第7話 紅玉
ハミヤとその兄のハラーンは、元々は親の持ち物であった小さな喫茶店を営んでいた。場所もサマンのような第一次産業が盛んな場所ではなく、どちらかというとハントジュールに似た、栄えている商業都市だった。
料理が得意だがコーヒーや紅茶といった、喫茶店の顔でもある飲み物の味がからきし分からないハミヤと、どちらもそつなくこなせるハラーンは、お互いを補い合いながら仲睦まじく店を切り盛りしていた。明るいハミヤの性格は元気がもらえるとして近所では有名であり、店はいつも常連を主としてにぎわっていた。
そんな二人にとって、悩みといえば年老いた母親のことだった。若い頃はハミヤと同じように元気に喫茶店を盛り上げていた彼女だったが、歳をとるにつれて記憶力が衰え、時には自分の子供達のことすら分からないこともあった。
そんな状態が少しずつ変わり始めたのは、ハミヤが二十代半ばの夏だった。うだるような暑さの下で、二人は【玉響】と出会った。
◇
年々悪化していく母親の状態を見て、ハミヤは自分が店を少し離れて定期的に母親の面倒を見に行くことを提案した。喫茶店と彼らの住む家は徒歩で五分程しか離れていないため、ひと気のない時間帯を狙えば様子を見に行くのは難しいことではない。
「いいのか? 別にオレが行ってもいいんだぞ」
「何言ってんだい。兄さんがいないとコーヒーが飲めないって常連さんに怒られるよ」
茶化すようにそう言って笑うハミヤを見て、ハラーンは渋々それを了承した。彼女が一度言い出したら聞かない質なのは長年の付き合いから理解していたのだ。
もし辛くなったら、また相談してくるだろ。
そんなハラーンの考えも経験によるものだった。しかし、そんな予想に反してハミヤは二ヶ月たってもハラーンに助けを求めてくることはなかった。
昼休みの二十分くらいや、客の足が減ってくるお昼過ぎなど、暇を見つけては自宅と店を行き来するのは決して楽ではないはずだ。兄という立場がそうさせるのか、ハラーンには心配でならなかった。
「ハミヤちゃん、最近よくお店を離れていくね」
ひとの多い時間をわざと避けてくる常連客はそう言いながらフォークにパスタを絡めた。ケチャップの焦げた甘い匂いが鉄板から漂うのを嗅ぎながら、ハラーンは苦笑いする。
「母の世話をしに行ってるんです」
「お母さんの?」
「ええ。実は最近どうも物覚えが悪くなっているようで……店に来てもらっても危ないですから家の中にいる様に頼んでいたのですが、それでも心配なのでハミヤが様子を見に」
「へぇ……そういや俺の母親も死ぬ前はそんな感じだったよ。勝手に家出て道に迷ったりしてさ。参るよねぇ」
「そうですね。うちは未だにそうはなってませんが……怖いですね。ハミヤでは飲み物が用意できないからと、店に残るのが私になっているのですが、少し心配になってきました」
「ハハハ、ハミヤちゃんなら大丈夫でしょ。良い妹さんじゃない」
「ええ、本当に」
豪快に笑ってパスタを口に入れる客から視線を外しながら、ハミヤは口角を下げた。その頃、次第に家の中で母親の世話をするのがハミヤの役割になってきていた。ハラーンが手を出そうとしても、ハミヤは率先してその仕事を奪っていく。
それが今まで何事も相談し合いながらこなしてきた兄妹として異様に映って仕方ない。ハラーンの中で、ハミヤに対する疑念が少しずつ大きくなっていた。
◇
そこまで話したところで、ハミヤは大きく息を吐いた。疲れた様子にトゥーラは慌ててハミヤに声をかける。
「無理して話さなくても……」
「いや、これはアタシが生きている限りは背負っていかなきゃいけないものだからね。気にしなくていいよ。それに……」
ハミヤは穏やかな顔でトゥーラの頭を撫でた。
「聞いてほしいんだ。聞いてもらって楽になるものもある。特に兄さん……【玉響】に関することは話せる相手が限られてるからね。ユラの奴は兄さんの顔見るたびに申し訳なさで死にそうって顔をするし」
太々しいユラのことしか思い浮かばないトゥーラはその言葉に押し黙る。
