最果ての島の管制塔
小松雅
第1話 空を駆ける獣(1)
私の頭上を、大きな影が通り過ぎた。たくましい体が蒼穹を泳ぎ、羽ばたきの音が降り注ぐ。この王都で最も空に近い場所で、私は目の上に手をかざし、その光景を眺めていた。
“それ”は、獣であると同時に、私たちを運ぶ乗り物でもある。頑強な四本の脚で地上を駆け、四枚の羽を広げて天高く飛び上がる。私たち人間をすっぽり包む大きさの体を持ちながら、鳥よりも速い彼らに、空で敵う者はいない。悠々と舞う彼らからは、王者の風格が漂っていた。
「毎日、アナタもよく飽きないわね」
背後からの声に振り返った私は、逆光の中で呆れているであろう同僚に笑みを返した。
「だって、彼らは生き物だもの。一度として同じようには羽ばたかない。飽きるわけがないわ」
理解しがたい、というように、同僚のイザベラは肩をすくめた。
「ともかく、昼休みはあと五分で終了よ、アレッタ。午後からもフライトは詰まってるんだから、余裕を持って行動しましょ」
そうね、と返事をして、私はイザベラに続いて階段を降りた。面倒見の良い彼女は、呆れながらもこうして毎度私を呼びに来てくれる。おかげで遅刻したことは一度もなかった。
扉を開けて部屋に入ると、一気に喧噪が私を包んだ。仕事中の同僚たちがテーブルにつき、無線機のマイクに向かって声を発している。慌ただしくも活気のあるこの空気が、私は好きだ。
ここはジュノー王国、王都フェザントに位置するフェザント中央空港。私が先程見上げていた空飛ぶ獣、「カイロン」が日に数百頭行き交う、国内最大の空港だ。そして私は空港内の管制塔に勤務する、航空管制官。今年で任官四年目に入り、チームの主任を担っている。
三百六十度をぐるりと巡る窓から見えるのは、広大な五本の滑走路だ。見下ろすと、ちょうど一騎のカイロンが徐々に高度を下げながら着陸するところだった。衝撃の少ない、完璧なソフトランディング。そのまま誘導に従って、乗降口へと歩いて向かう。硬い殻に覆われた背中が開き、その中から乗客たちが出てきた。
カイロンは、獣であるため毛皮に覆われている。しかし、背中だけは昆虫の外殻と同じ成分の殻で構成されており、さらに殻の内側には空洞が広がっている。人間が乗っているのはその空洞部分で、大型のカイロンであれば十人ほどが乗り込める。この空洞が存在する理由については、現在のところ解明されてはいない。飛ぶために身体を軽くしているのではといわれていたが、そもそもなぜ鳥と全く異なる姿の彼らが飛ぶことができるのか、それすらわかっていないのだ。それに、空洞部分に人を乗せても飛べるのだから、その仮説は初めから躓いているともいえる。
「アレッタ、交代だ」
「ええ、お疲れさま、テッド」
私は彼から今日の飛行計画を記したファイルを受け取り、申し送りを受けた。といっても、ただ一言、異常なしという言葉を聞いただけだったが。
「それじゃあ、始めましょうか。午後もよろしくお願いします」
私はチームを組む三人と目を合わせ、業務開始を伝えた。彼らはそれぞれ、自分の席に向かう。
私はテッドが今まで座っていた席につき、目の前のテーブルにファイルを置いた。ヘッドセットを装着し、電源を入れる。ジジ、という雑音が小さく聞こえた。
予定された出発の五分前に、パイロットからの通信が入った。
――フェザント・デリバリー、こちらHAL021便、スポット12に待機中。
「HAL021便、パロット空港への飛行を承認します。離陸後、出発経路はSEAGULLワンデパーチャー、その後はフライトプランに従い飛行し、フライトレベル60を維持してください。トランスポンダのスコークナンバーは471です」
パイロットが復唱し、飛行の承認が完了する。私の仕事はここまでで、少し離れた場所に座る地上管制席の管制官にバトンタッチした。この後HAL021便は滑走路に向かい、さらに別の管制官によって離陸許可が出されるはずだ。
「HAL021便、良いフライトを」
少し経って、同僚の一人がにこやかに告げるのが聞こえた。今日は視界良好で、風もほとんどない。絶好の空旅になるだろう。
美しく宙を舞う獣、「カイロン」が私たちの交通手段となるまでは、陸路と海路を行くしかなかった。陸路ならば馬車と鉄道、海路ならば蒸気船。当然、空路が最も早い。まだ利用は政府関係者や一部の富裕層に限られているが、今後は大型のカイロンを多数導入することで単価が下がり、一般層へと拡大していくだろう。
憧れのまなざしでカイロンを見上げていた子供たちが、そのカイロンと共に空の散歩を楽しむ日も、きっとそう遠くはない。来るその日まで、そしてその先も、管制官として空の安全を守ること。それが私たちの仕事だ。定刻に飛び立ち上昇していくHAL021便を眺めながら、私も心の中で、良いフライトを、と呼びかけた。
