第1話 空を駆ける獣(2)

 それにしても、気になるのはなぜカイロンが突然暴走したのか、ということだ。直前まで普通に飛行していたのに、何が起きたのか。カイロンは出発する空港でチェックを受ける決まりになっており、もしそこで異常が認められれば、離陸は延期か取りやめになるはずだ。


 私は直接、パイロットのノア・フランクリンに聞いてみることにした。彼は近くの総合病院で検査を受けているという。私が何もしなくても空港内の事故調査委員会が調査に取りかかるだろうが、ほぼ個人的な興味だ。それに、少々強く言い過ぎた自覚もある。パイロットの経験もない、ベテランでもない管制官に怒鳴られれば良い気はしないだろう。まずは謝罪しようと思っていた。


 退社したその足で、私は病院に向かった。受付で尋ねると、ノア・フランクリンは既に検査を終え、今日は念のため一晩入院するとのことだった。

 面会はできると聞き、教えてもらった病室まで彼を訪ねた。四人部屋のようだが今は他のベッドは使われていないようで、ノア一人しかいなかった。

「ああ、君が今日の管制官だった人か……。うん、君の名前は見覚えがあるよ。おそらく何度かやり取りしたね」

「ええ、私もあなたの名前は何度も見たことがあるわ。でも、こうして面と向かって話すのは初めてね」

 パイロットにとって、管制官は名前と声だけの存在だ。同様に、私たちもパイロット個人の顔を知る機会はあまりない。“プライベートな理由”で、お近づきになりたいと考えるイザベラのような人間は別だが。


 ノアは私を見て怒らないばかりか、頭を下げて言った。

「今日は取り乱してすまなかった。情けないところを見せてしまって、恥ずかしいよ」

「誰だって、死ぬかもしれないと思ったらそうなるわ。私も、怒鳴ってえらそうなことを言ってごめんなさい」

「とんでもない。名前を呼んでもらって目が覚めたよ。あの時、まだ死ねないと思った。君に、感謝の気持ちを伝えるまではね。まさかこうして会いに来てくれるなんて――」

「それなら安心したわ。ところで、疲れているところ申し訳ないけれど、今日のことを聞いてもいいかしら」

 ノアの言葉を遮り、私は本題に入った。彼は少しの間ぽかんとしていたが、良いよと答えてくれた。


「まず、カイロンに異変があったのはいつ頃? フェザント交通管制部との交信をした時は、何もなかったのよね?」

「ああ、カイロンが暴れ出したのは、そろそろ空港の管制官に通信を入れようと思った頃だよ。でも、その前から徐々に体温や血圧は上がっていた。今日は晴れていたから、暑いのかなと思ったんだけど……」

 結果から考えると、暴走の兆しだった、ということか。

「あと、ちょっと気になったのは……いや、見間違いかもしれないんだけど……」

「何かしら、聞かせて?」

 ノアは自信がなさそうに、首を捻りつつ言った。

「途中、クレインの管制部との交信を終えて少し経ったくらいに、一騎のカイロンとすれ違った気がしたんだ。俺は慌てて回避しようとしたんだけど、レーダーには何も映っていなかった。でも、ガラス越しに外を見る限りは影があって……。その時は、野生のカイロンが飛び出して来たんだろうって、無理矢理納得したんだ。その場所はちょうど、『トゥーレ』の上空だったから」


「トゥーレの……」

 トゥーレは、かつて他国の領土だった島だ。ジュノー王国が位置する大陸の、東側にある。その島では大陸には生息しない野生のカイロンが生息していて、さらに使役するカイロンを飼育するための牧場も作られている。確かに、一騎くらい飛び出てきたとしてもおかしくないかもしれない。

 トゥーレには個人的にも因縁があるのだが、今はどうでも良いことだ。その野生のカイロンとの遭遇とカイロンの異変に因果関係があるかは、まだ判断できない。しかし、記憶に留めておく必要はあると感じた。