あのユラが他人にそんな顔見せるなんて全然想像つかねぇんだけどな……。
そう思ったものの、トゥーラ自身、ユラと旅をするようになって半年もたたないため彼のことを言うほど知っているわけではない。少し前まではそれがもどかしいような、悔しいような気持ちがしたものだが、今では「見てみたい」という先に期待する気持ちの方が強かった。
「それに、ここで会ったのも何かの縁ってやつだろう? 聞いておくれ」
「……分かった。でも本当に無理はしないで欲しい」
「ああ、そうだね……」
トゥーラの言葉にハミヤは微笑むと、そっとシーツの下から兄の手を取り出した。
見た目は人肌なのに、触るとひどく冷たく、肉の感触よりも妙な硬さが勝る。そんな人でもなく石でもない手を温めるように両手で包み込んだハミヤはそっと目を閉じて続きを話し始めた。
◇
「なぁハミヤ、母さんの世話、少しの間交代しよう」
開店準備をする店の中で、ハラーンはそうきりだした。ハミヤは一瞬肩をびくつかせ、しかし直ぐに床掃除をしていた箒を動かす。
「突然どうしたのさ」
「お前にばかり任せておけない。俺だって母さんの息子なんだから世話をする義務があるよ」
「義務って……だって、兄さんは店に必要なんだから」
「最近は暑いから皆アイスしか頼まないだろ? それなら作り置きが出来るから大丈夫だ」
「……」
「それとも、何かオレに母さんの世話をさせられない理由でもあるのか?」
思わず疑念が表に出た。咎めるような口調になったことはハラーンも自覚したのか、直ぐに「すまない」と謝る。
「でも……お前が心配なんだ」
「……ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
ハミヤはそう言っていつも通り太陽のような笑みを浮かべた。そして集めたごみをちりとりで取り去ると「表の札をオープンにしてくるね!」と言って出ていった。その逃げるような背中に兄がどんな視線を向けているかも気付かないまま。
その日の昼、ハミヤはいつも通り自宅に戻っていった。常連の何人かが「毎日偉いねぇ」と言いながら頬を緩める中、突然ハラーンが着ていたエプロンを脱ぎ始める。カウンターに座っていた常連が面食らっていると、ハラーンはその常連に声をかけた。
「すみません。少しだけ店をお願いします」
「え?」
「コーヒーは冷蔵庫に冷やしてあります。十五分程で戻ってくるので!」
「お、おお……ま、任された……」
ハラーンのあまりの勢いに負けて常連はぎこちなく頷いた。その手にエプロンを握らせると、ハラーンは慌てた様子でハミヤの後を追って店を出ていった。
「何かあったのかね」
「……さぁ?」
残された客たちは暫く揺れる扉を眺めていたが、直ぐに各々の注文した品に意識を戻していった。それまで、ハラーンとハミヤの兄妹はちょっとした喧嘩をすることはあれど、たいていは次の日になるとまた笑い合っている。今回もその類のすれ違いだろうと皆が判断したのだ。
ハラーンがこんな時間に街を歩いているのが珍しく、店先で何人もの人間が声をかけたが、彼は誰の声にも反応しなかった。そんな様子も異様だと思われてさらに心配から声をかける者もいたが、今ハラーンの頭の中にあったのは大切な妹のことだけだ。
直ぐ近くの家まで走る道のりが何故か遠く感じるような焦燥感に駆られながら家の扉を勢いよく開く。その音に驚いたのか、母親が使っている部屋からハミヤが飛び出してきた。
「な、え? 兄さん⁉」
「……」
目を丸くする妹を押しのけ、ハラーンは母親の部屋に押し入ろうとする。ハミヤが必死に「どうしたの?」など話しかけながら止めようとするが、力で兄に敵うわけがなかった。最終的に縋りつくような姿勢になった妹を一瞥して、無表情のハラーンは扉を開いた。
そこではベッドに寝た状態で上半身を起こした母親が、手のひらで小さな赤い少女を遊ばせていた。まるで人形遊びでもしているかのように「ルビー、誰か来たみたい」と話しかけている様子を見てハラーンは硬直する。
