第2話 故郷へ(2)
四時間汽車に揺られた私たちは、昼食をとった後、港から出ている島との連絡船に乗り込んだ。ここからさらに二時間かかって、ようやく目的地に到着する。
ずっと船内で座っているのも退屈で、私はデッキに立って海を眺めていた。空は雲で覆われていたが、ところどころ青空が見えていた。風もなく、穏やかな海だ。小型の蒸気船は、軽快に白波を立てて進んでいく。
足音が聞こえ、背後を振り返った。シャノンが立っていて、そのまま私の隣に並ぶ。
「島に戻るのは、久しぶりですか?」
「五年ぶりです」
私は水平線の向こうに目をやりながら、短く答えた。
「……それは、戻りたくない理由があったからですか?」
「いえ、特に何かがあるわけではなくて……。ただ、王都に出たらもう余所者になってしまったような、地元の友達からもそういう風に見られるような、そんな不安があったのかもしれません。でも、懐かしくないわけではないんです。違う国になったとしても、故郷は故郷ですから」
「そうですね、あなたの大切な人達が変わらずにそこにいるなら、ふるさとであることに変わりないと思います」
「でも、変わってしまって、もう二度と戻らないものがあるのも確かです。国を治めていた公爵様は、もうおられません。公爵家の統治下にあったのどかな日々は、もう……」
いつの間にか感傷的になっていたことに気づいて、私は口を噤んだ。ジュノーの軍人にこんなことを言っては、恨み言になってしまう。
「すみません、忘れてください」
「いや、むしろもっと具体的に聞かせていただきたいくらいです。トゥーレを統治されている侯爵閣下にとっても、大変貴重な意見になります」
現在あの島は、ジュノー王から命じられ、ある貴族が統治している。爵位は侯爵で、姓はクロフォードだったはずだ。……クロフォード? はっと顔を上げた私に、シャノンは一つ頷いてから言った。
「僕は戦争で両親を失った後、当主のジェフリー・クロフォード様に後見人になっていただきました。大半は王都で暮らしていましたが、トゥーレにも何度か来たことがあります」
「クロフォード家は、以前から公爵閣下と親交があったそうですね」
「ええ、ジェフリー様と最後の公爵であったダレン・シーバート様は、親しい友人同士だったと聞いています。ジェフリー様は公爵閣下に全面降伏を促したそうですが、意思は固かったようで、あのような結末に……」
島がジュノーに侵攻され、街が炎に包まれたその日、公爵は自ら屋敷に火を放った。彼の妻や息子、長く仕えた部下や使用人も一緒だったという。
「私は何度かダレン様をお見かけしたことがありますが、穏やかで優しそうな方でした。民からも愛されていたと思います。それなのに、どうしてあんなに被害が大きくなるような決断をしたのか……」
ジュノー王国から宣戦布告を受けた時も、きっと公爵様がなんとかしてくださると信じていた。国を奪われ、父を失うことになるなんて、想像もしていなかった。
「そうまでして守りたい何かが、あったということかもしれませんね」
「それが、人の命よりも大事だったと言うんですか?」
心なしか寂しげに、シャノンは微笑んだ。
「そうであったらいいと、個人的に思っただけです。公爵としてのプライドのために家族や市民が巻き込まれたとすれば、救いがないですから。しかし、あの国で暮らしていたあなたが知らないのなら、何もないのかもしれません」
「それは……どうでしょう。私はまだ子供でしたし、母はジュノーから嫁いできたんです。父だけがずっとあの島で育って――」
その時、過去の一場面が私の頭を過ぎった。父が家に駆けこんできて、私と母に言ったのだ。
――ここは危ない。急いで荷物をまとめて、ジュノーに渡りなさい。今ならまだ、今日最後の連絡船に間に合う。