「そういえば、俺の知り合いのパイロットも、先週ちょっとカイロンの様子がおかしくなったって言ってたな。報告を上げて、獣医は問題なしって診断したみたいだけど」

「その便も、同じルートだったの? 野生のカイロンに遭った?」

 勢い込んで尋ねる私に気圧されたように、ノアは少し身を引きながら答えた。

「いや、ルートは全然違うよ。出発からして、俺は北のグロスビークだけど、そいつは南のカイトだ。それに、俺みたいにカイロンを見かけたとも言っていない。異変だって、制御を外れない程度のものだ。共通しているのは、小型の貨物騎だったってことくらいだよ」

「でも、一応調べてみるわ。その人の名前と、先週のいつのフライトだったか教えて」

 ノアはいつだったかまでは正確に覚えていないと答えたが、先週カイトから飛んだ貨物騎でパイロットの名前もわかっているのなら、簡単に絞り込めるだろう。


「ありがとう、とても参考になったわ」

「それは良かった。ところでアレッサ、お礼もしたいし、今度食事でも――」

「良いわね、あなたの無事をみんなでお祝いしましょう」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

 私はにっこり笑って言った。

「じゃあ私は帰るから、今日はゆっくり休んでちょうだい。それと、私の名前はアレッタよ」

 私は言葉を失ったノアを尻目に、病室を後にした。悪い人ではなさそうだが、興味があるはずの人の名前を間違って記憶しているなんて、注意力が足りない。それに、今は色恋よりカイロンの異変の調査だ。

「好きとか愛してるとか、そういうのは生きてる人同士しかできないんだから」

 もっと大ごとになって犠牲者が出るなどということがないよう、早く原因を突き止めなければ。私はぶつぶつと言いながら、仲睦まじく笑い合っていた両親の姿を思い出していた。




 足早に職場に戻ってきた私は、一目散に保管庫に向かった。保管庫は過去のフライトプランをまとめて置いている部屋で、時系列順にファイルが並べられている。私は比較的最近のファイルが収納された棚に近づき、先週分の貨物騎についてまとめられたファイルを抜き出した。今日の事案の内容も、後ほどこのファイルに収められることになるだろう。


「カイト発で、パイロットが……」

 新しい記録から遡るようにして見ていくと、ノアが教えてくれた便がすぐに見つかった。確かに、北と南の反対方向から来ているのだから、ルートは被らない。共通項は見つからないかもしれないと思いつつ、私は空図を大きなテーブルに広げ、持っていた糸と待ち針を使って二騎のルートを描いた。

 カイロンは通常、通過するポイントを数か所決め、点と点を結ぶように目的地まで飛行している。管制でデパーチャー、アライバルなどと言っていたのがそのポイントの一つだ。私はポイントに待針を打っていき、そこに糸を巻き付けて繋いだ。これで、糸がカイロンの飛行ルートになっているはずだ。


 そうして浮かび上がった二騎の経路で、たった一か所、交わる場所を見つけた。

「トゥーレの上空……」

 そこは経路のポイントとして定められてはいないが、二騎が付近を飛んだことは間違いない。カイトの側から来たカイロンが気流の乱れやすい空域を避けるため、やや迂回しているために生じた交わりだった。


「トゥーレが、どうかしましたか?」

 突然声をかけられた私は、びっくりしてファイルを取り落としてしまった。慌てて拾おうとすると、横から伸びた手が先に拾い上げた。

「すみません、一応ノックはしたんですが、集中されていたようですね」

 二言目を聞いて、確信した。

「クロフォード少佐……」

 私の呟きに、相対した男性はにこりと笑みを浮かべた。

「昼間はどうもありがとうございました。ミズ・エヴァンス。改めて、航空部隊のシャノン・クロフォードです」

 電話越しに聞くよりも、涼やかな声だった。しかし穏やかな声音は一緒だ。


「ルイス室長から許可をいただいて、過去に似た事例がないか調べようと思ったのですが……どうやら先を越されてしまったようですね」

「いえ、私は勝手に調べていただけで……すみません」

 空港内の事故調査委員会より軍が先に動くとは思っていなかった。私は慌てて自作した地図を片付けようとしたが、少佐はそのままにしておいてほしいと言った。

「それから、できればあなたの意見もお聞きしたいと思っています。先ほど、トゥーレとおっしゃっていましたよね?」

「ええ、でも素人考えなので、わざわざお耳を拝借するほどではないのでは、と」

「それはこちらで判断します。とりあえず、お聞かせください」


 どうやら、彼は私が話をするまで解放してくれる気はなさそうだった。私は観念して、どこから話そうか思案した。しかしその時どこからか、やたらと食欲をそそる匂いを感じた。少佐がここに現れるまではなかった匂いだ。何気なく彼に目をやると、右手に紙袋を下げていた。それに気づいた彼は、紙袋を掲げて言う。

