しく昔の話をしているため、トゥーラは身を乗り出すようにして質問を投げた。
「じゃあ、ユラの家族はどんな人たちなんだ?」
その言葉にユラはあからさまに体を硬直させた。空を見上げたままだったので分かりにくかったものの、トゥーラに“これは不可侵の領域だった”と悟らせるには十分な反応だった。
「あ、あの答えたくないなら」
訪れた痛いほどの沈黙に耐えかねてトゥーラが言うと「いえ……」とユラは固い声で答えた。そして顔の向きをトゥーラの方に向ける。彼の顔を見て、息を呑むのはトゥーラの番となった。
口元にはいつもの食えない笑みを浮かべながらも、その瞳は寂しさを結晶化させたような色を宿していた。
「家族は父と兄がいます。母は難産のすえに私を産み、数か月後に亡くなったと聞いています」
「……そう、なんだ」
喉が張り付いたように声が出なかった。掠れ切った声でトゥーラがそれだけ言うと、ユラはすまなそうに目を細める。
「気を遣わせましたか。すみません」
「うんうん……でも、少し意外だったかも」
「え?」
「ユラって面倒見がいいから、兄弟がいたらお兄ちゃんだと勝手に思ってた」
トゥーラの言葉にユラは少し嬉しそうな顔をした。
「今の私は兄の真似なんです。ちゃんとお兄ちゃんに見えていたなら良かったです」
「え、それって……」
「さて、話は終わり。早く行かないとまた森で野宿ですよ」
強引に話を切ったユラにトゥーラはぐっと口から出かけた疑問を飲み込んだ。そして、自分の分の荷物を背負い直すとユラの背中に口を開く。
「どうせ野宿する気満々なくせに」
「バレました?」
「もう慣れたよ」
「成長しましたね……嬉しいです」
お互い意識しながら普段の調子を取り戻す。三人しかいない旅路では、お互いにそうして居心地のよい距離感を保たなければいけない。それも半年でトゥーラが学んだことだった。
勿論、それが寂しくないとは言わないのだが。
◇
「では、今日はここで野宿にしましょう」
「やっぱり!」
森の中、少し開けたところでユラは立ち止まった。太陽はもうかなり西の方に傾いており、確かに野宿の準備を考えるなら、そろそろ言われるだろうとトゥーラも覚悟していた。テント張りは琥珀、薪はユラ。そしてトゥーラに今回与えられたのは水汲みの仕事だった。幸い、休憩に使っていた川はいくつもの分岐をしながらこの森の全域に流れているため、ユラに借りた地図があれば見つけるのは難しくない。
地図と方角を逐一チェックしながら歩いていると、丁度川の流れる音が聞こえてきた。トゥーラはその音の方に足を向ける。足を踏み出すごとに、荷物から持ってきた水筒と大きめの水汲み用の容器が彼の腕の中でぶつかり、軽い音をたてた。
「水って意外と重いのに、ユラったら自分だけ楽しやがるんだもんな」
ちょっと愚痴を言いながら水筒を見ると、休憩中のことが思い出された。
なんでお兄さんの真似なんてしてんだろ。ユラはユラなのに……。
しかし、そんな疑問は寂しそうなユラの瞳を思い出すと訊くことは出来なかった。自分はかれのことを詳しく知らない。そんな事実が胸を締め付けた。
物思いに耽りながら歩いていると、木々の隙間から川がちらちらと見えた。トゥーラは小走りに視線の先に走っていき、まずは水をすくって喉を潤す。
「はぁ……」
「ねぇ」
「うわああ!」
ついでに顔にも水をかけてトゥーラが一息ついていると、突然背後から声をかけられた。飛び上がるようにしてトゥーラが振り返ると、目の前に赤く小さな影が飛んでいる。それを見てトゥーラは目を見開いた。
「お、お前……」
「ん? 私を……知ってるの?」
黒っぽい重厚な赤をした髪と瞳、そして翅……明らかに【玉響】だとわかる妖精が小さく首を傾げた。唐突な出会いにトゥーラは言葉を失ってその小さな姿を観察したが、元々鉱石に明るくないトゥーラにはそれが何の石の【玉響】なのか分からなかった。
