第5話 管制塔にて待つ(4)
「アレッタ、あなたどこに行っていたの? 心配したのよ!」
家の玄関を開けた途端、涙目の母が私に飛びついてきた。
「お父さんみたいに、あなたまでいなくなったらどうしようって……」
私は母を抱きしめ返しながら、謝った。ただ待っているのは、とても不安だっただろう。
「すぐに避難の準備をするわ。お母さんはもう出られるの?」
母は頷き、背負えるようにした大きな荷物を指さした。
「大事な香水や原料は持って行くことにしたの。万が一の時のために」
この家がカイロンに踏み潰されたら困るものね、と母はおどけて言った。
「大丈夫よ、きっとすぐに反乱は終わる。すぐ戻って来られるわ」
私は不安を振り払うために、自分に言い聞かせるようにして言った。
いざ避難のため荷物をまとめようとすると、意外と持って行くべきものに迷った。着替えと貴重品、食料や水。思いつくものを詰めていって、他に何かあるだろうかと、部屋の中を見回す。
本棚に目を留めた私は、そこから一冊だけ抜き取り、持って行くことにした。父との思い出の絵本、「やさしいカイロン」を。
街を歩いていると、私たちと同じように港に向かう人たちがだんだん増えてきた。時刻はそろそろ明日を迎えそうだが、夜の街は奇妙な空気に包まれている。不安な顔を浮かべ、寄り添いあいながら歩いている親子や夫婦、兄弟姉妹。私も、母とお互いにしがみつくようにして歩いた。
庁舎の近くを通りがかった時、悲鳴のようなどよめきが聞こえた。後方、牧場の方角からだが、何かあったのだろうか。
こちらに走ってくる人たちがいる。さざ波が徐々に大きくなるように、彼らの言葉が聞こえてきた。
「早く逃げろ!」
「カイロンが牧場から逃げ出した!」
パニック状態でがむしゃらに走り出す人、恐怖のあまり動けずにいる人、子供を抱きしめる人。その光景を見ている私も、恐怖に襲われていた。母と顔を見合わせ、どうすれば良いのかわからず呆然とするばかりだった。
「庁舎の中へ避難を! 早く!」
喧噪の中で私の耳が捉えたのは、エルの声だった。金縛りにかかったようだった足が動き、頭が回り始める。カイロンは逃げ出しても人を襲ったりしない。通り道の邪魔をしなければ大丈夫だ。
「お母さん、こっち!」
私は母を引っ張り、庁舎へと向かった。建物の中に、人がどんどん吸い込まれていく。私たちも中に入ることができ、ひとまずほっとした。避難してきた人たちで入り口の近くはごった返していて、私と母は気づけば議事堂の近くの廊下まで来ていた。
「ああ、肩が凝ったわ。さすがにちょっと多かったわね」
安全な場所に来て安心したのか、母は普段の調子を取り戻し、荷物を床に下ろした。荷物の上に座った母は、私にも座るよう勧めた。先ほどの怯えはどこへやら、ケロリとした顔をしていて、我が母ながらその肝の太さに戸惑った。
エルは見かけたが、シャノンやアリスはどこにいるのだろう。首を巡らせてみたけれど、二人の姿は見当たらなかった。
廊下をバタバタと走る音がしてそちらを見ると、若い軍人だった。真っ青な顔でふらついているようにも見えるが、大丈夫だろうか。彼が議事堂の中に入っていくと、それからすぐに、椅子のひっくり返る大きな音がした。入り口の警備員たちも、思わず中の様子を確認している。
すぐに部屋から出て来たのは、ハリス少将とアリスだった。二人の顔も、あの若い軍人と同じくらい血の気が引いている。少将は大股で歩いて私のところにやって来ると、早口で言った。
「ク、クロフォード少佐を見なかったか? 市民の誘導に行くと言って外に出たんだが」
「いえ、私は見かけていないですが……捜してみましょうか?」
少将は弱々しい声で、頼むと私に言った。
「はっ、部下がいないと決断できないのか? 少将閣下が聞いて呆れるな」
「うるさい、つまらん冗談を言うほど怖いなら隅で毛布でも被っていろ。視界に入るな」
警察署長と少将のやりとりで、事態が悪い方に進んでいるらしいことは理解できた。聞きたいような、聞きたくないような気持だった。とにかく今は、シャノンを探しに行かなくては。