「夜食が入っているんです。よろしければ食べながらお話ししませんか?」

 夢中で調べ物をしていて、今更ながら空腹を自覚した私にとって、それは非常に魅力的な誘いだった。

 そして間の悪いことに、私が口を開くより先にお腹の虫が鳴いた。とっさに腹を抑えた私を愉快そうに見て、決まりですね、と彼は言った。




「なるほど、あなたの言う通り、二騎がどちらもトゥーレ付近を飛行したことは間違いなさそうですね」

 飛行ルートを描いた自作の地図を使って説明すると、クロフォード少佐は納得したように言った。

「まだそれが関わっていると判断するのは早計だと思いますが、もしかすると重要な手がかりになるかもしれません」

 ひとまず地図を片付けて、私たちは休憩室に腰を落ち着けた。少佐の持って来た夜食はバケットのサンドイッチで、包みを開けるとさらに良い匂いがした。

「……美味しい!」

 私が思わず感激の声を漏らすと、少佐は控えめに微笑んだ。

「お口に合って良かったです」

「この味付け、何を使っているんですか?」

 葉物野菜やチーズなどの具が挟まれているが、それ以外に口にしたことのない複雑な味がした。

「パンに塗られているソースは、アンチョビとオリーブオイルを混ぜたものに、鳥のレバーペーストを少し加えてあります。レバーが入るので、苦手な人もいると思いますが」

「私は大好きです」

 間髪入れずに言うと、少佐はおかしそうに笑みを見せた。


 サンドイッチにぱくつきながら、それにしても、と私は彼を横目で見た。

 一見して、彼を軍人だと思う人はいないだろう。身長は高いが筋骨隆々というわけでもなく、軍の中では華奢な部類に入るはずだ。内勤が多いのか肌は白く、研磨された宝石のような緑の瞳と上品に整えられた黒髪は、無声映画に登場する王子様のようだった。

 それに、穏やかな話し方。戦争に勝利した自負があるからか、軍人は横柄な態度を取る者が多いと感じていたが、彼には全く居丈高なところがなかった。私のような小娘の話を疑いもせず丁寧に聞き、さらにはこんな美味しいサンドイッチまで分けてくれるなんて。

 おそらく彼は、それなりに地位のある軍人の家系に生まれたのだろう。どこか浮世離れした優雅な振る舞いは育ちの良さが滲み出たためで、この歳で少佐にまでなっているということも、私の推測を裏付けていると感じた。


「ああ、共通点といえば――」

「は、はい!」

 自分の思考に没頭していた私は、慌てて言った。

「今回の前段階ともいえる事例と、今日の事例。どちらも火曜日ですね」

「あ、確かにそうですね」

「もし人為的に引き起こされているなら、それにも意味があるのでしょうか……」

 例えば、火曜日に整備を担当した人間。あるいは、カイロンの診察をした医師。しかし内部の機器整備は複数人で行っているはずで、健康状態を調べるための血液の採取は厩舎の飼育員の仕事だ。もしカイロンが変調をきたすような細工をしたとしても、それを隠すには大がかりな買収か複数人の共謀が必要だろう。

「……まあ、それはこれから調べるしかありませんね」

 少佐はあっさりと言い、手早く帰り支度を始めた。

「遅くまでありがとうございました。またお会いすることがあれば、よろしくお願いいたします」

「カイロンの異変は空の安全にも関わりますし、もちろん協力させていただきます」

 私の言葉ににこりとすると、クロフォード少佐は優雅に軍服の裾をなびかせながら去っていった。


 ああ言われたが、おそらく軍人である彼と会うことはもうないだろう。あとは私のような素人が動かずとも、軍だけで調査が進み、原因が究明されるはず。私はそんな風に軽く考えていたのだが、翌週、ルイス室長の呼び出しを受けた私は、それが全くの見当違いであったと知った。