彼にはその小さな影に見覚えがあったのだ。
「何で……何でまたこいつが」
「兄さん聞いて」
「お前まさか! あの時殺さなかったのか? あの悪魔の手先を」
血走った目でハミヤの肩を掴むハラーンには、もう妹の声なんて何も聞こえていなかった。
◇
「え、悪魔の手先って……」
「勿論、【玉響】のことだよ」
ハミヤはポケットから頭だけを出している紅玉を人差し指で軽く撫でた。
「アタシは、その頃よりずっと前……子供の頃に紅玉に会ったんだ。たまたま近所の木になっていたリンゴを拝借して食べてたら横から妖精が突撃してくるんだ。そりゃあ驚いたさ」
「いいだろう? リンゴの甘い香りがしたものだから飛びついちゃったんだ」
「よ、妖精って……」
「その目をやめてくれるかな」
ムッとした顔をする紅玉にトゥーラが「ご、ごめん」と謝ると、クスクスハミヤが笑った。そんな彼女を見て、トゥーラは頬を掻きながら視線を逸らす。
「話がそれたね。私達はそうして出会って、同じリンゴ好きってところで意気投合したんだ」
「【玉響】の神秘性って……」
「うるさいな! 確かに【玉響】の中には少々高慢な者もいるけど、ボクは人間が好きだよ。野生のリンゴより、人間が栽培したリンゴの方が甘くて美味しいからね」
「そりゃあ、手間暇かけてるからね」
誇らしげに言いながらも、視界の端にハラーンが映ったためか、ハミヤは前髪を掻き上げてすぐにまた真面目な顔になった。
「そうして、私達は契約を交わしたんだ。子供の頃の私にとっては、契約というより友達になった程度のものだったんだけどね」
「……」
「でも……コウギョクを連れて帰ると、兄さんはそれを友達だとは認めてくれなかった」
そう言いながら、ハミヤは兄の手をぎゅっと握りしめた。唇を震わせているハミヤにトゥーラは話をやめさせようかと思ったが、先に目が合った紅玉に首を横に振られ、口元にぐっと力を籠める。
「元々、信心深い人でね……私達が昔住んでいた辺りは一神教で、戒律もそこそこ厳しいものだったから尚更さ。教えにない不可思議な生き物を、悪いものだとしか兄さんは思ってくれなかった。私が何を言っても聞いてくれなくてね……結局コウギョクは瓶に詰めて川に流されちまった」
「え?」
「あの時は本気で呪い殺してやろうかと思ったよ」
「シャレにならないね。コウギョクの呪いは」
「……ちなみにどんな……」
「僕に呪われると、一番親しい人に殺されるんだ」
「……」
トゥーラが恐る恐るハミヤの方を見ると、彼女は苦笑いで手を振った。
「兄さんがこうなったのはコウギョクのせいじゃないよ」
「良かった……」
「失敬だね。ボクは何とか瓶を壊して脱出した後、確かにハミヤの家に戻ったけどそれは呪うためじゃない。ハミヤとの契約を破棄しに行ったんだ」
「え?」
「ボクのせいで友人が家族と不仲になるなら、ボクを切り捨てるほうが正解だろう? ボクは所詮他人なんだから」
「そんな……」
紅玉の突き放すような言い方にトゥーラが言葉を失っていると、紅玉の頭をハミヤが指先で小突いた。
「意地悪な言い方しない。ようはアタシを心配してくれたんだろ」
「そうとも言うね」
「じゃあ、どうしてコウギョクは大人になったお母さんの元にいたんですか?」
「……」
紅玉はポケットから飛び出してくると、少し飛んでハラーンが眠るベッドのシーツの上に着地する。ハラーンの腹の部分に腰を下ろすと、懐かしむように目を細めながら口を開いた。
「ボクがハミヤの家に戻ると、そこにはお母さんだけがいたんだ。そしてボクを見るなり両手で捕まえた」
「え?」
「あのお母さんは僕に魅入られてしまっていた。最初は『ほとぼりが冷めるまで待ってハミヤと会わせる』って話だったけど、結局母親の部屋の中の宝石箱に閉じ込められてしまった」
「そんな……」
「ユラによると【玉響】に関わるとよくあるらしい」