私たちは面食らったが、普段無口な父が必死になっているのを見て、黙って従った。母が島の出身ではないから、嫌がらせを心配しているのだろうか。私と母はそんなことを言って島を出たが、その二日後に街は戦火に包まれていた。そして父を見たのは、その時が最後だった。
父は、知っていたのだろうか。公爵家が、死を選択する理由を。
「……アレッタ?」
気づくと、シャノンが心配するように私の顔を覗き込んでいた。思ったより彼の顔が近くにあって、驚いて手すりに背中をぶつけてしまう。
「ぼんやりしていましたけど、大丈夫ですか?」
「すみません、ちょっと昔を思い出しただけです」
彼はひとまず引き下がったが、気遣うような表情はそのままだった。
「――おや、島が見えてきたようですよ」
いつの間に甲板に上がってきたのか、近くに黒っぽい服装のずんぐりとした男性が立っていた。年は私の母よりも上だろう。目深にかぶった帽子も重そうなカバンも、黒一色だ。
私と目が合った男性は、にこやかに会釈してから言った。
「私は医師をしております。生まれはパラス帝国傘下の辺境国ですが、少し前までジュノーでも働いていました。今回、初めてトゥーレまではるばるやって来ましたが、風光明媚な島のようですな」
「ええ、自然が豊かで、良いところですよ」
私は男性に得体の知れない雰囲気を感じながらも、そう答えた。言葉に訛りはないが、顔つきはやはり西の帝国のものだ。
「しかしその奥に、悲運の歴史を抱えている。帝国に裏切られ、ジュノーに奪われ。いや、あるいはどちらにも渡す気がなかったか……」
「渡す、というのは?」
意味深な男性の言葉に問い返したが、彼は曖昧に笑みを浮かべると、そのまま船の中へと戻ってしまった。
「……なんだか、変わった人でしたね」
シャノンを振り向いて声をかけると、彼は警戒するような目で男性の背中を追っていた。
「怪しいですね。もし帝国が今回の件に関わっていたら……」
「で、でも、あの人は初めて来たと言っていましたよ。カイロンの異変は二週間以上前ですから、関係はないのでは?」
シャノンは頷いたものの、完全に納得している様子はなかった。仲間がいる可能性を考えると、私も否定する材料はない。
島は今や、その輪郭がはっきり見え始めていた。船が数隻停泊している港や、濃い緑の丘。街の手前には、ひと際背の高いタワー――管制塔がそびえている。これからしばらく、私はあそこで働くことになるのだ。
戻ってきた。見慣れた風景を目にして、私はようやく実感した。
旧リトグラフィカ公国、通称リト公国。今の名は、最果ての島、トゥーレ。しかし風景は変わらずに、私を迎えようとしていた。
私を知る人たちは、変わらずに私を迎えてくれるだろうか。
港に降り立った私たちを、一台の馬車が待っていた。御者はクロフォード家のお抱えで、私たちに向かって恭しく頭を下げた。
「一通りの事情は、クロフォード家にも話してあります。一度はあなたを屋敷に招いて紹介したいのですが、もしお疲れのようでしたら後日でも構いませんよ」
「疲れの方は大丈夫です。でも、この格好で無礼になりませんか?」
移動のため、今日は動きやすく汚れても良い服装だった。貴族の屋敷に招かれたことはないが、たぶんこんなくたびれた服はダメだろう。
「王都から半日以上かけて来たことはあちらもご存知ですから、気にする必要はないと思いますよ」
そう言われてしまえば、断ることもできなかった。私はシャノンの手を借りて馬車に乗り込み、見慣れない高さから揺れる風景を眺めた。
島の輪郭は変わっていなかったが、街並みはずいぶんと変わっていた。一軒一軒の建物は全体的に小振りになり、洗練されたデザインになっている。しかしよく見れば王都の造りとは違い、リト公国の伝統とされた窓や屋根の形が踏襲されていた。道も整備されていて、私の記憶では土を均しただけだったところが、レンガや石畳になっていた。
「あまり公にはされていないのですが」
前置きしてから、シャノンは言った。
