第4話 シーバートの末裔(2)
最終便である午後八時着の便の管制を終え、私はヘッドセットを取った。多少の遅延はあったが、今日も事故はなし。先日の火曜日の一件から、火曜日の発着は再び禁止と決まった。まあ、あの時間に間違って到着したこと自体、事故のようなものだったが。
「今日はデートなの。お先に!」
化粧を直してきたらしいハンナが、弾んだ声で言う。彼女が足早に部屋を出て行こうとした時、何かが足元に落ちて、私は彼女を呼び止めた。
「これ、落としたわよ」
「あら、ありがとう! 失くしたら泣きながら探し回るところだったわ」
私が拾い上げたのは、小振りのピアスだった。ティアドロップ型の石が揺れる、可愛らしいデザインだ。
「いいわねえ、彼からのプレゼント?」
ケイティの冷やかしに、ハンナは頷く。
「そうよ、流行りのベイレイ。誕生日にもらったの!」
ハンナはピアスをつけ直すと、スキップでもしそうな足取りで今度こそ部屋を出て行った。
「あーあ、羨ましいわね! 私は明日も仕事だわ。どっちにしても一人ですけど!」
ケイティが嘆きながら、帰り支度を始める。私はその横で、流行の「ベイレイ」とは何だろうと、考えていた。
帰宅してすぐ、母に「ベイレイ」というものを知っているかと尋ねた。香水はもちろん、ファッションの流行に私よりずっと敏感な母ならば、知っているだろう。私に向かい合って座る彼女は、食後のコーヒーが入ったカップに伸ばした手を引っ込め、目を丸くした。
「アレッタってば、王都にいたのに疎いのねえ。そんなところまでお父さんに似なくてもよかったのに」
仕事が好きすぎるのも問題だわ、と母はひとりごちる。
「興味がないんだから、しょうがないじゃない。それで、結局何なの?」
母はもったいぶるようにコーヒーを啜り、口を開いた。
「一言でいえば、カイロンの体の一部よ。首のあたりに、鉱石と同じ成分で構成された硬い石があるの。ベイレイというのは古語で『花の蕾』という意味で、その名の通り蕾のような上がすぼまった形をしているわ。外側は背の外殻と同じ成分で覆われているけれど、その中は他の宝石に負けないくらい綺麗なのよ」
数年前、カイロンの死骸から偶然ベイレイが発見され、加工して島の特産品として売り出す流れになったという。現在ではブローチやペンダントなどに仕立てたものを、本土に船で運んでいるそうだ。
「ベイレイは鉱石だから、もちろん個体によらず同じ元素組成なんだけど、なんと大きさや形まで一緒なのよ。大きいカイロンも小さいカイロンも、成長しきったら全く同じベイレイを喉に持つの。生命の神秘よね」
母はこのくらい、と言って両の拳をくっつけて示した。
「一頭からそれだけしか採れないなら、なかなかの高級品になりそうね」
「ええ、だから最近では小さな欠片にして指輪やイヤリングにすることが多いのよ。でも本土からも材料を運び入れているそうだから、むしろ加工段階が律速になっているみたいね。外殻から取り出して空気に触れると、すぐに酸化して変色してしまうのよ。そうならないように、削り出して必要な大きさにカットしたら、すぐに特殊な薬剤でコーティングするんですって」
話を聞くに、かなり手間がかかりそうだ。それにしても、母はどうしてそこまで詳しいのだろう。気になって尋ねると、母はにやりとした。
「この前あなたに見せたカイロンの香嚢の成分を入れた香水、覚えてる?」
「ええ、まだ製作途中だったわよね。もう出来上がったの?」
「つい先週ね。今は量産体制を整えているところ。売り出す戦略もちゃんと考えているのよ。それでベイレイのことも勉強したわけ」
母によれば、カイロンの香水とベイレイをセットで売ろうということらしい。アクセサリーと香水、どちらも質の良さには自信がある逸品で、女性へのプレゼントにピッタリ。母は成功を確信していた。