「……ねぇ……聞こえてる?」
「聞こえてるよ……その、お前は【玉響】だろ?」
「そう。知ってるのね……」
小さな少女は、どこを見てるのか定かではないぼんやりとした目つきでトゥーラの周りを一周ぐるりと回った。そして、再びトゥーラの正面に戻ってくると口を開いた。
「他の【玉響】の気配はしない……もしかして……貴方、ユラ様と一緒にいる人?」
「……ユラを知っているのか?」
トゥーラは震える声で尋ねた。彼の頭の中で警鐘が鳴り響く。
ユラは協力者がこの辺りに入るなんて話をトゥーラにしてはいない。ならば、その線である可能性は限りなく低いと言えるだろう。では、この少女がどうしてユラのことを知っているのか。トゥーラにはひとつしか答えが浮かばなかった。
「ここ、サクヤ様が野営にお使いいただきたいの……だから、水を汲んだら退いて貰える……?」
「……サクヤ?」
「知らない? サクヤ様は……」
「辰砂、誰と話してるんだい?」
その時、森の中から男の声がした。その聞き覚えのある声にトゥーラは体を硬直させる。
ゆっくりとした足取りで長身の男が森から出てくるのが、トゥーラの目にはコマ送りに見えた。黒っぽい和服に同じ色のフード付きのマント。今日はフードをかぶっていないからその顔がはっきり見えた。
「ああ、君か」
黒髪の男が柔らかく微笑んだ。
「お前!」
男の顔には見覚えがあった。声には聞き覚えがあった。
半年前、酒場でユラの話をした時のことが鮮明にトゥーラの頭を駆け巡り、怒りが一瞬で沸騰する。トゥーラは弾かれたように立ち上がり、そのまま男に飛びかかる。しかし男は悠然と微笑んだまま「辰砂」と呟いた。その瞬間、トゥーラの首元めがけて赤い影が高速で突進する。
「いっ!」
一瞬遅れてトゥーラは自分の視界が揺れるのを感じた。同時に手足が上手く動かなくなり、肩から地面にぶつかる。
「な、にを……」
「辰砂は毒性の強い子でね……効果としてはじんじんするような感覚を覚えたり、真っ直ぐ歩けなくなったり、視覚や聴覚にも異変が出るね……なんて、今の君に説明するのは野暮か。でも大丈夫だよ。ユラがいれば水晶の力で数時間もあれば毒が抜けるさ。水晶はそういう癒す力にかけては【玉響】でもトップクラスだからね」
まるで治ればなんでもいいだろうと言いたげな様子に、トゥーラは背筋に悪寒が走った。理解できないものを前にしている本能的な恐怖。トゥーラの目の前に膝をつき、彼の頭を撫でる男の手は、そんな恐怖の対象になっているとは信じられないほど優しいものだった。
「こんなところまで追ってくるんて……君は随分、弟想いな優しいお兄ちゃんだね」
「……」
トゥーラは何も答えられなかった。まるで首を絞められているように、息すらままならない。それが毒性によるものなのか、心理的なものなのかすら彼には判断できなかった。ただ叫び出したい衝動に駆られて大きく口を開いた。
その瞬間、男の背後の森の方から鋭い声が飛んでくる。
「手を離してもらいましょうか」
「……おや、ユラじゃないか」
男は相変わらずゆったりした動きで立ち上がりながら振り返った。トゥーラのぼやけた視界の中で、二人の男が対峙する。
「その子から離れろ。今すぐに」
殺意すら滲ませるユラの声音はトゥーラが初めて聞くものだった。しかし、ピリピリしているのはユラだけで、男はまるで背後に流れている川と同じようにそれを受け流す。
「感動の再会なのに、他の家の子のことばかり……相変わらず親不孝だねお前は」
「……お、や?」
トゥーラは自分の耳を疑いながら、ユラの方を見た。今の彼の目にはユラの表情までは伺えないが、場の空気がさらに冷たくなったのだけは感じることが出来る。しかしそんなことよりも、今聞いたことが真実かどうかの方がトゥーラには重要だった。