「アレッタ、どうしましょう……」
縋るように私の腕を掴んだアリスの指先は、冷え切っていた。
「シャノンを探してきます。母を――」
お願いします、と言えるような状態ではなさそうだ。しかし、ここへきて母はさらに肝が据わったようだ。立ち上がると、アリスを支えるように肩を抱いた。
「よくわからないけど、行ってきなさい。ちゃんと帰ってくるのよ」
私は頷き、駆け出した。
捜してくるとは言ったものの、シャノンは見つかるだろうか。背が高く目立つ容姿ではあるが、この人の多さではさすがにわからない。私は外に出たという情報を頼りに、建物の周囲を巡った。
「アレッタ、どうしたんだ?」
エルが、私を見つけて声をかけてくれた。
「何か緊急事態が起きたみたいなの。少将閣下がシャノンを探しているのだけど、彼の居場所を知らない?」
「大体の場所なら見当がつく。こっちだ」
私はエルに案内してもらい、建物の南側に回った。そこはお年寄りが多く、シャノンはちょうどおばあさんの荷物を持って階段を上がっているところだった。
彼に事情を話し、三人で議事堂の方へと向かった。少将と署長、そしてアリスはまだ廊下にいて、なぜか母も自然な顔で混じっていた。
「少将閣下、緊急事態とお聞きしましたが」
シャノンの言葉に、少将は唇を震わせながら言った。
「……帝国が、カイロンの部隊を組織して飛び立ったそうだ。しかし、部隊は王都を素通りし、防御を固めた王都への襲撃はしなかった。――目的地は、このトゥーレだ!」
「なんですって?」
一番に素っ頓狂な声を上げて反応したのは、母だった。
「じゃあ、すぐに逃げないと! 逃げましょう、アリーチェ様」
母はアリスを今にも引っ張っていきそうな勢いだったが、アリスは首を振った。
「私は領主です。ここを離れるわけにはいきません。ロザリーンさん、あなたはアレッタとすぐに逃げてください」
「――いや、もうここに残る意味はありません。島を出る準備をすべきだと思います」
「シャノン、どういう意味? まさか……」
アリスは信じられないというように、シャノンを見た。
「はい、今からでは本土からの援軍は間に合いません。仮に援軍が送られたとしても、後手に回り劣勢を強いられるのは確実。帝国の空襲を防ぐほどの装備はトゥーレにありませんし、本土全域の軍用騎の数を考えれば、犠牲を払って守るほど飼育施設に価値はありません」
淡々と告げるシャノンの後ろで、少将が頷いている。警察署長も補佐官も、異論は挟まなかった。
「そんな! あなたは、本当にそれでいいの?」
アリスがシャノンの腕を掴み、顔を覗き込むようにして言った。今にも泣きだしそうなのを、懸命にこらえているようだった。
「……ええ、それが今最善の判断だと思います」
アリスの手が、諦めたようにパタリと落ちる。
その時、前触れなく建物がズシンと揺れた。
「なんだ? まだ帝国軍が到着するには早いぞ」
少将が頭上を見て言う。避難した住民たちが集まっている方から、悲鳴も聞こえていた。
そこへ、軍人が一人駆けてきた。
「牧場を脱走したカイロンが、支庁舎前に集まっています! 領主のクロフォード様を出せ、と」
秩序をもって行動しているのならば、人間が操縦しているということだろう。革命軍による襲撃だ。
「すぐに行くわ。彼らにも呼びかけないと。同じ国の中で争っている場合じゃないもの」
急いで外に向かおうとするアリスを、少将と警察署長がこの時ばかりは一緒になって止めた。
「危険です。彼らの話など聞く必要はない。見つからないように、抜け出しましょう」
「いいえ、この事態はリト公国の人々と溝を埋めることができなかった、私の罪です。領主の最後の仕事として、彼らを説得しに参ります」
決意を宿した瞳は、ここにいる誰よりも強い輝きを放っていた。誰もアリスを止めることはできない。
「お二人は来られなくてもよろしくてよ。危険ですからね」
アリスは少将と警察署長に向かって言い放ち、二人は慌てて彼女を追いかけた。もし彼女に怪我でもさせたら、叱責を受けるからだろう。
「本当に言い出したら聞かないな、あのお嬢様は」
シャノンとエルは顔を見合わせて笑った。
「……エル、もしカイロンが退かないようなら――」
「ああ、仕方ないな。このままじゃ、避難もままならない」
二人が交わした言葉の意味は、私にはわからなかった。しかし、二人の表情からそれが良いことを意味しているようには見えなかった。
「ねえ、シャノン、エル。あなたたちは、何をしようとしているの?」
嫌な予感を覚えた私は、二人を引き留めて尋ねる。彼らは私を振り返って言った。
「港までの道を切り開くって話さ。なあ、シャノン?」
「ああ。そして、争いはここで終わらせる」
二人の言葉に悲壮感はなかった。それなのに、私の不安は消えなかった。彼らの背中を見て、行かないでと叫びたくなった。
「……行きましょう」
「行くって、どこへ?」
ぽつりと言った母に聞くと、決まっているじゃないと返ってきた。
「あなた、アリーチェ様たちのことが心配でじっとしていられないのでしょう? だったら、行きましょう。様子を窺うくらいなら、迷惑は掛からないわ」
土壇場になると恐怖を忘れて突っ走るのは、母も同じだったらしい。私は母と共に、庁舎の出入り口へと向かった。カイロンの襲撃で避難者たちは建物の中に向かおうとしていて、私たちは流れに逆らって必死に進んだ。やっと出入り口にたどり着いた時、庁舎前の広場には十頭を超えるカイロンが広場の中心を向いて立っていた。中心にいるのは、アリスだ。彼女はカイロンたち――カイロンの中にいるであろうパイロットたちに向かって、声を張り上げていた。
「これから、パラス帝国軍のカイロンの部隊がこの島に来るわ! 今は争っている場合ではないの! このままトゥーレにいたら、私たちもあなたたちも命はない。ここにいる人たちを避難させるために、港までの道を開けて! あなたたちが憎いのは私であって、同じトゥーレの人々ではないでしょう?」
堂々と話すアリスの姿を、少し離れたところでシャノンとエルが見守っていた。少将と警察署長の方は、すぐ建物の中に逃げ込める位置にいる。
一歩も引かないアリスにしびれを切らしてか、カイロンたちの前に男性が現れた。ギルバートだった。
「その話が本当だという証拠は? 我々を制圧するための嘘なんじゃないか?」
ギルバートが言う。よく見れば、カイロンの背後にヴァイナーの姿もあった。彼がそのように言うよう入れ知恵をしたのかもしれない。
「あなたは仕事上、王都と連絡を取る手段を持っているわね? それなら簡単よ、電話で一言聞けばいいわ。さあ、早く」
ギルバートの表情に、迷いが見えた。アリスの自信に満ちた態度に、本当かもしれないと思ったのだろう。
その時どこからか、アリーチェ様、と叫ぶしゃがれた声が聞こえてきた。どこかで聞いたことがあると考えていたら、議事堂でアリスの隣にいた補佐官だった。彼は私の母と同年輩の男性と一緒で、二人とも急いでやって来たようだ。
「アリーチェ様、来ていただきましたよ! コックス様です!」
アリスはぱっと顔を明るくさせ、補佐官を労った。しかしその声を遮るように、コックス氏が叫んだ。
「このバカ息子が! 島の一大事に何をやっておるんだ。こんなものを王都に送り付けるなど……」
コックスと聞いてもしかしたらと思ったが、やはりギルバートの父親だった。彼はカイロンたちが目に入っていないかのように息子に近づいて行き、胸倉を掴んだ。
「王都に? 父さん、それは何の話だ?」
困惑した様子のギルは、父親からおそらく独立を宣言した声明文を見せられ、さっと顔色を変えた。
「なんだこれは。どうして僕の名前が書いてあるんだ? ……まさか」
ギルは背後にいるヴァイナーを振り返った。ヴァイナーは涼しい顔で言う。
「王都まで伝えた方が、より大きな騒ぎになると思ったのですよ。ほら、あなたはユアン・シーバート様に知らせたいのだとおっしゃっていたでしょう」
「それは言ったが、しかし――」
「いやあ、面目ない。まさかその一枚の紙で王都が混乱に陥り、さらにはパラスが隙を突いてこちらに攻撃を仕掛けてくるとは。リト公国を取り戻したいと言っていたあなたがこの島を住民から奪うことになるなんて、皮肉なものですなあ」
「白々しいことを……!」
アリスがヴァイナーを睨みつける。ギルは呆然と、立ち尽くしていた。
「さあ、これで嘘ではないとわかったでしょう。このカイロンたちを、牧場に戻して。そして、あなたたちも船で避難を。早くしないと乗り遅れるわよ」
「……反乱を起こした僕らにまで、あなたはそうおっしゃるのですか?」
「当然です。私はトゥーレの領主として、この島の人々を守ることが仕事なの。あなただってその一人だから、私が守ってみせるわ」
ギルはくしゃりと顔を歪めると、わかりましたと答えた。そして、カイロンたちに向かって叫んだ。
「計画は中止する! トゥーレは今、パラス帝国の侵略を受けようとしている! カイロンを牧場まで退避させ、我々は市民の避難誘導を行う!」
しかしカイロンたちは、全く動こうとしなかった。ギルは困惑を浮かべ、カイロンたちを見渡した。
「……それでは困るのですよ。真実を知った人間は、少ないほどいい。後始末が簡単ですからね」
ヴァイナーの低い呟きと共に、カイロンたちが一歩ずつアリスの方へと近づいた。ギルが彼女を庇うようにカイロンとの間に立ち塞がる。カイロンの強靭な足に蹴られれば、人間などひとたまりもない。さすがのアリスも、怯えを滲ませた。
何か、方法はないか。必死に頭を働かせたが、思いつかなかった。一か八か、カイロンを暴走させる手段がわかっていたら混乱に乗じて彼女を助けられたかもしれないが、それもできない。
「さあ、領主の首を取れ!」
ヴァイナーが叫び、カイロンが突進する。アリスとギルの悲鳴が聞こえ、私は思わず目を瞑った。
「……まったく、動物を操って人を殺そうとするなんて、人間のやることじゃねえな」
エルの声に恐る恐る見ると、アリスとギルが倒れ込んでいた。シャノンと共に、とっさに二人を横に引き倒したのだろう。
しかし、カイロンに囲まれた状況は変わらない。いつまでも逃げ回ることは不可能だ。ヴァイナーは獲物をいたぶることを楽しむように、酷薄な笑みを浮かべていた。
「私はいいから、二人は避難誘導を進めて!」
悲痛な叫びを上げるアリスの耳元に、シャノンが何ごとか囁いた。アリスがはっと目を見開く。
「ダメよ! お願い、待って!」
シャノンがゆっくりと、カイロンへと近づいて行く。駆け寄ろうとしたアリスを、エルが止めた。
「Retiriĝo!」
シャノンの声が、広場に響き渡った。
すると、先ほどの興奮が嘘のように、目の前のカイロンが首を垂れた。左右に並んでいたカイロンたちも、同じ姿勢を取る。まるで、王に騎士たちが傅いているかのような、荘厳な光景だった。
そしてカイロンたちはくるりと向きを変えると、広場を出て行った。隊列を組み、ゆっくりと牧場の方角へ歩いていく。
「これは、どういうこと……?」
シャノンの一言で、ブリンカーによって制御を受けていたはずのカイロンは、それに反した行動を取った。
「これは面白いことになった! まさかあなたが――」
ヴァイナーの言葉を遮るように、銃声が轟く。
「お前もここから立ち去れ。これ以上この島を汚すことは許さない」
腕を押さえてうめくヴァイナーに、シャノンは銃を構えたまま言う。
「ふん、今さら何を守ろうというのだ。この島は跡形もなく蹂躙される。もう終わりだ」
その言葉を聞いて、シャノンの唇は弧を描いた。ヴァイナーの顔に初めて、微かな恐れを見た。
「そう、終わるんだ。ここですべて終わらせる。お前たちの求めるものは手に入らない。ここには何も、残らない」
ヴァイナーはまだ何か言いたげだったが、近くにいた仲間と共に姿を消した。
今の会話を聞いて、私にもシャノンが何者なのか、気づき始めていた。言い伝え通りの、カイロンを操る術も加われば、もう間違いない。
「ユアン……」
力なく呟くアリスの声は、絶望に染まっていた。
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