「ベイレイの方は削り出しとカットに一日、コーティング剤に漬けるのが一日、アクセサリーとして仕上げるのにさらに一日かかるの。木曜日までに三日かけて完成させて、金曜日に船に載せているのよ。だからこっちもそれに合わせて、毎週木曜日には準備が整うようにしてるってわけ」
母は目を輝かせながら言った。母も母で、仕事が好きなのだ。父も私もいなくなって寂しがっているのではと思ったが、少しほっとした。
翌日、私は仕事帰りに書店に寄った。カイロンは生物学的にはあまり研究が進んでいないと聞いたが、昨夜の母の話からすると、服飾品の材料としてはそれなりにわかっていることがありそうだと思ったのだ。
「『カイロンと文化史』、『カイロンの神秘――ベイレイの謎』……」
予想通り、何冊かそれらしいものを見つけた。一冊ずつ手に取り、目ぼしい情報がないか確認していく。
どうやら最も古くから用いられていたのは、カイロンの毛皮のようだ。寒さの厳しい地域で、防寒着に使われていたらしい。その後、高級なファッションアイテムとして人気を集め、富裕層に流行した。これにより、かつてはジュノーの位置する大陸にも生息していたカイロンは、乱獲され姿を消したという。
新しい本には、ベイレイのことも少し書かれていた。ほとんどが母の話で既に知っていた内容だったが、ベイレイがなぜ存在するかの推測は初めて知ることだった。
「カイロンはいくつもの鳴き声を使い分けていると考えられています。その際、声の響きに関わるのが喉元にあるベイレイです。カイロンが鳴くと美しい楽園が現れるという伝承もあり、ベイレイを震わせる声に人々も聞き惚れていたのではないでしょうか」
もともと本好きの私は、いつの間にか集中して読みふけっていた。活字の世界に没頭していたところを、何度か声をかけられてようやく気づいた。
「あらギル、すぐに気づかなくてごめんなさい」
「いや、邪魔をしたのはこっちだから気にしないでくれ。それより、君は本当に仕事熱心だね」
私がカイロンと書かれた本を手にしているのを見て、ギルは言った。あまり長話をするつもりはないのか、彼は私に一歩近づくと、小声で私に尋ねた。
「この間の同窓会での話だけど、考えてくれたかい?」
「ああ、あなたに協力するかどうかという話よね……」
ギルは同窓会の場で、ジュノー王国から独立すべきと主張していた。そして私にも、協力を頼んだのだ。
「でも、私なんかじゃ力にはなれないんじゃないかしら」
はぐらかして逃げようとしたが、ギルはそんなことはないと熱っぽく言った。
「君は王都に住んでいて視野が広いし、何よりハイスクールの時からいつでも冷静だった。僕はつい熱くなってしまうから、君のように俯瞰できる人が必要なんだよ」
買いかぶりすぎだと思ったが、彼の中で私は理想の人材に作り上げられてしまったのだろう。返事を迷う私に、ギルは言った。
「君の意志がないと始まらないから、無理強いはしないよ。もし少しでもその気があるなら、今度の土曜日の夜、同窓会を開いたあの店に来てくれ。そこで詳しいことを話すよ」
ギルはそれだけ言うと、あっさり去って行った。
正直、かつての憧れだったギルに請われたとしても、協力しようとは思えなかった。彼の言ったように、私は王都で広い世界を知った。カイロンというカード一つでジュノー王国から独立するなんて、うまくいくとは思えない。
でも私が協力しなくても、彼は独立を望んでいずれ行動を起こそうとするだろう。大ごとになって重い処分が下る前に、シャノンやアリスに言うべきだろうか。しかしかつてのクラスメイトを売ることになると思うと、それもすぐには判断できなかった。
週明けの月曜日は、朝から風が強かった。昼過ぎには嵐が来るという。王都で同じような状況になった時は、欠航の連絡がひっきりなしに来て慌ただしかったものだ。
しかしもともと便数の少ないトゥーレ空港では、数本の電話がかかってきておしまいだった。早朝の貨物騎以外すべてが欠航。管制塔で待っていても、今日はカイロンの姿を見ることはできない。
「雨風がひどくなる前に、我々も帰ろう」
安全のため、職員は午後になったら帰宅と室長が決めた。ハンナやケイティは、降って湧いた休暇に嬉しそうにしている。ランチを食べて帰ろうと話す二人に、帰宅命令の意味はわかっているかと室長が釘を刺していた。
帰宅すると、母の香水店も早仕舞いをしていた。
船も出なかったらしく、毎週月曜日に運ばれてくるはずの物資が届いていないそうだ。今週は品薄になる食品もあるだろうと、母と夕飯を食べながら話した。
「例の新作の香水も、今週の金曜日に出荷する予定が延期になりそうね。本当は今日ベイレイの原石が本土から運ばれてくる予定だったのに、届かなかったんだもの」
自然のことだから仕方ないと言いつつ、やはり残念そうにしていた。
その翌日が、カイロンの暴走の原因を検証する日だった。早朝から昨日の嵐が嘘のような快晴だ。実験日和ねと、アリスが上機嫌に言う。私も今日は休暇を取り、クロフォード邸の広い庭に来ていた。シャノンとエルの姿もある。
「ねえ見て、可愛いでしょう?」
アリスが私に見せたのは、おそらく特注品だろうカイロン用の耳当てだった。革でできていて、顎の下に留め具がついている。耳の部分は袋状になっていて、装着すると丸い耳が新たについたようにも見えた。
「片方の子にこれをつけるわ。もう一頭は、鼻のところね」
鼻全体を覆う、こちらも革でできた器具だった。窮屈がってもっと嫌がるのではないかと予想したが、どちらのカイロンもエルに宥められて大人しくしていた。
「この状態で、光を遮った厩舎に入ってもらうんですね」
「ええ、そうよね……シャノン?」
シャノンはアリスに頷く。
「正確な結果を得るなら、個体差をなくすために同じ条件で複数頭に増やしたいところだけどね。傾向くらいはわかるはずだよ」
どちらかのカイロンだけが落ち着きをなくすか、それともどちらにも反応がないか。結果によって、五感のどの部分が重要かわかるはずだ。
私たちは期待しながら、厩舎の小窓からカイロンを観察して過ごした。時々交代しながら見ていたが、結局、十二時まで見ていても二頭のカイロンは大人しいままだった。
「ということは、目に見える何かが関係しているということじゃない?」
アリスが興奮気味に言うが、まだ結論を出すには早いとシャノンが口を挟んだ。
「他のカイロンが、先週と同じような動きをしていたか確認しないと」
エルが電話で牧場に聞くと言って、屋敷に戻っていった。少し経って厩舎の前にやって来た彼は、浮かない顔だった。
「牧場のカイロンに異常はなかったそうだ。昨日と同じように、のんびりしていたらしい」
「どういうこと? 今までずっと火曜日に異変が起きていたのに、今日に限って何も起こらないなんて!」
アリスが全員の気持ちを代弁して言う。火曜日に限定してカイロンの暴走が起こる、ということは私たちの中では確実な条件だったはずだ。それが、ここに来て崩されるとは思っていなかった。
「嵐が来て、原因とやらも吹っ飛んだんじゃないか?」
困り果てたように、エルが言う。
「振り出しに戻ってしまいましたね」
「本当に。神様もそんな気まぐれを起こさなくたっていいのに」
気まぐれ。そうかもしれない。ただし気まぐれだったのは神様ではなく、カイロンを操ろうとする何者かだったのではないか。
ギルバートが口にした、交渉に使える他のカード。それはもしかしたら、カイロンを暴走させる方法なのかもしれない。
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