第5話 管制塔にて待つ(1)

 晴れ渡った空を喜ぶように、カイロンが牧場を軽やかに駆けていた。今日は仕事が休みで、私は家を出てあてもなくさ迷っていた。勘の鋭い母は、長時間顔を合わせていたら私の様子がおかしいと気づいてしまうだろう。そうなれば、母にも迷惑がかかる。商売のこともそうだが、身の危険もあるかもしれない。


 しかし家を出たら出たで、監視されているのではないかと気になった。店先で声をかけてくる店員すら、怪しいように見えてくる。気づけばどんどん人けの少ない方へと足を向けていて、最終的にカイロンの牧場に来ていた。


 自由に過ごすカイロンを見ていると、少し気持ちが落ち着いた。あの夜、ギルバートと交わした会話が全部夢であったらいいのに。会合に顔を出すべきではなかった。私のちっぽけな正義感では、全く歯が立たなかった。


「アレッタ、こんなところで何してるの?」

 近くに人なんていないと思い込んでいた私は、肩を揺らして驚いた。

「……クレア? あなたこそ、どうしてここに?」

 ここからは牧場の様子を眺めることができるが、牧場の敷地内ではない。これ以上進んでも山があるだけで、ハイキングを楽しむ人たちが時折通るくらいだ。

「厩舎から、人影が見えたからさ。私、目は人よりいいんだ」

「そう、わざわざこんなところまで歩かせて申し訳ないわね」

 何でもないのだと笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「別にいつも歩き回ってるから大したことないよ。それよりこれ、食べる?」

 クレアが押し付けるように私にくれたのは、サンドイッチだった。チーズとハム、レタスが目いっぱい入っている。

「いいの? あなたの分が足りなくなるんじゃ……」

「構わないよ。家の冷蔵庫に材料が詰まってるから、ひとっ走りすればとって来られる」

 クレアは分厚いサンドイッチに大きな口を開けてかぶりついた。それに倣って、私も豪快にほお張る。厚切りのハムの旨味が口いっぱいに広がった。


「ふうん、食欲はありそうだね」

 私を横目で見ていたらしいクレアが言い、私は赤面した。確かに、悩んでいる割に食べ物が喉を通らない、なんてことはなかった。

「王都の食事情は知らないけど、トゥーレのハムやチーズは一級品だからね」

「ええ、本当に美味しい。クレアと違って、島を出てようやくありがたみがわかったわ」

 それから不意に、私はシャノンと食べたバケットサンドを思い出した。ギルたちの動きを彼に黙っていることに、強い罪悪感を覚えた。


「……アレッタ、一人で来たんだよね?」

 唐突に問われ、私は首を傾げつつそうだと答えた。クレアが私の耳元に口を近づけて言う。

「木の陰に、男が一人いる。こっちを窺っているみたいだ」

 やはり、監視がついていたのだ。背筋が冷やりとした。

「私の動きを、見張っているのだと思うわ」

「何か危ないことをしたの?」

「自分ではそのつもりがなかったけど、猛獣の尾を踏んでしまったみたい。迂闊だったわ」

 クレアはなんでもないようにサンドイッチを齧りながら、ギルのことだね、と言った。


「あいつ、口だけの臆病者かと思ってたけど、悪い方に変わっちゃったわけだ」

「協力者が現れたの。帝国やジュノーを渡り歩いてきた、得体の知れない男よ」

 クレアは顔をしかめた。

「アレッタ、それはあんた一人じゃ手に負えないよ。昔のよしみとか、そういう理由で庇うような次元じゃない。相談できる相手はたくさんいるだろう? あの少佐さんなら悪いようにはしないさ」

「ええ、でも――」

 私はギルに言われたことをかいつまんでクレアに話した。

「最低だ、あの野郎。今すぐ地獄に落ちればいいのに」

 吐き捨てるように、クレアが言う。そんな場合ではないが、私は思わず吹き出した。


「そういうわけだから、クロフォード家に顔を出すのも難しいの。私はどうにか、争いが起こる前に止めたいのだけど……」

「私もあの家にはちょっと伝手があるから、伝えておくよ」

「本当に?」

 大きな声を上げそうになって、私は慌ててサンドイッチをほお張るふりをした。それはとても心強い。アリスたちなら、きっとあちらに悟られないよう立ち回ってくれるだろう。


「それにしても、ユアン様が生きているなんてねえ。あり得ないともいえないけどさ……」

 ヴァイナーという人物が嘘をついている可能性もあると、クレアは冷静に指摘した。

「骨の形が違うっていうのも、加工した偽物に一部すり替えたりすればどうにでもできるんじゃない?」

「そうね。でも身代わりを用意して逃がすという発想自体は自然だと思うわ。少し調べてみたけれど、ユアン様は生きていれば私たちと同年代よね」

「うん、確か空襲があった時十四歳だったはずだから、私たちより一つ下だよ」

 ずいぶんと詳しい。不思議に思ってクレアを見ると、彼女は居心地悪そうに目を逸らした。


「昔、一度だけユアン様と話をしたことがあるんだ。カイロンを牧場に見に行った時、家族とはぐれて道に迷って、柵の内側に入り込んじゃってさ。近づいてきたカイロンに驚いて動けなくなったんだ。そうしたら、ユアン様がカイロンに声をかけて遠ざけてくれた」

 十歳くらいの時だと、クレアは言った。

「じゃあ、シーバート一族がカイロンを操ることができるという噂は本当なのね」

「確かにあの時はそう見えたよ。でも当時はそれが特別な力だなんて知らなかったから、自分もああなりたいって思っただけだった」


「なるほど、クレアは夢を叶えたってわけね。もしかして、それが初恋?」

「……だったら何?」

 しばらく見なかった不機嫌そうな顔で、クレアは言った。

「でもさ、顔はあんまり覚えてないんだ。一瞬だったし、恥ずかしくて顔なんて見れなかったから。こんなことになるなら、必死で頭に刻みつけておけばよかった。ユアン様が一言いえば、ギルのやつも目が覚めるかもしれないのに」


「――それよ!」

 私が突然叫んだので、クレアはむせてしまったようだった。咳き込む彼女の背中をさすってやる。

「ありがとうクレア、その手があったわ。ユアン様が生きているというのなら、ギルたちより先に見つけて説得を頼めばいいのよ」

「先に見つけるって、何か手がかりがあるわけ?」

「これから調べるわ」

 クレアは大きなため息をついた。

「普段は優等生なのに、どうしてここぞというときだけ滅茶苦茶なのさ。ギルのところに一人で乗り込むのもそうだし」

 話は終わりだというように、クレアはパンくずを払って立ち上がった。


「とにかく、自分の安全を第一に考えた方が良いよ。アレッタのお母さんだって絶対にそう言う。危ないことはしないって、私と約束して」

 これでは私もシャノンを怒れないと、苦笑した。彼に怒鳴ってしまったのは、自分と似ている部分を見つけたからかもしれない。

「ええ、気をつけるわ、クレア」

 できる限りは、と心の中で注釈をつける。嘘をつくのは約束を拒んだシャノンより悪いかもしれないと、私は思った。




 ユアン・シーバートの行方を探るにはどうすれば良いのだろう。シーバート家は、おそらく全力で痕跡を消したはずだ。素人の私が手がかりを見つけるのは至難の業だろう。


 私は当てもなく、街のメインストリートを歩いていた。このまま先まで行くと、港に突き当たってしまう。適当なところで家に戻ろうと考えていると、人だかりができているのが目に入った。

 漂っている空気から察するに、良い理由ではなさそうだ。私は人垣から出てきた女性に、何があったのか尋ねた。


「クロフォード家のお医者様が、ひったくりに遭われたそうなの。お怪我もされているみたいよ」

「クロフォード家の関係者を良く思わない人間がいるのはわかるが、そんなことまでしなくてもねえ」

 通りがかったおばあさんが言う。

 クロフォード家の医師とは、ブラントン先生のことだろうか。私は必死に人垣をかき分け、中に入った。


「ブラントン先生、大丈夫ですか?」

 私は縁石に腰かけている彼に声をかけた。

「おや、これはアレッタさん。いやあ、不覚をとりました」

意識はしっかりしているようで、大きな怪我を負っている様子はない。ひとまず安心した。

「先ほど警察にも説明したので、もう帰っても良いようです」

 私が手を貸すと、彼はよっこいしょと声を発して立ち上がった。


「どこか痛いところはありませんか? 一応病院に行かれた方が――」

 それには及ばないと、ブラントン先生は言った。

「背後から荷物を奪われ、少し引きずられただけですから。せいぜい手や膝を擦りむいた程度です。それより、困ったことになりましてね」

 ブラントン先生は周囲を気にし、歩きながら話そうと言った。どの道クロフォード邸まで送っていくつもりだった私は、頷いて先を促した。こうなったら、監視を気にしている場合ではない。


「奪われた鞄の中に、アリーチェ様の薬が入っていたのです。この前の嵐で船が来なかったこともあり、ストックがあまり残っておりません」

「それは……飲まないと命にかかわるような薬ですか?」

 深刻な顔で、ブラントン先生は首を縦に動かした。

「どこでも手に入るような薬ではありません。もしそれを知って私の鞄を奪ったのだとしたら……」

 島から出て行け、というメッセージだ。アリスがこのまま居続ければ、犯人たちが直接彼女を襲うことも十分に有り得る。

 ギルバートたちが動き出したのだろうか。罪を犯し、人に怪我をさせても構わないと、ギルは本当に思っているのだろうか。そんな者たちが上に立つ国に、人が集まるわけがないのに。


 クロフォード邸に辿りつき、私たちは迎えてくれたマークさんに事情を説明した。いつも優雅な身のこなしの彼も、その時ばかりは足音を立ててアリスの元に向かった。現れたアリスは心配と怒りのないまぜになった顔になり、唇を震わせていた。


「アリス、一度王都に引き上げることも考えたらどうだ?」

 エルが進言したが、アリスは嫌だと突っぱねた。

「ここでトゥーレを離れれば、犯人の思う壺よ! 絶対、思い通りになんてさせるものですか!」

「それは皆わかっているさ。その上で、安全のためにそうした方が良いと言っているんだ。薬がない状態で発作が起きたら、どうするつもりだ?」

 体のことを言われては、彼女も言い返せない様子だった。


「……わかったわ。それなら、今ある薬が無くなるギリギリまで、私はここを離れません。不安定な情勢のまま市民を残すことはできないわ」

 エルは渋々といった様子で頷いた。

「とりあえず、警備を今より厳重にすべきだな。薬の方はうちのカイロンでひとっ飛びして、もらって来ればいい」

「それなら私が紹介状を書きましょう」

 ブラントン先生が言う。その傍らで、アリスは気落ちしたようにため息をついた。


「もう、なんてことかしら。せっかくカイロンが暴走する原因がわかりそうだというのに」

「アリス、それは本当ですか?」

 アリスは微笑み、いたずらっぽく私に問いかけた。

「アレッタ、今日は何曜日だったかしら?」

「ええっと……あ! 火曜日!」

 ギルのことで気が動転していて、すっかり頭から抜けていた。

「まったく、一回うまくいかなかったからって、すぐ見切りをつけてしまうのは良くないわよ」

「アリスはしつこいからなあ」

 アリスはエルをひと睨みしてから、私に言った。


「それで、実験結果、聞きたい?」

「ええ、もちろんです! 何かわかったのですか?」

 アリスは勿体ぶって、ゆっくりと頷いた。

「今回は、二頭の反応に差が見られたわ。鼻を覆ったカイロンはそわそわしていたけれど、耳を塞いだカイロンは平然としていた。そして、耳当てを外すと、そのカイロンも落ち着きがなくなったの」

「じゃあ、音が原因、ということですね」

「その通りよ。火曜日の午前中にだけ聞こえる、この島に響く音。でも先週はなぜか、その音は鳴らなかった。きっとそれもヒントになるはずだわ」


 先週の火曜日、何か特別なことがあっただろうか。前日は嵐だったが、火曜日は晴れて穏やかだった。しばらく考えてみたけれど、特に思いつくことがなかった。

 クロフォード邸の門を出ようとしたところで、急いで帰ってきたらしいシャノンと鉢合わせた。

「ブラントン先生が暴漢に襲われたと聞いて……」

「ひったくりに遭ったのよ。お怪我はなさそうだけど、アリスの薬が盗られてしまったの」

 シャノンははっと顔を強張らせた。犯人の意図に思い当たったからだろう。


「今まで、野次が飛んできたり怪文書が送られてきたりということはあったと聞いているけれど、直接的な攻撃は初めてだ」

 それは、ヴァイナーという外部の人間が介入しているからかもしれない。きっと彼は、もっと過激な行為も躊躇しないだろう。そして、それを実行できる人間を既に引き入れている。ブラントン先生が襲われたというのは、そういうことだ。

 ヴァイナーの目的は、一体何なのだろう。彼が言葉通りギルバートに感化されて協力したとはとても思えない。ギルバートをおだてて争いを起こそうとしているようにしか見えなかった。


「アレッタ、顔色があまり良くないけれど、大丈夫?」

「……ええ、大丈夫。ちょっと考え事をしていただけ」

 どうやら、またぼんやりしていたようだ。

「それは、君のクラスメイトのことで?」

「クレアから、もう連絡があったの?」

 彼女と話してからまだ数時間しか経っていない。ずいぶん早いと思ったが、シャノンは何のことかと首を傾げた。


「この間カイロンの実験をした時、アレッタの様子がおかしかったから、少し気になっていたんだ。そうしたら、船で乗り合わせた怪しげな医者と同じ店に入っていくのが見えて――」

 元々、軍はヴァイナーをマークしていたのだという。定期的に監視をしていて、ちょうど土曜日の夜はシャノンが監視役だったのだ。

「ごめんなさい。何か情報を掴めば役に立てるかと思ったのだけど、失敗してしまったの」

 私はギルバートたちの話に興味を持ったふりをして潜入したが、初めから思惑を見破られていたと告白した。


「……やっぱり、そんなところか」

 頭を下げた私に降ってきたのは、ほっとしたような優しい声だった。

「むしろ、早々に失敗してもらってよかったよ。そんな危険なことに君を巻き込むわけにはいかない」

 その通りだ。私にスパイなんてできなかった。自分がギルバートに頼りにされていると過信して、騙されていることにも気づかなかった。


「……ギルバートは、どうなるの?」

「いずれ軍が拘束するだろうけれど、まだ探っている段階だ。彼よりヴァイナーとその仲間の方が厄介だろうから、軍の参謀本部からも逃げられないように慎重に、と通達があった」

「あなたの言う通り、要注意人物だったのね」

 あの時点ではただの勘だったと、シャノンは小さく笑った。

「危惧していた反逆が、まさか本当に起こるなんてね。カイロンの暴走と関わっているかは、まだわからないけれど。――アレッタ」

 シャノンはつと顔を引き締めて、私の目を見て言った。


「もう、危ないことはしないでほしい。この前僕に同じことを言った時の君の気持ちが、ようやくわかったよ」

「ふふ、それは何よりだわ。あなたこそ、気をつけてね」

 私と違って、彼は危ないことも仕事のうちだ。これからヴァイナーやギルを取り締まるとなれば、血を見る争いになるかもしれない。


「ねえシャノン。あなたは、ユアン・シーバート様について何か知っている?」

 軍に所属する人間なら、何か掴んでいるかもしれない。その程度の思いつきで尋ねたが、彼はひどく驚いた様子だった。

「ダレン・シーバート様の長男だということ以外は、特に……。今回の件と何か関係が?」

「いえ、もし彼が生きていたら、この状況を収めてくれるんじゃないかって思っただけ。それとも、剣を取ろうとするかしら。家族の仇を討つために」

 仇、とシャノンは呟いた。


「仇は、誰になるんだろう。国なんて所詮、近づけば見えなくなる蜃気楼のようなものだ。軍の武力行使を黙認した国王陛下? 島を爆撃した兵士たち? それとも、“兵器”として使われたカイロン?」

 何が最も公爵家を追い詰めたのか。リト公国で暮らしていた私たちにも、それはわからなかった。


「でも、もしこの先、ギルたちが反旗を翻せば、ジュノー軍はカイロンの部隊を組織して押し寄せるでしょうね。それはユアン様にとって、過去から蘇った仇に見えるかもしれないわ」

 この島は再び、戦火に包まれてしまうのだろうか。ふるりと震えた私の肩を包み、シャノンは言った。

「争いはここで終わらせてみせるよ。あんな悲劇は、もう繰り返さない」

 強い意志を宿したエメラルドグリーンが、夕日を浴びて燃えるような光を帯びていた。

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