ハミヤは紅玉に手を伸ばしながらそう言った。紅玉はその手の上に素直に乗り、彼女の力仕事で硬くなった手にすり寄る。小動物が甘えているようなその行動に頬を緩めながらハミヤはトゥーラの方を見る。
「【玉響】は宝石の持つ魔性の力や聖なる力を存分に吸ってる。加えて元が妖精……人間には時としてそれが毒にもなる」
「エメラルドみたいにその魔性の力が自分で抑えられない者もいるくらいだ」
「母さんはずっとコウギョクを大切に仕舞いこんだ。私がそれに気付いたのは、昼間に母親の世話をしに行って三回目くらいだった。誰もいないはずの部屋の中から話し声がして、鍵穴から覗いたら母さんとコウギョクがいたんだ」
「……それは……驚いたでしょうね」
そんなありきたりなことしか言えないことを悔やみながらトゥーラは相槌をうつ。ハミヤは気にしない様子で手の中の紅玉の頭を撫でた。
「多分、私もコウギョクに魅入られてるんだ。コウギョクがそばにいると知った私は、今度こそ一緒に居られるように、記憶が不確かな母親に協力し始めた」
「まあ、結局限界が来て……この惨事を引き起こしてしまったんだけどな」
部屋にいた全員の視線がベッドの上の青年にむけられた。しかし、ハラーンは微塵も反応を示さず、ただ彼の胸が規則正しく上下する以外に動きすらない。それをしばらく眺めたハミヤは、話の続きを始めた。
◇
「お前まさか! あの時殺さなかったのか? あの悪魔の手先を」
「違うさ兄さん! この子は悪魔の手先なんかじゃ!」
必死にハミヤが訴えるものの、ハラールは激情した様子で「何を言ってるんだ!」と怒鳴りつける。その大きな声にハミヤは体を震わせ、ジワリと目に涙が浮かぶのを堪えられなかった。泣いている妹を見て、ハミヤにはこれ以上何も言えないと感じたのか、ハラールは母親に飛びかかる。
「何をするの⁉」
「離せ、母さん! コイツは殺さなきゃ!」
そう言って母親の手から強引に紅玉を奪った兄を見て、ハミヤは思わずその背中にタックルをいれる。予想外だったのか顔から倒れたハラーンが反射的に手を吐こうとした瞬間、開いた手から紅玉が逃げ出した。それを見たハミヤは紅玉を両手で包んで家を飛び出す。背中に兄の怒声が刺さったが、ハミヤは気にせず無我夢中で大通りを走った。
ハミヤがようやく息を切らせながら立ち止まったのは。街の外れにある石橋の下だった。乱れた息で咳までしているハミヤの手からするりと抜け出した紅玉は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんな。逃げられなかったんだ」
「はぁ……は……」
「でも、これで終わりに出来る。契約を」
「い、や、ハア……」
「何で!」
「兄さんが! 間違ってるからに決まってんでしょ!」
ハミヤは肺の空気を全て出さんばかりの大きな声で紅玉に叫んだ。その勢いに負けて紅玉が黙ると、今度こそちゃんと息を整えようと胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。紅玉はそんな彼女の頬をそっと撫でた。
「馬鹿だな……君は」
「馬鹿で結構。アタシは今でも友達だと思ってるからね」
「……」
「とりあえず、兄さんを説得しなきゃ……出来るかな……」
「秒速で弱気になるじゃん」
しゃがみこんだハミヤの肩に座ると、紅玉は先ほどのハラーンの顔を思い浮かべた。
絶対分かってもらえなさそう……。
火を見るより明らかな現実に、紅玉は困った顔でハミヤを見上げる。しかし、ハミヤは真剣な顔で腕を組みながら「正面から土下座は確率低いよねぇ」などと呟いている。その姿に思わず紅玉が笑みを浮かべると、横の方で砂利を踏みしめる音がした。
「おや、こんなところにお嬢さんが独りなんて……危ないよ。ああ、独りではないか、【玉響】もいるみたいだ」
和服の上からフード付きのマントをかぶった男は、そう言って微笑んだ。
◇
「和服姿の男って……ユラじゃないんだよな?」
「ああ。ユラが追っている男さ……全ての元凶」