「親って……」
「なんだ、聞いてないのか。ユラも薄情だね。半年も連れ回していたくせに、結局何も話していないのか」
「黙れ!」
珍しく声を荒げたユラは手で空を切った。
「貴方のことなんか、もう親だと思っていませんよ。キョウを【玉響】にした、あの日から」
「怖いなぁ」
トゥーラにはもう彼らが何を話しているのか分からなかった。しかし、ユラと目の前の男が親子……つまりユラの父親であることは紛れもない事実として彼の頭に刻まれた。
その時、川べりに倒れたまま絶句しているトゥーラの肩のあたりに何かが触れた。
「そのままじっとしていてくれ。今治すから」
その声の主は水晶だった。ユラが父親の気を引いているうちに治すつもりなのか、水晶はトゥーラの頬に触れてじっと癒しの力を使う。そんな水晶の耳に、か細い声が聞こえてきた。
「あの男が、ユラのお父さんなんて……」
「……申し訳ないが事実だ。あの男は……サクヤはユラの実の父親であり、人間を……つまり君の弟くんを【玉響】にした張本人だ」
「……」
わなわなと唇を震わせるトゥーラを気の毒そうに水晶は見つめる。しかし、どうあがいても事実は変わらないものだ。
そんな二人の目の前では殺気立っているユラとサクヤの会話が続いていた。
「熱心に追いかけてくれるから逃げ回っていたんだが、まぁここで会ってしまったのも何かの縁というやつかな」
「ハッ……私が追えるように随所で情報を残すような真似をしておいてよく言う」
「ハハハ、バレていたのか。いや、健気な息子たちが愛おしいのは変わらないことなのさ。例えお前が私を親だと思っていなくてもね」
そう言いながらサクヤは自分の胸に手を当てた。
「どれだけ否定しようが、この血はお前の中に流れている。それは変えられない現実だろう?」
「……全身輸血でもしてもらいたくなりました。しかし、まあいいでしょう。多少のことは許すことにします。なにせ私は今気分がいい」
言葉の内容とは裏腹に吐き捨てる様にそう言うと、ユラは口元だけ笑みを浮かべた。
「ここであったが百年目というやつです。琥珀を……キョウを元に戻す方法を教えてもらいましょうか」
「……そんなことだろうと思ったよ」
サクヤはやれやれと言いたげな様子で溜息を吐いた。そんな彼の周りを飛んでいた辰砂は、不思議そうに首を傾げる。
「琥珀を……元に戻したいの?」
「当たり前でしょう。私はそのために十年も旅をしてきたんですよ」
何か言いたそうな顔をする辰砂にサクヤは声をかけながら手を差し出す。すると辰砂は黙ってその手の中に納まった。サクヤは辰砂を優しく包み込むと、自分のマントの内側に彼女を仕舞いこむ。
「どうして戻したいんだい?」
「何を……無理やり【玉響】なんかにされた弟を助けるのに、理由がいるんですか?」
「お、弟……って、琥珀が?」
多少回復してきたトゥーラの声を聞いて、サクヤは足元を見た。しかし、トゥーラの視線は目の前の仇ではなく離れたところにいる恩人の方に向けられている。それを見たサクヤはそっとほくそ笑んだ。
「無理やりって……心外だな。そこの少年の弟くんと違って、キョウは自分から【玉響】になりたがったんだよ?」
「は?」
さらにトーンダウンしたユラの声が重々しくその場に響いた。
「嘘を言うのも大概にしろよ」
「嘘じゃないさ。何なら、ここで紫水晶の【玉響】を出してごらんよ。それで私が大理石に変わればお前は自分の正当性を証明できる」
「そして、私は琥珀を元に戻す方法を永遠に失う。その手には乗りませんよ。自分の命まで道具のように使って……そこまでして私を愚弄したいんですか?」
口調は穏やかなものの、声音には怒りや不愉快を剥き出しにしながらユラはそう言った。そんな息子を観察するような目つきで見たサクヤはクスクス笑った。
「じゃあ、当の本人に訊いてみたらいいじゃないか」
「何を」
「琥珀に紫水晶を並べて、琥珀に聞いてみると良い。『君は自分から【玉響】になりたいと願ったのか?』ってね」
その時、初めてユラの冷たく燃えていた雰囲気にヒビが入った。琥珀を信じたい気持ちと、目の前で余裕顔を崩さない男への疑惑が頭の中に満ちる。
躊躇している様子のユラにサクヤは笑みを深めると、一歩ユラの方に踏み出した。それに合わせてユラは一歩後退る。
「簡単な話だろう? お前は琥珀を信用している。それなら紫水晶にジャッジさせるのをためらう必要はない」
「黙れ……」
「それとも弟疑い」
「黙れ!」
ユラは先ほどまでの強気を一切感じさせない震えた声で怒鳴った。その声の大きさは虚勢でしかないという事実は火を見るより明らかだ。取り乱すユラに呆然としているトゥーラは、ゆっくり視線を彼の斜め後ろに向けた。そこには普段通り琥珀が無表情で立ち尽くしている。
ユラは眼球をせわしなく動かしながらも、意を決して琥珀の方を見た。
「……琥珀、カバンから紫水を出してください」
「……」
「……琥珀」
「……」
「キョウ!」
思わず本名で叫ぶ兄を前にしても、琥珀は動かなかった。ただ俯いて唇を噛み締める。いつの間にか空にのぼっていた月が、そんな彼の髪に光を落とす。キラキラと輝きながらも微塵も動かない琥珀の頭を見て、ユラは言葉を失った。そんな彼の顔を見ながらサクヤは腕を組んだ。
「本当に微塵も可能性を考えなかったのかい? 野宿が当たり前の過酷な旅をしていても疲れない体を、君の隣に永遠にいられる権利を、キョウは【玉響】になってようやく手に入れたのに」
「……さい」
「まったく、相変わらず思い込みの激しさは変わらないな」
「うるさい!」
追い詰めるようなサクヤの言葉をユラは悲鳴じみた叫び声で打ち消した。バラバラに壊れてしまいそうな自分を守るように腕を交差させて自分を抱きしめるユラを見て、サクヤは小さく溜息を吐いた。
「ま、何でもいいよ」
そこでもうユラには興味を失くしたとばかりにサクヤは顔の向きをかえた。その先には未だ地面に伏しているトゥーラがあった。ユラを心配そうに見つめる少年を見て、サクヤは笑顔を浮かべながら彼の前に再びしゃがむ。
「君も弟を治したくて私を探していたんだったね」
「……」
トゥーラは顔を覗き込んでくるサクヤを正面から睨みつけた。そして「そうだ」と力強く答える。その目をみたサクヤは、懐から一枚の紙を取り出した。
「私はこの地図の書かれた場所に現在住まいを設けている。君にその気があるなら来なさい」
「……それは、元に戻す方法があるってことか?」
「ああ。何のリスクもなく人間に戻すことが出来る」
「……」
トゥーラは少し痺れの残る手を伸ばして、その紙を受け取った。サクヤは指先から紙が離れた瞬間立ち上がる。そして寝転んで顔をあげているトゥーラをしばらく見つめると、マントを翻して背を向けた。
「ああ、そうだ」
しかし、数歩歩いたところで立ち止まる。
「もし来たかったら、お前も来ても構わないよ」
名前すら呼ばない、振り向きもしないままサクヤはそう言った。しかし、その言葉が誰に向けられたかは明白だ。ユラは唇を噛み締めると「さっさと失せろ」と絞り出すような声で言った。サクヤはそんな息子を見ることもなく、返事もしなかった。ただ鼻で笑うと、川に沿って再び歩き始める。
サクヤの足音が聞こえなくなると、森は静寂を取り戻した。その場には二人の人間と二人の【玉響】だけが残される。コップの淵ぎりぎりに水が張りつめているような緊張感のある沈黙は、どさりという大きな物音で途切れた。その音を出した主であるユラは自分を抱きしめる姿勢のまま、膝を崩してうずくまる。
ただ震えるその背中を、琥珀は何の感情も読めない表情で見つめた。声の出ない口元が震え、時々何かを言いたそうに開かれるが直ぐに閉じられてしまう。頭の中では何か話しかけているのかもしれない。しかし、それは【玉響】とその契約者しかあずかり知らぬ領域。二人を静かに見守るトゥーラには分からないことだった。
トゥーラは黙ってサクヤに渡された紙を見つめる。水晶はその凪いだ海のようなトゥーラの目を見て、直ぐに視線を自分の契約者に向けた。
誰も何も言わないまま、ただ時間だけが過ぎた。風が木の葉を揺らす音。近くの川で水が流れる音。そんな自然のままの音だけが流れる沈黙を破ったのは、水晶の言葉だった。
「終わったぞ。綺麗な水の近くで助かった」
ただの業務連絡のような声さえ、いやに大きくその場に響く。トゥーラは水晶の言葉を受けてゆっくり体を起こした。手をグーパーと握っては開いたり、首を回したりなどして体の調子を確かめると、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「……ユラ」
トゥーラの落ち着いた声にすら、ユラは大袈裟に肩を震わせた。トゥーラは構わずユラの元に歩いていくと、彼と正面から向き合う場所でしゃがんだ。そして、俯いて前髪で隠れているユラの顔に手を伸ばした。優しく髪をどけて見えたユラの表情は、まるで迷子の子供のようだった。
トゥーラはそんなユラを見て頭を撫でる。
「ユラ、テントに戻ろう。ここ川辺だから夜は寒くなる。ユラが教えてくれたんだろう?」
「……」
「ユラ……」
責めるわけでもなく、ただ穏やかにトゥーラはユラの名前を呼んだ。それはまるで母親のようで、甘やかな感情だけを多分に含んでいる。そうされても黙って俯いていたユラだったが、暫くして鉛のような重い息を吐きだした。そして、自分を撫でるトゥーラの手にすり寄った。
懐かなかったネコが懐いたような、むず痒い感覚に襲われてトゥーラははにかむ。まるで小さなお兄ちゃんがいるような光景を眺めた水晶は、静かに琥珀のところへ飛んでいった。
「……先ほどの話、本当かい?」
「……」
琥珀は何も言わなかった。しかし、沈黙は時として言葉より雄弁に肯定を示すものだ。水晶は溜息交じりに頷くと、琥珀の肩に止まった。
「ちゃんと向き合わなければならないよ。それが、君に課されるべき罰だ」
「……」
琥珀は……何も言わなかった。
黙りこくっている兄弟を見守る二対の瞳は、同じ穏やかさをたたえているのに対し、当の本人たちは交わらない感情をその胸の中で煮詰める。
そんな二組に、月明かりは平等に降り注いだ。
【シンナバー】(辰砂)
辰砂は古くより、他の物質と調合し、様々な方法で加工することで不老不死の秘薬が完成すると信じられていた。しかし、現在は広く知られている通りこれは危険な考え方である。辰砂は昔から赤絵具などの原料として利用されており、その成分は主に硫黄と水銀。決して体にいいものではない。
そんな辰砂がどうして不老不死の薬の原料として重宝されたかというと、それは辰砂に水銀が含まれていることと関係がある。水銀は塩と一緒に焼くと塩化水銀という白い粉になるが、これらの物質をさらに焼くとそこから再び純粋な水銀を取り出すことが出来る。つまり、水銀とは様々な形状に変化可能な上、いつでも水銀に戻ることが出来るのだ。このような変幻自在な物質を服用することで、その効果を人間の体にも適応させられると考えたのである。
そうして辰砂は中国の煉丹術やヨーロッパの錬金術において重要な物質の位置づけを得たのである。
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