「クロフォード家の当主であるジェフリー様は、現在持病の療養中のため、王都におられます。実質このトゥーレを治めているのは、ご息女のアリーチェ様。これからお会いするのも、そのアリーチェ様です」
王都にもたらされるトゥーレの情勢は、私もなるべくチェックするようにしていた。アリーチェ・クロフォードの名は、何度も目にしたことがある。飛び級で大学に入学し優秀な成績で卒業したというニュースを、わりと最近見た気がする。
「とても優秀な方だと伺っていますが、まだずいぶんお若いですよね」
「ええ、今年二十歳になられました。反ジュノーの市民にも積極的に対話を働きかけていて、奮闘されていますよ。クロフォード家は市民にとって“裏切り者”ですから、何もせずとも嫌われていて大変でしょうけれど」
先ほどの話にあったように、戦前、公爵閣下とジェフリー・クロフォード様の仲は親密だった。しかし結局、クロフォードはジュノーの圧力に屈して公国を“売った”といわれている。クロフォード家も生き残るための選択だったと思うが、それで市民たちの怒りが収まるわけではないということだろう。
「それでも、クロフォード家は手を引かずに統治を続けているんですね」
「公国時代を良く知る者として任命されたという理由はありますが、ジェフリー様はせめてもの償いだとおっしゃっておられました。憎しみの矢面に立ち、それでも発展に尽力することくらいしか、できることはないと」
窓から見た風景は、その努力の結果なのだろう。壊れた建物を造り直す傍ら、伝統文化を失わないよう、建築様式は公国時代のものを取り入れたのだ。それは、王都では得ることのできない情報だった。
「ジェフリー様も、アリーチェ様も、素晴らしい方々ですね」
「ええ、それは保証しますよ」
シャノンは誇らしげに言った。
馬車はやがて、立派な門構えのある屋敷の前に止まった。ここがクロフォード家。緊張を覚えながらも、同時にわくわくしていた。若き才媛、アリーチェ様にこれから直接お会いできるのだ。
馬車から降りると、御者と入れ替わるように屋敷から使用人らしき初老の男性が現れた。彼は丁寧にお辞儀をすると、品の良い笑みを浮かべた。
「お待ちしておりました、シャノン様、アレッタ・エヴァンス様」
シャノンは私に、彼はクロフォード家に長年仕えている執事だと紹介した。執事はマーク・イアハートと名乗り、再び頭を下げた。
「マークさんは僕がアリーチェ様と王都の大学に通っていたころ、お世話になった方です」
「はは、シャノン様は私がお世話をする必要はありませんでしたよ。一方でアリーチェ様は……」
そこまで言うと、マークさんはおどけた顔でぺろりと舌を出した。茶目っ気のある人のようだ。
広い前庭に咲く花々を眺めながら、屋敷の白い扉へと続く石畳を歩いた。花壇はよく手入れされており、特に赤いバラが美しかった。
「どうぞ、アリーチェ様がお待ちかねです」
マークさんに促され、廊下を進む。すると、左手に見えていたドアの一つが開いた。
「アリーチェ様、お座りになってお待ちくださいと――」
苦言を呈するマークさんを押しのけるようにして、部屋の中から美しい女性が現れる。彼女は私に無邪気な笑顔を向けて言った。
「あなたがアレッタね。お会いできて光栄だわ!」
アリーチェ様は呆気にとられる私の手を取って、部屋の中へと引っ張る。戸惑って振り返ると、マークさんが諦めたように首を振っていた。シャノンが弁解するように言う。
「先日の管制塔でのやりとりをアリーチェ様にお話ししたら、とても興味を持たれたようで――」
「少し前に、パイロットと管制官のロマンス小説を読んだの。短い交信の中にも滲む愛! 本当に素敵だったわ」
「あら、そんな小説があるのですか? ヒロインの女性が管制官だなんて、珍しいですね」
大抵のロマンス小説は、良家の子女がヒロインで、大人しく相手を待っている印象があった。
「とても感動したから、あなたにも是非読んでいただきたいわ。でもね、パイロットも管制官も男性よ」
「ん……?」
それはつまり、男性同士の……。
「アリーチェ様。アレッタが困っていますから、そろそろおやめください」
ため息をつくシャノンに、アリーチェ様はくすくすと笑って頷いた。
「この感じ、昔みたいで懐かしいわ」
アリーチェ様はふわりとドレスを靡かせると、流れるような所作で裾を摘まんでお辞儀をした。
「改めて、アリーチェ・クロフォードです。当主である父が療養中のため、名代としてトゥーレの統治を任されております。今回の調査の件、クロフォード家も協力は惜しみませんので、存分に頼ってくださいませ」
「クロフォード家にはトゥーレに滞在している軍とは別の情報網がありますから、手がかりがあればすぐに情報を集められると思います。それから、調査は基本的に内密に進めたいので報告や議論はアリーチェ様も含めてここで行う予定です」
シャノンが後を引き継いで言った。言葉はほとんど交わしていない二人だが、親しい関係であることはわかった。
「まあ今日のところは着いたばかりだし、ゆっくり休んでちょうだい。――それから、シャノン」
アリーチェ様は口を尖らせ、彼に言った。
「『アリーチェ様』だなんて、よそよそしいのはやめて。敬語もダメよ」
「ですが、今回は任務として――」
シャノンの唇の前に指を立てて反論を封じたアリーチェ様は、精一杯体を反らして言った。
「この街で一番偉い、私のお願いが聞けないの?」
その時、部屋の入り口あたりから豪快な笑い声が聞こえた。
「言い出したら聞かないぞ、そのお嬢様は」
「エル!」
シャノンとアリーチェ様が声をそろえ、新たに登場した男性を呼んだ。長身のシャノンよりさらに背が高く、肩幅もがっしりしていた。体格に合った精悍な面立ちだ。アリーチェ様が、部屋に入ってきた彼を私に紹介してくださった。
「エルドレット・ターナー、エルよ。彼には屋敷の警備や私の警護を任せているの。カイロンの操縦資格も持っているわ」
シャノンより二つ年上で、三人とも幼馴染なのだとアリーチェ様は説明した。
「だから畏まられると調子が狂うのよ。ねえアレッタ、私のことはアリスと呼んでちょうだい。私、ずっと女友達が欲しかったの」
「はい、アリス様――」
「様もなしよ!」
それはさすがに、とシャノンを見れば、仕方ないというように笑っていた。
「アリス、友人になりたいなら無理強いは良くないよ。突然距離を詰めようとしても、仲良くなれるとは限らない」
シャノンに諫められて、アリーチェ様、もといアリスは素直に頷いた。
「ごめんなさい、アレッタ。でも私、あなたとお友達になって、色んなお話をしたいと思っているの。それは信じて?」
「ええ、もちろん疑ってなんていません。では、人目のないところではアリスと呼ばせていただきます」
アリスはぱっと花が開いたかのような笑顔を私に向けた。あどけない表情は、まだ少女のようにも見えた。
「そういえば、あなたはロザリーンさんの娘さんなのよね?」
突然母の名前が出て驚きながら、そうだと頷いた。
「どうして、母のことを?」
「『エヴァンス香水店』の香水のファンだからよ。お母様が調香された香水は、王都のものにも劣らないわ」
母は元々、王都で調香を学び、独立のために香水店で修業をしていたと聞いている。香料を探すために当時のリト公国を訪れたのがきっかけで、父と出会ったのだ。
「きっとお母様もあなたの帰りを心待ちにされているでしょうね。今日はもう、お開きで良いかしら?」
シャノンが頷く。あと一時間ほどで夕食、という頃合だった。
「では、明日の午後にでも調査の計画を立てましょう」
私はなんだか夢の中のように感じながら、屋敷を後にした。馬車で送ると言ってもらったが、丁重にお断りした。うちの前の道は馬車が通れるほど幅がなく、仮に通れたとしても大騒ぎになるだろう。
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