そう言いながら、悔しそうな表情でハミヤは兄の手を握っていた手に力を込めた。震えるほどの力を見て、紅玉がその手の上に飛んでいく。「落ち着いて」と言いながら手を撫でる紅玉を見て、ハミヤは小さく頷いた。
「アタシは【玉響】を知る男を何も疑うことなく、その時の状態を説明しちまった。コウギョクとの出会いから兄さんと揉めてることや、今はどうにかしてコウギョクといられるように考えてることまでね」
「それで、男は……」
「男は……笑ってこう言った『じゃあ、お兄さんに【玉響】の素晴らしさを私が教えよう』とね」
胡散臭い、とトゥーラは思った。しかし、当時の家族と揉めたばかりのハミヤにとって、男は相談相手として疑えるほどの余裕がなかったのも理解していた。何より、悔やんでいるハミヤの今の顔が全てだ。
「家族には感情的になってしまう人でも、第三者が介入すると冷静さを取り戻すこともあるとか何とか……上手いことを言って、あの男は私から家の場所を聞くことに成功した。そして、一時間ほどしたら家に帰るように言われたんだ」
「……」
「流石におかしいと、その時気付くべきだった。なのにアタシは、コウギョク……【玉響】と人間がこんなに仲良くしているのは珍しいとか、そのままでいて欲しいとか言う男の甘い言葉をすっかり信用しちまって」
当時、最も信頼していた兄との関係が不安定になっていたことで、ハミヤの心の安定は失われていた。その状況で、理解者が現れることはどんなに都合がよくても救いに思えてしまうものだ。
トゥーラはユラについていくと決めた日のことを思い出しながらそう考えた。幸い、ユラは実際にいい人間だった。彼自身がどう思うかはさておき、トゥーラは胸を張ってそう言える。だからこそ良かったものの、もし悪人でもあの時のトゥーラにはほかに頼れる先などない。きっと、いいように利用されただろう。
トゥーラがじっと黙りこくっていると、ハミヤは一度目を閉じて大きく深呼吸してから口を開いた。
「一時間して戻ると、兄さんは石の卵のようなモノの中に閉じ込められていた。母さんはそんな兄さんを見て笑っていて……正直、思い出したくないよ。あの光景だけは」
「……ハミヤ」
心配そうに声をかけた紅玉に向かってハミヤは力なく笑った。
「ごめんね。大丈夫」
そう呟いてハミヤは視線を眠ったままのハラーンに移す。
「母さんはその二日後にぽっくり亡くなった。アタシは常連さんに声をかけて和服の男を探しが見つからず、近所からは悪魔に呪われたと言って忌諱されるようになった。そうして、どうしていいか分からず途方に暮れて……五ヶ月程が経った頃にユラが現れたんだ」
ハミヤは、過去の話を始めてから初めて声を出して笑った。その様子にトゥーラが目を丸くすると「ごめんごめん。最初に会うなり殴りかかったことを思い出して」と衝撃的なことを言われる。
「和服の男を見たら殺すくらいに思ってたからね」
「ハハハ……」
「でもコハクに止められてね。羽交い絞めにされながらワンワン泣くアタシを見捨てることなく、ユラは話を聞いてくれた。そこからは、多分アンタと同じさ。ユラに人間が【玉響】にされている事件の話を聞いて……アタシは、街を出ることにした。
「……」
「居心地が悪かったからね。店を売ってお金を作った。ユラの手をかりて、荷車にハラーンと最低限の荷物を積んで……ひたすら穏やかな土地を求めた。そしてここに行き着いたんだ。その間ずっとユラがつきっきりでいてくれてね。本当にいい奴だよ」
「うん、知ってる」
トゥーラはようやく肩の力を抜いて微笑んだ。そんな彼を見てハミヤも強張っていた頬を軽くマッサージする。
「リンゴは美味しいし、村の人は皆親切だ……最も、ここに溶け込めたのは旅の途中でハラーンの【玉響】化が終了したからなんだけどね」
「そんな……」
「あんなデカくて得体のしれないもの、皆怖がって当然さ」
