第3話 優しいカイロン(1)
トゥーレに戻って一週間。私は管制官の仕事に復帰していた。
――トゥーレタワー、BOK126便、左滑走路に向け最終進入中です。
ヘッドセットから、パイロットの声が聞こえる。トゥーレ空港に着陸予定の便だ。
「BOK126便、左滑走路への着陸を許可します」
パイロットは了解と答えた後、私のいる管制席の目の前を通ってスムーズに着陸した。現在午後四時。一日三本到着する旅客騎のうち、最後の便だった。
「やっぱり王都にいた管制官は違うわね。きびきびしていて、無駄がないわ」
近くでレーダー管制業務をしているハンナが言った。その横にいるケイティも、そうそうと同調する。
「そういえば、昨日だったかマルセルが、『あの綺麗で知的な声の管制官は誰だ』って私に聞いてきたの。やっぱり違うのよね」
マルセルは昨日やりとりをしたパイロットだった。やけに返答に時間がかかっていたが、そんなことを考えていたとは想像していなかった。
「ねえ、こんなところにずっといたら退屈なんじゃないの?」
ハンナに言われ、まあ、と私は言葉を濁した。
「でも、時間に追われずに丁寧に管制業務ができるのも悪くないと思うわ。向こうではいつも気を張っていたけれど、今は集中する時間以外はのんびりできるし」
「メリハリが大事ってわけね! 勉強になるわ」
ケイティが調子よく言ったが、別に私の真似をするつもりはないだろう。二人とも、のんびりできるからという理由でこのトゥーレを希望しているのだ。王都のやり方なんて勉強する必要がない。それなのに何かと比較をしてきて、あまり馴染めなかった。
あとは貨物騎が二騎到着して、今日は終わりだ。私は立ち上がって軽く伸びをすると、管制室の窓に近づいた。フェザント空港に比べれば直径が短いが、ここもぐるりと窓ガラスが一周している。
島で最も高い建造物であるこの管制塔からは、市街地も港も、その向こうの海原も一度に見下ろすことができた。ふと、父も同じ景色を見ていたのだろうかと思った。
父がいた管制塔は父と一緒に焼け落ちてしまったから、完全に同じではない。たぶん、新しいこの管制塔の方が高いだろう。それでも、同じものは見えているはずだ。西日の射す管制室で、今日の夕飯はなんだろうとか、私にどの絵本を読み聞かせようとか、そんなことを考えていたかもしれない。
あるいはこの管制室にいる間は、父の頭の中はカイロンで一杯だっただろうか。
父は本当に、カイロンが好きだった。あんなに美しい獣は他にいないと、何度も言っていた。読み聞かせる絵本のない日は、寝しなにカイロンの話をしてくれた。私がカイロンに憧れを抱いたのも、父の影響が大きいと思う。
そういえば父は、カイロンについて何か不思議なことを言っていた気がする。歌う、と言っていたようにも思うが、それだけではなかった。現実離れしていて、子供心にも、それは作り話ではないかと疑っていた。本当なの、と尋ねれば、父は本当だよ、と答えていたけれど。
帰宅してから母にも聞いてみたが、母にも覚えがないようだった。母はカイロンにそこまで興味がないので、記憶に残らなかったのかもしれない。
「あなたたち、カイロンの話をしている時は本当に楽しそうだったわよね。お父さんも子供に戻ったみたいになっちゃって」
母はそうそう、と思い出したように言った。
「カイロンのことを描いた絵本があったわよね。あなたがお父さんに、何度も読んでってせがんでいた。それを見たら、思い出したりして」
言われてみれば、確かに子供の頃大のお気に入りの絵本があった。唐突に懐かしさを覚えて、探してみようと思い立つ。本棚の本は捨てていないはずだと、母は言った。
「あとはね、思い出したいことがある時は、“香り”がおススメよ」
「調香師らしいアドバイスね」
「ふふ、そうでしょ。実際、お店でもお客さんが言うのよ。この香水を嗅いだら、ずっと忘れていた新鮮な気持ちがふっと蘇ったって。お得意様の一人に女医さんがいるのだけど、彼女が言うには嗅覚は私たちが意識するより早く、脳の情動を司る場所を刺激するそうよ。そうして嬉しいとか愛しいとか、かつてその香りを嗅いだ時の感情を呼び覚ますの。意識よりも早いから、純粋に本物の感情なんですって」
「本物の感情……なんだか、怖いわね」
意識するより早かったらきっと、取り繕うこともできないだろう。それは率直な感想だったのだが、母は興味を惹かれたようだった。
「なあに、アレッタ。あなた、ばれたら困ることでもあるの?」
「え? そんなことないけど……」
私は動揺を隠そうと、短く答えた。母はそれ以上追及することなく、食器を洗い始める。私も片付けを一緒にした後、自分の部屋で絵本を探した。
目的の本は、本棚の一番下の段の、真ん中あたりに入っていた。何度も開いたせいか背表紙が擦り切れていて、気をつけないとバラバラになってしまいそうだ。
本のタイトルは、「やさしいカイロン」だった。淡い水彩画の表紙を見た途端、あらすじを思い出す。人間とカイロンとの関係を描いた話だ。
ある国に、一頭のカイロンがいた。穏やかで優しいカイロンは人間と仲良く暮らしていて、人間の喜ぶ顔を見ることが大好きだった。毎日、人間のために重いものを背中に入れて運んだり、人を乗せて遠くに連れていってあげたりしていた。
しかし人間たちは、徐々に無茶なお願いをカイロンにするようになる。美味しいものを食べたい、お金持ちになりたい、王様になりたい……。カイロンは願いを叶えるため、仕方なく他の人間から盗み、奪うようになる。頼んだ人間は喜ぶが、その一方で、悲しい思いをして傷つく人々が増えていく。
カイロンは自分のせいで荒廃していく世界を見て絶望し、人間たちの前から姿を消す。そして誰もいない世界の片隅で、喉を震わせて泣く。
カイロンの姿は見えないが、その声は人間たちの耳にも届く。美しい声は人々を魅了し、空には大きな虹がかかる。野原には、色鮮やかな花が咲き乱れる。花を摘もうとした一人の女の子は、それが掴むことのできない幻影だと気づく。やがてカイロンの声が聞こえなくなると、美しかった虹も花々も、消え去ってしまう。
しかし人々の胸には、忘れていたもの、本当に美しいものとは何か、確かな答えが刻まれていた。カイロンが見せてくれたあの光景は、かつてこの地に本当にあった景色だった。取り戻そうと、荒れ果てた地に立つ人々は誓う。そして、美しい国を作ろうと手を取り合うのだ。いつか、カイロンが帰ってきてくれるように。
私は床に座り込んで、もう一度絵本を最初から最後までじっくりと読んだ。そのうち、何度も聞いた、父の独特の間の取り方や力の込め方までが思い出されてきた。不意に胸が締めつけられて、私は目を閉じてゆっくりと息をした。
そういえば、読み聞かせを終えた父に、一度尋ねたことがあった。
――ねえお父さん、このお話って、作り話なんでしょ? カイロンは虹やお花なんてだせないよね。
そのとき父は、何と答えていただろう。
「あっ!」
思い出した。今日、管制室では思い出すことができなかった、父の言葉を。
――カイロンは、幻想を歌うのさ。
父は私に、そう言ったのだった。
その日仕事を終えた私は、職場の管制塔から同窓会の会場へと向かっていた。会場は小さなレストランで、今日は貸し切りになっているという。顔の広いギルバートが、それだけたくさんの人を集めたということだろう。
お気に入りのワンピースを着た私は、軽い足取りで石畳を歩く。週末の夕方は浮足立った空気で、すれ違う人達もいつもより明るい顔をしているように見えた。私もきっと、そんな顔をしているのだろう。
レストランのドアには、本日貸し切りのプレートがかかっていた。ドアを開けると、店内には既に十人以上が集まっていた。その内の一人が、私を見てアレッタと声を上げる。
会場は立食形式で、私もドリンクと軽食を手に、懐かしい顔と言葉を交わした。
私が到着して十分ほど経って、特に会いたかった親友が顔を出した。
「ベリンダ、変わらないわね!」
「アレッタ、あなたもね」
私たちは抱擁で再会を喜ぶと、なんだかおかしくなって、顔を見合わせて笑った。
ベリンダは三年間同じクラスで、学校でのほとんどの時間を一緒に過ごしていた。クラスで、いや学年でも評判の美人で、ブロンドの艶やかな髪も形の良い鼻筋も、私の理想だった。男子学生が薔薇のように可憐だと噂しているのを聞いて、友人の私も誇らしかった。
美しい彼女は当然何人もの男子から告白されたが、恥ずかしがり屋でいつも私に相談をしてきた。私が良い人だと褒めれば付き合うと言い、他の女子とも二人で歩いているのを見たと言えば断った。自分で判断する自信がないとベリンダはいつも言っていて、確かに少し危なっかしかった。薔薇には棘があるけれど、彼女は身を守る棘を持っていなかった。
だから彼女が頬を染めて結婚するのと言った時、私は驚いた。きっと私に相談があって、私がゴーサインを出せば結婚を決めるだろうと勝手に思い込んでいたのだ。でも、それが大人になるということなのかもしれないと、私は思った。
「おめでとう、ベリンダ。それで、相手はどんな人なの?」
私が尋ねると、ベリンダは大きな目をさらに見開いて、聞いていなかったのと言った。
「ギルバートよ。てっきり、もう話していると思っていたわ」
私はとっさに言葉が出て来ず、一拍開けて知らなかったわと笑った。うまく笑えていただろうか。ごまかすようにギルの姿を探すと、ひときわ大きな輪の中に、彼を見つけた。話題の中心にいるのは彼のようで、時折笑いが起きていた。
「そう……それは、ベストカップルね。あのころ、みんな思っていたはずよ。あなたとギルなら美男美女でお似合いだって」
「ふふ、ありがとう。でもね、あの頃の私は、彼がどんなにすごい人かわかっていなかったわ。今はわかる。もちろん見た目は変わらず格好いいけれど、それだけじゃなくて、この島の将来を真剣に考えていたり、リーダーシップを取ってみんなから頼られたりしていて、本当に素敵な人よ」
熱に浮かされたように、彼女は言った。私は上の空で、それを聞いていた。彼女はこんな風に話す人だっただろうかと、先ほど少し感じた寂しさが大きくなった気がした。
「それにアレッタ、あなた言ってたじゃない。ギルはきちんと自分の意見を持っていて大人だって。あなたがそう言っていたなら、きっと大丈夫だと思ったの」
ああそういうことかと、私は納得した。既に彼女の中では、私の“保証”を得ていたのだ。でも、ベリンダがここまで熱を上げた人は、私の知る限りでは他にいない。これで良かったのだ、と思うことにした。
「あら、噂をすればなんとやら、ね」
ベリンダが言って、私は振り返った。ギルがこっちにやって来て、やあと言った。
「今、私たちのことをアレッタに話していたのよ。あなたが言わないから」
「ああ、すまなかった。なんだか照れくさくて、言いづらかったんだ」
ベリンダは詰るように言ったが、もちろん本気ではない。却って仲の良さを見せつけられているようだった。
「じゃあ改めて、二人とも、おめでとう!」
私が言うと、二人は幸せそうにはにかんだ。周囲にいた友人たちも、拍手や口笛で祝福した。
「お祝いは何がいいかしら。知っていたら、王都で何か買ってきたのに」
「そんなのいいわ、あなたが帰ってきてくれただけで、私にとってはとても嬉しいプレゼントよ」
ねえ、とベリンダがギルを見上げれば、彼もその通りだと頷いた。
「それはそうと、アレッタ、王都での生活はどうなんだい? 旧リト公国出身だと、嫌な思いをしたんじゃないか?」
「いいえ、大丈夫よ。王都の人達は、戦争を早く過去のものにしたがっているの。それはそれで問題があるのかもしれないけれど、とにかく出身で差別を受けたことはないわ」
王都の住人にとっては、トゥーレも侵攻の末自国の領土になった、小さな国の一つでしかない。敵意なんて元からないのだ。トゥーレにいたと話しても、大変だっただろうと言われることはあったが、憎悪を向けられたことなんてなかった。
「そうかい? でも、買い物をしていて王都の人とは違う態度を取られたりとか……」
「それも、なかったと思うけれど」
私はギルの言葉に首を捻った。彼はまるで、私が差別を受けたと言ってほしいようだ。釈然としない気分でいると、さらに彼は言った。
「僕はやはり、この国が再び独立して、ジュノー王国と対等な立場に立つべきだと思うんだ」
「独立って……元の状態に戻るということ?」
「いいや、昔は対等な関係じゃなかった。公国は、下手に出過ぎていたんだよ。でも今なら、ジュノーとも対等な関係を築けるはずだ。カイロンがいればね」
ギルは私に、朗々と語った。カイロンは今や、ジュノーにとって不可欠な存在。しかしカイロンを繁殖・飼育するためのノウハウは、このトゥーレにしかない。ゆえに、カイロンの提供を条件にすれば、ジュノーに独立を認めさせることができるだろう、と。
「でも、先の戦争の頃だって、既にカイロンの重要性は認知されていたわ。だからこそ、ジュノーは武力行使してでも奪い取ろうとしたのよ。今そんな取引を持ち掛けても、交渉が決裂すればまた同じことになるんじゃないかしら」
「君の言う通り、交渉が決裂すれば、そうなるだろう。それなら、うまく交渉すればいい。他にも良いカードが用意できそうなんだ、きっとうまくいくさ」
「他のカード……? それは安全なの?」
「ああ、大丈夫だよ。君が本格的に協力してくれると言うなら、その話もできるんだけどね」
脳裏に、クレアの言葉がちらついた。勧誘される、というのはこれのことだったのだ。
「僕は奪われた故郷を、公国の誇りを、取り戻したい。ジュノーの人々を追い出して、もう一度リトグラフィカ公国を作るんだ」
いつの間にか、周囲にはクラスメイトたちが集まってきていて、わっと拍手が起きた。うっとりと聞き入っている友人もいる。
どうやら、私もクレアと同じで、仲間にはなれそうにない。私は曖昧に笑うと、残りの時間は店の隅で小さくなって、カクテルを飲んでいた。いつもより飲んだはずなのに、全く酔いは感じなかった。
閉店時間まで、同窓会は続いた。友人たちと店を出ると、まだ街の灯りは煌々としていた。日付が変わるには、まだ少し時間がある。これから二次会をしようと話す面々もいたが、私は断ってしまった。
店のすぐ目の前には運河があり、向こう岸にもレストランが並んでいるのが見えた。しかしどうやら、あちらの方が高級店のようだ。ドレスコードがあるためか、行き交う人の身なりも違った。
「ねえ見て、アリーチェ様よ!」
友人の一人が、向こう岸を指差して言う。ちょうど正面の店から彼女が出てくるところだった。満面の笑みを浮かべて、楽しそうにしている。
相変わらずお綺麗ねえと誰かが言うが、それに騙されてはいけないという声が、すぐに上がった。
「あの人も可哀そうだよな、国に利用されて。若くして頑張っている姿を見せて、俺たちを丸め込もうとしているんだ。結局はただの操り人形さ」
それは違う。彼女は自分の意思で、トゥーレのために尽くそうとしている。喉まで出かかったが、口にする勇気はなかった。
「あら、あの方はどなたかしら。素敵!」
「護衛役のエルドレット様のこと?」
違うわと、初めに黄色い声を上げた一人が言う。
「ほら、アリーチェ様と親しげにお話をされている方よ。王子様みたい……」
彼女がその人物の服装や背格好を説明したので、それがシャノンであることはすぐにわかった。アリスと歩きながらにこやかに会話をしている。彼らは待機していた馬車に乗り込み、その馬車もすぐに走り去った。
――ああ、私はどちらにも属せない、半端者だ。
唐突に、気づいてしまった。
トゥーレに生まれ育ったけれど、ギルやクラスメイト達とは道が分かれてしまった。でも、アリスやシャノンたちとは、この川のように隔たりがある。今は偶然、近くにいるだけだ。どっちつかずの私は、結局どこにも行けず、取り残されてしまうのかもしれない。
私は、何に従って進めば良いのだろう。襲ってきた絶望を持て余して、煌びやかな照明に照らされる川面をぼんやりと眺めていた。
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