「事故原因の調査……私がですか?」

 思わず大きな声で聞き返した私に、室長はすまなそうに頷いた。

 彼の話では、先日のカイロンの異変について民間の側から調査してほしいという依頼が、軍からこちらに来たという。軍でももちろん調査をするが、警戒されにくい民間人にも協力を頼みたいということのようだ。

「先日の一件で、君が見事に対応してくれただろう。だから、あちらの担当者は是非君にと言っている。君も、カイロンの異変については自分から調べるくらい気にしていたから、私としても適役だと思うんだが」

「でも、私はただの管制官です。知識があるわけでもありませんし、とても……」

 カイロンの異変の原因はもちろん気になるが、どこかの大学の学者など、もっと適任がいるはずだ。


「しかも、ここからトゥーレの管制塔に異動になるなんて! 私はこのフェザント中央空港で働きたくて、管制官になったんです」

「いや、それは私もわかっているよ。君は優秀だし、できれば残ってもらいたい。しかし、軍からの要請を拒みづらいのも事実だ。このご時世、軍に非協力的だとレッテルを貼られれば、軍需産業と縁のある株主からも反感を買うだろうし……」

 弱り切った様子で、室長は言う。先の戦争を経て、この国は軍部が実権を握る体制が続いている。そのぶん軍需企業の羽振りは良いわけだが、確かにそこからそっぽを向かれては困るだろう。その辺りのことは、まあ理解できる。


「どうにか別の案を……あ! トゥーレの管制官に要請すれば、異動もないし警戒もされないのでは?」

「残念ながら、あちらには君のようにバリバリ働いてくれる管制官はいなくてね、皆のんびりしたいからあの島を希望しているんだよ。まあ代役を立てるというのは私も考えてはみたが、ソフィアでは心配だし、ユーキは優秀だが口下手で内情を探るのには向かない。そうなると、あとはイザベラしかいないが……」

「えっ、それは……」

 悲壮感を漂わせる室長に、私は動揺した。なぜなら、彼とイザベラは恋人同士だからだ。おそらく管制室の半分以上は知っている。イザベラは散々パイロットとのロマンスを夢見て夜な夜なパーティーで美貌を振りまいておきながら、結局十五以上年の離れた室長と付き合いだしたのだ。彼女の通った後には、涙に暮れるパイロットたちがいたという。しかし当の彼女は悪びれもせず、「灯台下暗しというのは、こういうことね」とあっさりしていた。


 その話だけを聞けば思うところは色々あるが、イザベラは私の大事な友人で、彼女とその恋人を自分の手で引き離すことはできそうになかった。

 私はせめてもの抵抗でこれ見よがしにため息をつくと、室長に言った。

「わかりました。そのお話、お引き受けします。ただし、うまくいく保証はできませんよ」

 私の言葉に、室長はぱっと悲壮感を消し去って満面の笑みを浮かべた。

「いやあ、そうかい? まあ案外、すぐに解決してまたすぐこちらに戻ってくるかもしれないな。悪いけど、よろしく頼むよ」

 全く悪くないと思っているくせに、どの口が言うのか。イザベラは男性の趣味が悪いと、心の中で悪態をつく。


「あ、そうだ。軍の方からも一名派遣すると聞いている。連携を取りながら、調査を進めてくれ」

「まともな相手なら良いですが」

 あれこれ命じられて軍の小間使いにされそうな気がする。ただでさえ憂鬱な仕事に、さらに憂鬱さが加わった。

「室長、私やっぱり――」

 私を遮るようにして、室長は陽気にまくし立てた。

「あちらの話じゃ四六時中調査で拘束されるわけでもなさそうだし、きっとそんなに大変じゃないさ。これも良い機会だと思って、故郷でのんびりしてくるといい」

「ええ……そうですね。最近は、帰っていませんでしたし」


 トゥーレ。その島が元の名を奪われる前、私はそこで家族と共に暮らしていた。

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