やるせなさを滲ませるハミヤを見て、初めてトゥーラは残してきた弟のことを心配に思った。もし、酒場の店主が約束を破ってマーレのことを売り払ったりしていたら……と考えて、必死に首を横に振る。彼はそんなことをする人間ではない。そう、長い付き合いで分かっている。
「目を覚まさないことと、人間離れした髪色以外は普通だからね。病気だと伝えて、ここに根をおろした。後は見ての通り、今は楽しくリンゴ農家をやってるってわけさ。いつかユラから元に戻す方法を聞けることを楽しみにしながらね」
「……お兄さんに目を覚ましてほしいんですよね……」
トゥーラの歯切れの悪い言葉に、ハミヤは困ったように笑った。
「そりゃあね。家族だもの。分かりあって、一緒に生きていきたいよ」
「……そう。そうですよね!」
ホッとした顔をするトゥーラをみて、ハミヤは椅子から立ち上がった。そのままトゥーラの元に歩いていくと、上から包み込むようにして彼を抱きしめる。
トゥーラはその力強い抱擁に驚きながらも、人肌の温もりにそっと寄り添った。
「アンタも頑張りな。家族は……必ず助かるよ」
「はい」
「……それと、ユラのことも頼むよ」
「え?」
思ってもみなかった言葉にトゥーラは顔をあげた。すると、腕の力を緩めたハミヤは間近で微笑みを浮かべる。
「アイツはあんな顔してるけど、寂しがりやで責任感が強くて面倒くさい」
「滅茶苦茶言うな……」
「そして何より優しいんだ」
「……」
「そんなユラがずっとコハクと二人きりで旅を続けているのが気がかりで仕方なかった。だから、アンタが一緒に行く選択をしてくれて本当に嬉しいんだ」
「……俺は、そんな役に立ってないよ」
悔しそうなトゥーラの声に、ハミヤは彼の背中をドンと叩いた。あまりに強い力に、思わずトゥーラは咳き込みながらよろめく。
「何言ってんだい。そばに寄り添ってくれる誰かいるってことがどれだけ心強いか、知ってるのはアタシ達だろう」
「……うん!」
勢いよく頷いたトゥーラを見て「さてと」と言いながらハミヤは立ち上がった。
「下に行こうか。そろそろユラも手紙を読み終えてるだろうし、送られてきた【玉響】がどんな子だったのか見に行こう」
「あ、うん!」
一足先に部屋から出ていったハミヤと紅玉の背中を追おうとして、トゥーラは立ち止まった。その視線の先では、相変わらず眠り続けているハラーンの姿がある。
マーレの【玉響】化が終われば琥珀のようになるのだと漠然と考えていた。しかし、ハラーンという新しいケースを知り、トゥーラはじっと思い悩む。
もし、マーレが寝たきりになったら……俺は……。
しかし、直ぐにトゥーラは首を振って暗い考えを吹き飛ばした。
「絶対に戻してやるからな」
窓の外に向かって、誰にも聞かれない少年の決意が投げられた。
【ルビー】(紅玉)
イラン神話の英雄ロムタスはトゥーラーンの属国であるサマンガーンの王女と結婚した。しかしそれから間もなく、イランとトゥーラーンの間に争いが起こりロムタスは帰国しなくてはいけなくなった。その際、彼は妻に三粒のルビーを渡し「生まれてくる子が娘なら髪飾りに、息子なら腕輪にしなさい。そうすれば父を知らないこの子を子供だとわかる」と言い残した。
月日が流れ、ロムタスの息子ソフラープは逞しい青年に成長した。しかし、ある日彼はトゥーラーン国王の命令で軍を率いてイランを攻撃しなくてはならなくなった。父の顔も知らないソフラープは敵に父がいることを気に病み、父とは戦わないために父の顔を知っている叔父を軍に加える。しかし最終決戦前に叔父は戦死してしまう。仕方なく彼は捕虜を父親の確認に使うが、捕虜は敵陣に父親はいないと嘘を吐いた。
戦闘が始まると、ソフラープとロムタスは向かい合い一騎打ちになってしまう。折角の腕輪も鎧の下で見えない中、二人の戦いは二日間に及び、最終的にロムタスが勝利する。そしてソフラープは死にゆく間際、自分はロムタスの息子なのだと打ち明ける。絶望したロムタスはこの後行方知れずとなってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます