第2話 故郷へ(3)
夕日に照らされた大通りには、夕飯の材料を抱えて急ぐ人や、仕事を終えて家路につく人達の姿があった。王都と同じ、日常の風景だ。違うのは、時間がゆったりと流れているように感じられること。私にとっては、懐かしい空気だった。
大通りを右に折れて、軒の連なる商店街を行く。花屋や魚屋は記憶と同じ場所にあり、見覚えのあるおかみさんの姿もあった。そこからもう少し進むと、ブティックや宝飾品などの店が見えてくる。母の香水店も、その辺りにあった。
店の中をショーウィンドウから透かし見ると、母は若い女性客と話しながら商品の包装をしているところだった。お客さんはその女性だけで、私は彼女と入れ違いに店に入った。
「いらっしゃいま――あら、アレッタ」
母はドアベルの音に振り返り、ごく自然に私を迎えた。朝学校に行って帰ってきたかのような、錯覚を覚える。
「お帰りなさい、元気そうね」
「うん、お母さんも」
私はなんだか気恥ずかしくなって、店内を見回した。
「繁盛しているみたいね。商品も増えたんじゃない?」
「ええ、おかげさまで、最近は本土にも出荷しているの。生産が追いつかないから、人も雇っているのよ」
「へえ、それはすごいわね!」
私が島を出た時はなんとか生活できるレベルだったが、もう心配する必要はなさそうだ。
「お腹すいたでしょう、今日はあなたの好物ばかりにしたわよ」
「やった、子供に戻ったみたい」
私の味覚はあまり成長していないようで、未だに好物は子どもの頃と同じだ。ちなみに父の好物も、私と同じだったらしい。私の好物を作るたび、父と三人で暮らしていた頃を思い出すと、母は言っていた。
母はこれから店を閉める作業があるというので、私は先に住居部分に入った。自分の部屋に荷物を置くと、不意に疲れを感じた。移動中もクロフォード家でも、ずっと気を張っていたから、ようやく緊張が解けたのだろう。シャノンもアリスたちも、良い人だった。でも、仕事上の繋がりで知り合っただけの人に、すぐには心を開けなかった。
食卓を囲みながら管制官の仕事のことを話すと、母はおっとりと、本当に働いているのねえと言った。
「やだ、嘘だと思ってたの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど。補佐ぐらいの仕事かしらと思っていたのよ。やっぱり、お父さんの血かしらね」
「……だったら、嬉しいかな」
父はこの島の管制塔で、管制官をしていた。一度だけ、学校の授業の一環で、仕事をしている父を見たことがある。その時の父はクラスメイトに自慢したくなるほど格好良くて、周りの友達も格好良いと言っていた。私は誇らしくなった一方で、いつか自分も、と決意した。管制官という仕事を具体的に意識し始めたのは、あの時だ。
母は自分の近況として、新しい香水作りに挑戦していると話した。
「それがね、カイロンの“匂い袋”を使うのよ」
「えっ、カイロン?」
私は思わず、フォークの手を止めた。
「そうよ、オスのカイロンのお腹には香嚢って呼ばれる器官がついていてね、その中にゼリーみたいなものが入っているの。それを乾燥させて、アルコールに漬けると、香り成分が抽出されるのよ。牧場や空港に頼んで、死んだ後のカイロンから失敬しているの」
母は食後に、その香り成分が入った小瓶を持って来て、嗅がせてくれた。獣臭いようにも感じるが、甘い、知っている匂いだった。
「薄めてちょっとしたスパイスのように加えると、香水の輪郭がはっきりするのよ。他の香りが引き立つっていうのかしら」
調香途中だという香水も嗅ぐと、母の言わんとすることがわかった。
母はその反応に満足したようで、仕上がったらプレゼントするわと言ってくれた。母の影響もあって、私も時々は香水を使っている。少し気が滅入っている時につけると、背中を押してもらえる気がするのだ。
「ところで、どのくらいこっちにいられるの?」
「うーん……まだ具体的にはわからないわ。戻ってくるように言われたら、戻らないといけないし」
母の表情を窺おうとしたが、ちょうどキッチンの方に顔を向けていて、見えなかった。
「私、こっちにいた方が良い?」
やはり、一人は寂しいのだろうか。遠慮がちに尋ねると、母は言った。
「たまに帰ってきてくれればいいわ。将来の旦那様が一緒だと、なお良しね」
絶句する私に、母はしたり顔で笑っていた。
翌朝、早く目が覚めた私は、市場に行ってみようと思い立った。市場は大通りで毎朝開かれていて、曜日ごとに違う品が並ぶのだ。今日は月曜日で、野菜や果物の日だ。
数年ぶりに訪れてみると、活気が増していた。威勢の良い呼び込みの声が響き、それに引き寄せられて店には人垣がいくつもできている。私はなんだか楽しくなって、気づけば紙袋いっぱいに買い物をしていた。
市場を抜けてそのまま歩き続けると、見慣れない風景の一角に出た。そこは特に新しく整備された区画のようで、王都にあるようなお洒落なカフェスタンドや、高級そうなレストラン、ブティックが並んでいる。早朝なのでカフェ以外は閉じていたが、私はウィンドウショッピングを楽しんだ。
「あれ、もしかして、アレッタかい?」
ショーウィンドウに飾られたジュエリーウォッチを眺めていると、背後から声をかけられた。
「……ギルバート?」
ギルバート・コックス。彼に会うのは、ハイスクールを卒業して以来初めてだった。しかし、すらりとした体型も好奇心が旺盛そうな瞳もそのままで、すぐに彼だとわかった。
「やあ、久しぶりだなあ、こっちに帰っていたのか?」
「ええ、仕事で一時的にだけど」
「仕事……管制官の?」
彼が覚えてくれていたことが嬉しくて、私は笑顔で頷いた。
「そうか、すごいな。ちゃんと憧れの仕事を続けていて」
「でも、ギルも順調そうじゃない?」
彼の出で立ちを見ながら、私は言った。一見してわかるくらいに、彼は高級品を身につけていた。服や靴はもちろん、腕時計も高級ブランドだ。ギルバートは照れくさそうに、頬をかく。
「運が良かったんだよ。父が島の特産品を売る商社をやっていただろう? それの販路や扱う品の範囲を広げたら、うまく当たったんだ」
「すごいじゃない、商売の才能があったのね」
「そうかな。……でも、今のままじゃ……」
「え?」
ギルバートが何か呟いたが、聞き取れなかった。聞き返しても、彼はなんでもないと言った。
「それより、せっかくアレッタが帰って来たんだ、同窓会をやろう。幹事役は、僕に任せてくれ」
「本当に? 嬉しいわ、最近はすっかり連絡も途絶えてしまっていたから」
クラスの中心にいた彼の誘いなら、きっと皆来てくれるだろう。島を出て勝手に距離を感じていたが、やはり会えるなら会いたい。
「よし、じゃあ早速みんなに聞いてみるよ!」
日程の希望を聞かれ、とりあえず夜なら大丈夫だと答えた。トゥーレの空港は便数が少なく、夜遅い発着もない。仕事が入っても、会には間に合うはずだ。
私はギルバートと別れ、颯爽と歩く彼の背中を、人混みに紛れるまで見ていた。
彼は学生時代、自分やこの島の将来のことについて、目を輝かせながら語っていた。本土のことや世界情勢にも詳しく、他のクラスメイト達より大人びて見えたものだ。たぶんクラスの女子の半分くらいは、彼に憧れていたのではないだろうか。私も、その半分の中にいる、目立たない一人だった。
その日の午後、クロフォード邸を訪ねた私を見て、機嫌が良さそうねとアリスが言った。
「ふふ、実は、学生時代のクラスメイトに会ったんです」
「あら、もしかして、男の子の?」
アリスは鋭い。私が急遽同窓会が開かれることになった話もすると、自分のことのように喜んでくれた。
「もしその彼と結ばれてしまったら、どうするの? 調査が終わって帰らなければいけないけれど、そうなったら二人は離れ離れになってしまうわ!」
「アリス……その、まだ再会しただけなので」
私が遠慮がちに言うと、アリーチェ様、とシャノンが窘めた。彼女は悪びれず、愉快そうに笑っている。
「だって、トゥーレには映画館も劇場もないのよ。私、恋愛もののお話が大好きなの」
「だからといって、人の話を面白がるのは――」
シャノンのお説教が始まりそうだったので、私はそういえば、と口を挟んだ。
「今、王都で流行している舞台があるんです。スパイの男女が、敵国に夫婦のふりをして潜入する話で、一緒に過ごすうちに相手のことを本当に好きになって……」
「面白そうね! 最後はどうなるの?」
私は記憶を辿り、観に行ったソフィアが興奮気味に話した筋書きを答える。
「確か、男性の方が絶対に生きて帰れない作戦を上から命じられるんです。それで二人は祖国を裏切ることを決意して……でも結局、敵国内でスパイとして捕まりそうになって、自決するんです。二人で一緒に」
目を輝かせて聞いていたアリスだったが、結末には不満があるようだった。
「天国で二人は一緒になりました、ってわけ? 最近その類が多いけれど、私はあまり好きじゃないわ。ハッピーエンドが一番よ」
「アリスにはまだ、難しいかな」
シャノンがからかうように言い、アリスが頬をふくらませた。
「なによ、私はもう大人よ」
「それなら、そろそろ仕事の話を始めようか。大人はきちんと役割を果たさないとね」
アリスは基本的に、シャノンの言うことは素直に聞くようだ。部屋の中を歩き回りながら話していた彼女は、大人しく椅子に収まった。私とシャノンも、同じテーブルにつく。
「当面、アレッタは管制官としての仕事を以前と同じように続けるだけで結構です。ただし、もしこの間のようにカイロンの暴走が見られたら、その時の様子を注意深く観察してください。僕の方は、軍の航空部隊に所属しながら、島内の警備という名目で不審な点がないか見て回ろうと思っています」
それで何か異常が見つかれば、詳しく調査する。私にも普段から周囲の会話に気をつけるよう、シャノンは言った。
「どこにヒントが隠れているか、わかりません。特に、『火曜日』に関する話題はなんでも覚えておいてください」
私は頭の中に刻み付けるように、記憶していった。
「あとは、カイロンという生物について、アリスにも協力をお願いして資料を集めてもらっています」
シャノンの言葉に、アリスが頷いた。
「実は、カイロンの生物学的な研究記録はほとんどないの。どんな生物なのか、あまりわかっていないのよ。空を飛ぶ獣なんてカイロンしかいないし、背中に昆虫の殻を背負っているのもカイロンだけ。似ている生物もいないから、どう進化したかというのも謎なのよね」
確かに、聞けば聞くほど、謎に満ちた生物だ。
「何か事が起きるのを待つのも時間がもったいないので、これからカイロンを飼育している牧場を訪ねてみようかと思っています。毎日世話をしている飼育員たちは、我々よりカイロンに詳しいでしょうから」
「これからって、今日これからですか?」
そのつもりだと、シャノンは頷いた。
「私も行っても良いですか?」
もちろんと、シャノンが頷く。
「じゃあ、私も――」
「アリーチェ様、それはなりません」
言いかけたアリスに、マークさんがぴしゃりと言った。
「明日までに目を通して判を押さなければならない書類が溜まっております。それに、獣の近くにいるとアレルギーが出る恐れもございます。ブラントン先生が、そのようにおっしゃられていましたよ」
ブラントン氏はアリスのかかりつけの医師だと、シャノンが説明してくれた。そういえば何かの記事で、彼女は幼い頃から体が弱く、医師にも成人まで生きられないかもしれないと言われていたと聞いたことがある。今も元気そうではあるが線が細く、肌は透けるように白い。茎の細い花のような危うさを、彼女は持っていた。
「では、暗くなる前に出かけましょうか。牧場の責任者には、既に許可をいただいています」
準備の良いことだと、感心した。私の知らないところで、彼は色々と手回しをしているのだろう。
アリスの羨むような目に見送られ、私たちはクロフォード邸を出た。
カイロンを飼育する牧場は、街の中心部にあるクロフォード邸から三十分ほど歩いたところにあった。島で暮らしていた頃、学校の授業で訪れたことはあるが、当時はまだリト公国だった。今は管理者が代わっているだろう。
牧場が近づくにつれ、島特有の山から吹き下ろす風が感じられるようになった。草の匂いに、微かに獣の匂いが混ざっている。
緩い坂を上って丘の頂上にたどり着くと、そこに牧場が広がっていた。白い柵がぐるりと囲んでいているのは馬や牛の牧場と同じだが、ここはさらにネットが見えた。金属の高いポールが立てられ、ドーム状にネットを張り巡らせてある。カイロンは飛べるため、上も覆う必要があるのだ。
私たちはまず管理棟に向かい、牧場の責任者と面会した。記憶では小屋に毛の生えた程度の建物だったが、今や応接室もある小綺麗な二階屋になっていた。
「この施設の管理を任されております、デッカーでございます」
デッカー氏は恰幅の良い五十代くらいの男性で、シャノンと笑顔で握手した。まるでどこかの貴族を迎えるように低姿勢なのは、軍に協力することに利があるからだろうか。つい勘ぐってしまうほど、胡散臭い笑顔だった。
牧場の正式名称は「トゥーレ島カイロン飼育管理施設」で、デッカー氏の身分は施設長のようだ。彼によれば、ここに来てから五年、施設長に就任してからは二年だという。
今回の来訪の目的についてシャノンは、カイロンのより効率的な運用を行うための調査だと説明した。民間とも共同で調査をしており、私のことは民間から加わった管制官という紹介の仕方だった。
「カイロンが過ごしやすい環境を作ることが、目下の課題です。ストレスを感じて情緒が不安定になると、安全性や運用効率にも支障をきたす恐れがありますので」
デッカー施設長は全くその通りだと何度も頷いた。シャノンの作り話を怪しむ様子は微塵もない。
それから、私たちは施設長直々に施設内を案内してもらうことになった。
管理棟を出て、牧場の柵沿いを歩く。カイロンは穏やかに、草を食んでいた。
「ここにいるのは、『ブリンカー』装着前の個体です。極力ストレスを与えないよう、牧場で過ごす時間を多く与えております。子を産んだカイロンも、親子で放牧させています」
施設長は牧場の一角を指さし、先月生まれたばかりのカイロンとその母親だと言った。小さいカイロンが、母の周りをぽてぽてと歩き回っている。背中の殻はまだ毛に覆われていて、柔らかそうだ。二人の目がなければ、可愛いと騒いでいただろう。
少し移動すると、柵で区切られた屋根のある一画があった。ここの地面は剥き出しの土で、カイロンが数頭、ゆっくり歩いたり寝そべったりしている。施設長が自慢げに説明した。
「こちらはブリンカーを装着した後、狭い厩舎に慣れるための部屋です。しばらくここで過ごさせると、出荷先の厩舎で情緒不安定になることが少なくなるんですよ」
シャノンはにこやかに相槌を打ち、聞いていた。
「どのカイロンも、穏やかに過ごしていますね。最近では、暴れるなどの異常はありませんでしたか?」
シャノンがやんわりと尋ねると、施設長はきっぱりと、何もありませんよと答えた。
「ですが、念のため飼育員の記録を確認しておいた方が少佐殿もご安心でしょうね。少々お待ちください、今持って参ります」
お願いしますとシャノンが言い終える前に、施設長は重たそうな体を揺らして早足で管理棟へと戻って行った。
「特に思い当たることはなさそうでしたね。ここのカイロンに異常はなかったということでしょうか」
私の言葉に、シャノンも頷く。
「ええ、何かを隠している様子もありませんでした。そうなると、原因はこの島ではなく付近の海上か、そもそも場所は関係ないか……」
私たちが考え込んでいると、小石を踏む靴音が背後で聞こえた。施設長がもう戻ってきたのかと思ったが、立っていたのは小柄な女性だった。彼女は挨拶もなく、ぶっきらぼうに言った。
「あの人の“異常なし”は、出荷には問題ないって意味だよ。ちょっとした体調の変化なんて気にしちゃいない」
私はそのつっけんどんな態度に覚えがあった。
「あなた、クレアよね。ハイスクールで同じクラスだった」
彼女は唇の端を片方だけ持ち上げ、笑った。
「へえ、島を出て王都に行ったって聞いたから、昔のことなんて忘れてると思ったのに。教室の隅にいた私のことなんか、特にね」
彼女の印象は強烈で、忘れようにも忘れられない。皮肉な言い回しは八方美人な私とは対極で、彼女は孤立することを全く恐れていなかった。異質で、でも誰にも影響されない彼女に、私は少しだけ憧れていた。
「クレア、今の言葉はどういう意味? まさか、最近様子のおかしいカイロンがいたの?」
「少し前、一斉に落ち着きがなくなったのは覚えてる。確か――」
そこでクレアは言葉を切り、私たちの肩越しに向こうを見た。施設長が戻ってくるところだった。彼の前では言いづらいということだろう。
「記録の確認は僕だけで充分です。彼女から詳しい話を聞いておいてください」
シャノンが小声で、私に言う。私は小さくわかりましたと答えた。シャノンは私たちから敢えて離れるように、施設長の方へと歩いていく。私も柵の中を見るふりをして、彼らから遠ざかる方に足を向けた。
「続き、聞かせてくれる?」
早口で言うと、クレアはいいけどと素っ気なく答えた。
「カイロンがそわそわし出すことが、何度かあったんだ。大体同じ間隔で見ると思ったら、全部火曜日の午前中だった」
「火曜日……」
カイロンが暴走したのと同じ曜日だ。
「それは、先週も?」
「うん、その日は別の飼育員がいたんだけど、やっぱり午前中だったって。私たちは日誌をつけてるから、当然そのことも初めは書いてたんだけどさ」
それからクレアは、ちらりと施設長の方を見て言った。
「あの人が、そういうことを書くと出荷に差しさわりがあるかもしれないから、異常なしって書くように言ったんだ。だから、記録は残ってないよ」
「ひどいわね、何のための記録かわからないわ。そのせいで、パイロットや乗客が危険にさらされるかもしれないのに」
クレアの目が、面白がるように光った気がした。
「意外と正義感が強いんだね。昔から真面目だとは思ってたけど」
「管制官をしていたら、皆同じように言うと思うわ。私たちは、空の安全のために働いているから」
彼女はふうんと言ったきり、無言になった。学生時代に彼女と二人きりになったことはなく、雑談に適した話題もわからない。気まずい沈黙を破るために、私は言った。
「クレアはどうして、カイロンの飼育員になろうと思ったの?」
「……別に、大した理由なんてないよ。勉強もできないし、特にやりたいこともなかったし。島を出ないでできる、安定した仕事だっただけ。だって、カイロンの需要がなくなることはないからさ」
そうでしょうと、クレアは私を見て笑った。
「旅客用、軍事用、物資輸送用……平和でも戦争でも、カイロンは人間に使われる運命だもんね」
「あなたはそれが、おかしいと思っている?」
彼女ははっきりとは答えず、柵の中に目を向けた。カイロンが膝をついて座り、目を閉じている。幸せそうに、昼寝をしているように見えた。
「動物を使役すること自体は、普通だと思う。でもさ、体の中に機械を詰め込むのは、やり過ぎじゃない? そこまでしなきゃ制御できないなら、それはもうできないのと同じだよ」
「……そう、かもしれないわね」
人間は踏み越えてはいけない線を、越えてしまったのかもしれない。利便性を言い訳にして。
「クレアは、制御を受けていないカイロンの姿を知っているのよね」
「まあね。“手術”を受けた後は、もう別の生き物だよ。牙を抜かれた猛獣って感じ。お前はもっと速く走って飛びたいだろうにって、こっちまで悔しくなる時もある」
そこまで話してから、クレアは気まずそうに顔を逸らした。
「あんたにこんなこと言っても意味ないよね。ちょっと口が滑った」
「確かに私は何もしてあげられないけれど、それがあなたの本音なら、聞けて良かったわ」
クレアは渋い顔で私を見ると、小さくため息をついた。
「なんかあんたと話してると、調子狂うわ。こんなこと、他の飼育員とも話さないのに」
「私は、なんとなく楽しいわよ」
そう言って笑って見せるとクレアはさらに渋面になったが、本気で怒っているわけではないと、今はわかった。口は悪いし皮肉屋だが、彼女は質問には誠実に答えてくれる。ハイスクールの時も、苦手に思う前にちゃんと話しておけばよかった。
「……本当はさ、カイロンのこと、もっとよく知っている人がいたはずなんだ」
彼女は唐突に、独り言のように言った。
「どういうこと? もうその人は、いなくなってしまったの?」
たぶんね、とクレアは頷く。
「この島がリト公国じゃなくなった時に、人も、記録も、燃えちゃったんだよ。私が子供の頃だから、聞いた話だけど。牧場の前の管理者は公爵様の一族とも縁が深くて、公爵家が自決を選んだ時に一緒に命を絶ったんだ。私の両親が言うには、秘密を守るためだったんじゃないかって」
「守る……。そんな秘密があったの?」
「具体的なことは、わからないけどね。戦争に利用されそうな情報があったとかじゃないかな。例えばカイロンに爆弾を積み込んで突撃するように命令できる方法とか、そういうの」
私は行きの道中でシャノンと話したことを、思い返していた。公爵家一族は、なぜ被害が大きくなるような決断をしたのか。シャノンは彼らが命に代えてでも守りたい秘密を抱えていたのではと推測していたが、もしかするとそれは、カイロンに関することだったのかもしれない。
「だからさ、私たちはここ十年くらいの経験則で、なんとかカイロンを育ててるってわけ。彼らが丈夫で穏やかだから、どうにかなってるんだ。本当は、大きいけど繊細なんだよ。環境の変化にも敏感なんだ。あいつらの落ち着きがなくなった時、私は何も感じなかったけど、彼らにとってはきっと気になることがあったんだろうね」
大抵の獣は人間より感覚が鋭いが、カイロンも聴覚や嗅覚が特に発達しているという。嫌いな音や匂いを感じて、落ち着きを失ったのかもしれない。
「ありがとう、クレア。とてもためになる話が聞けたわ」
どういたしまして、とクレアはまた唇の端を上げた。
「そういえば、あなたは今週末の集まりのことは聞いてる? ギルが、私が戻っているから同窓会を開いてくれると言っていたのだけど」
「聞いてないよ。私なんかに誘いがかかるわけないって。まあ、誘われても断るけどね」
何度か断るうちに誘われなくなったと、クレアは言った。そういう場が好きじゃないことは想像できるので、私も彼女を誘うようなことは言わなかった。
「でも、気をつけた方が良いと思うよ」
クレアがニヤリとして言うが、私には何のことだかわからなかった。
「ギルバートの周辺は、最近ちょっと怪しいんだ。変なことに勧誘されるかもしれないから、嫌ならきっぱり断った方がいい」
「変なこと……?」
詳しい説明を聞きたかったが、施設長の声が近づいてくるのに気づいて、私は口を噤んだ。
「ウチの飼育員から、何か有益な情報は得られましたかな?」
言外にプレッシャーを感じる態度だった。横で、クレアが不快そうに顔をしかめるのが見える。
「実は私たちハイスクールのクラスメイトで、つい昔話に花が咲いてしまったんです。カイロンについてはあまり……」
私がしまったという顔で答えると、それまでガラス玉のようだった施設長の目が、ほっと緩んだように見えた。豪快に笑ってから、彼は言った。
「いやあ、それは邪魔をして申し訳なかった。どうぞ、ゆっくりお話ししてください」
私はこれで、と施設長は頭を下げると、大股で管理棟の方に戻っていった。
「私たち、昔話に花が咲くほど仲が良かったっけ?」
「もう、いじわるね、クレア」
くつくつと笑いながら、クレアはごめんと言った。
「ああ言ってもらって良かったよ。何を話したんだって詮索されるのは面倒だからさ。まあ、私でわかることなら話すから、また来れば? そちらの少佐さんも」
クレアは私の斜め後ろに立つシャノンにも視線を向け、シャノンは笑顔でお礼を言った。
「デッカーさんの話が想像以上に空っぽだったので、そう言っていただけて安心しました」
「はは! 確かにあの人は肩書が歩いてるのと同じだからね」
クレアは愉快そうに声を上げた。どうやら、ジュノーの人間を敵視しているわけではないようで、ほっとする。
私は牧場を出た後、クレアから聞いた話をシャノンに伝えた。火曜日というキーワードが出てきたことには、彼も引っかかったようだった。
「例の二騎のカイロンは、それぞれ火曜日の午前中にトゥーレ上空を通過しています。それを考えると、偶然ではないかもしれませんね」
火曜日に島で何かが行われ、カイロンがそれに反応している。一気に、その可能性が高まった。
「今日はこのまま、お帰りになりますか?」
シャノンに問われ、少し考えてから、私は答えた。
「少し寄りたいところがあるんです」
牧場のあった丘の手前に小道があり、その先は別の丘に通じている。私がその分かれ道で小道の方に入ろうとしているのを見て、シャノンもすぐに気づいたようだった。
「シーバート様の墓に?」
「はい。でも、実際に足を運んだことはなくて……」
実は、どのくらい歩けば墓地に着くのかも知らない。
「少し勾配が急ですが、近道を知っています。行きましょう」
シーバート家とクロフォード家に繋がりがあったため、自分も墓参りをしたことがあるのだとシャノンは言った。
私はシャノンに続いて、獣道のような細い砂利道を上った。ここが近道なのだろう。草が私の身長ほどにまで生い茂っている。
やがてその斜面を登りきると、一気に視界が開けた。目の前に広がったのは、風の吹き抜ける草原だった。木々に囲まれた中に、陽だまりのようにぽっかりと平原がある。さらにその中に、寄り添うようにして墓石が置かれていた。
最も大きな墓石には、クロフォード家最後の当主の名が刻まれていた。その横に、妻フィーネと息子ユアンの名もある。周囲の小さな墓石は使用人や親しい知人たちのものだと、シャノンが教えてくれた。
「なぜ、この場所を訪ねようと思ったんですか?」
「クレアの話を聞いて、気づいたんです。……私がしようとしていることは、ここに眠る方々が命と引き換えに守ったものを、暴いてしまうかもしれない。カイロンの謎を解き明かすのは、そういうことかもしれないと、思ったんです」
カイロンを暴走させるような方法が見つかれば、それは軍事的に利用されるかもしれない。
「でもアレッタ、あなた自身はその明らかになった事実を、争いに使うつもりはないでしょう?」
「ええ、もちろん! 私はただ、誰もが安全に空の旅ができるようにと願っているだけです」
私の答えを聞いて、シャノンは優しく目を細めた。
「それなら、きっとここにいる人たちは誰も怒りませんよ。大丈夫です」
それに、とシャノンは墓石を見据え、誓うように言った。
「もし争いに使おうとする者がいても、止めます。絶対に」
シャノンは凛とした顔で、軍人の最敬礼をした。
私は胸の前で手を組み、目を閉じる。
私はあなたたちの想いを、踏みにじるつもりはありません。ですから少しだけ、あなたたちが抱えた秘密を覗かせてください。この島の人たちが、そしてカイロンたちが少しでも穏やかに過ごせるように。
私の髪を、そよ風が小さく揺らした。それはまるで、私に向けて、いいよと言ってくれたかのようだった
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