「先輩、ちょっといいですか?」
後輩のソフィアが青い顔で私の席にやって来たのは、太陽の沈みつつある午後五時過ぎだった。彼女は心配性でしょっちゅう不安そうにしているので、これも日常の光景の一つである。
「どうしたの、ソフィ? フライトプランにお茶でも零した?」
以前、コーヒーを零して文字が読めなくなり大騒ぎしていたことを思い出して私は言ったが、彼女は違いますようと可愛らしく口を尖らせた。
「十五分後に到着予定の貨物騎からの連絡がまだなんです。クレイン航空交通管制部からフェザント航空交通管制部への移管は定刻で行われていて、異常はなかったようなんですが……」
カイロンのフライトの管制は、大雑把に分けて三か所の施設の管制官が行っている。出発する空港、飛び立ってから着陸するまでの空路をレーダー監視する航空交通管制部、そして到着する空港だ。航空交通管制部は空港とは別に国内で五か所存在し、それぞれ空域を定めて管制業務を分担している。
今回の場合、空域をまたいでいるため二か所の交通管制部がリレーして管制を行っていたはずだ。グロスビーク空港を飛び立ち、クレインの管制部、フェザントの管制部を経て、ここフェザント中央空港でソフィの誘導を受けて着陸するという流れになる。
「フェザント交通管制部の管制官は、パイロットと交信したの?」
「はい、電話して確認しました。通常通りこっちとの交信を指示して、通信を切ったそうです。その時は、パイロットの様子もおかしなところはなかったと」
「そう……」
天候の関係で到着が予定より遅れることは間々ある。しかし今日は快晴で、特に注意すべき気象条件ではなかったはずだ。それ以外に考えられるとすれば、カイロンが突然体調不良に陥り、かつパイロットも連絡を取れないという可能性だが……。
「まさか、墜落……」
ソフィアがいよいよ蒼白になって、決定的な言葉を口にした。
「まだ決めつけるのは早いわ。交通管制部に連絡してレーダーでの追跡を――」
その時、イザベラの悲鳴が聞こえた。振り返ると、数人が窓の外を見て愕然としていた。彼らの視線の先には、一騎のカイロンの姿があった。
「何が起きているの……?」
そのカイロンは、何かに憑りつかれたかのように頭を振り、暴れていた。声は聞こえないが、時折口を大きく開け吠えている。おそらくあれが、ソフィアが誘導を行うはずだった貨物騎だ。
「ソフィ、パイロットに状況を確認して!」
私はソフィアに交信を試みるように言ったが、彼女に私の声は届いていないようだった。震えながら、ただカイロンを見つめているだけだ。私は彼女の席に座り、無線機の周波数を合わせた。
「こちらフェザント・アプローチ。MAS331便、応答してください」
一度目は反応がなかったが、繰り返すと上擦った声が返ってきた。
――こちらMAS331、緊急事態です! カイロンが突然おかしく……うわあ!
窓の向こうでは、カイロンが大きく旋回していた。中のパイロットにも衝撃があったのだろう。
「MAS331便、カイロンのバイタルサインはどうなっていますか? 数値を教えてください」
操縦席には、常にカイロンの状態を確認できるようモニターが設置されている。電気系統に異常がなければ見られるはずだ。
パイロットは数秒間の後、心拍数、体温、血圧の数値を告げた。どれも正常値の上限を超えている。カイロンは興奮状態にあるようだ。私はマニュアルに従い、パイロットに言った。
「MAS331便、鎮静剤の使用を許可します。速やかに準備し、カイロンへの注入を――」
――すみません、実は機体が揺れた際に鎮静剤のアンプルを落としてしまい、中身が……。
思わず天を仰ぎそうになったが、暴れているカイロンが目に入るだけだと気づき、ファイルに目を落とした。
あと十分もすれば、旅客用カイロンが五分おきに続々と到着する。もしカイロン同士が衝突したら、中の人間もただではすまない。どうにか、あの暴れているカイロンを空港上空から移動させなければ。
「……アレッタ、諦めましょう。麻酔銃を撃ち込むしかないわ」
「でもイザベラ、そんなことをすればパイロットが!」
わかっていると、イザベラは苦い顔で頷いた。
彼女が言っているのは、外からカイロンに向けて麻酔銃を撃ち、無力化させるという方法だ。翼の一枚だけでも麻痺すれば、カイロンは浮力を失って地上へと落下する。そうすれば、後から来る旅客用カイロンは問題なく着陸できるだろう。しかし、貨物騎のカイロンに乗るパイロットは、一緒に落下することになる。あの高さから落下して、無事である保証はない。
私はたった一つの望みにかけて、パイロットに呼びかけた。
「MAS331便、射出は可能ですか?」
――いえ、残念ながら無理です。キャノピーは開きますが、背の外殻が動きません。
カイロンはパイロットの視界を確保するため、背の外殻の一部をガラスに換えてある。その部分はキャノピーと呼び、パイロットの操作で開閉できるようになっていた。緊急脱出の際は、キャノピーと外殻の両方が開き、パイロットがパラシュート付きで飛び出すはずだが、どうやらそのシステムが動かないらしい。カイロンが制御を外れている時点で予想していたが、それが現実になるとショックは隠せなかった。打つ手が消えたという絶望感で、目の前が暗くなる。
「とにかく、ルイス室長を呼んでくるわ」
イザベラはそう言って、管制室を出て行った。
私にできることは、もうないのだろうか。不安にさざめく同僚たちの声を聞きながら、唇を噛む。
「先輩、私……あの、これって、私のせいじゃないですよね?」
ソフィアの言葉に、かっと血が上った。声を荒げようとしたが、その前に近くで電話が鳴り始めた。外線のベルの音だ。
のんきに電話に出ている場合ではない。無視しようと思ったが、なかなか鳴り止まなかった。こんな時に、とイラつきながら、私は受話器を取った。
「すみません、今取り込み中なので――」
「ええ、そうでしょうね。こちらからも見えていますから」
受話器から聞こえたのは、凛とした、しかしどこか温かみのある男性の声だった。私が虚を突かれた隙に、電話の声は続けた。
「こちらはジュノー王国軍航空部隊、航空管制部のクロフォード少佐です」
軍の航空部隊。私は東側の窓から、双子のように並ぶもう一つの塔を見やった。空港の隣には軍の基地があり、そちらも軍事用カイロンを運用している。こちらのフライトプランは毎日軍への提出が義務付けられており、今日も情報は行っているはずだ。反対にあちらのプランは、機密情報なので私たちが知らされることはないが。
「カイロンの暴走による制御不能のように見えますが、現在の状況はどうなっていますか?」
私は彼の言う通りカイロンが制御不能に陥り、パイロットの脱出も困難であることを伝えた。
「わかりました。緊急事態のようですから、連携して対処しましょう。あなたのお名前は?」
「あ、ええと……アレッタ・エヴァンスです」
「ではミズ・エヴァンス、まずはこれから離陸予定の全騎の離陸を一旦中止してください」
現在、離陸許可を出している便はない。私は先ほどまで自分がいた席を振り返り、チームの後輩であるユーキに今後全ての離陸の承認を中止するよう指示した。彼は無口だが常に落ち着いているので、任せても大丈夫だろう。私は受話器を握りしめ、離陸に関しては問題ないと告げた。
「ありがとうございます。次に、三十分以内に到着予定の三便ですね。これらは定刻通りに到着予定ですか?」
「はい、平常通りに運航しています」
やはり、彼はきちんとフライトプランを手元に置いて連絡をしてきたようだ。
「暴走状態のカイロンがどう動くかわからない以上、この空港に着陸することは避けた方が良いですね。第二基地の滑走路を開放しますので、そちらに着陸させましょう。着陸までの管制業務は第二基地の管制官が請け負います。三便に対し、STORKアライバル通過後に第二基地と交信するよう指示してください。周波数は124.5MHzです」
私は手元にあった紙とペンを手繰り寄せ、必死にメモを取った。
「別の空港への着陸指示を出すのか?」
「ルイス室長!」
いつの間にか、管制室の長、ハリー・ルイス氏がイザベラを伴って背後に立っていた。私はメモを手に、軍からの提案を伝えた。
「うん、そこまで整っていれば問題ない。直ちに三便と交信し、変更を指示してくれ」
「私も手伝うわ!」
一便をイザベラに頼み、私は到着予定の二便に通信を試みた。幸い、どちらもベテランのパイロットが騎乗しており、大きな混乱なく了承された。
「クロフォード少佐、三便への指示は完了しました。これ以降の到着便についてはどうしましょう?」
「予定通りで構いませんよ。遅くとも二十分以内には、事態を収束させます。既に、緊急発進の要請は済んでいます」
緊急発進を要請したのは、軍が有する軍事用カイロンだろう。有事に備え、機銃を積んでいると聞いている。暴走するカイロンを止めるため、発砲するのだろうか。
それでは麻酔銃と変わらない。いや、直接攻撃するのだから、より強硬な手段だ。
「少佐、暴走騎のパイロットは……」
「ああ、そうでした。多少の衝撃はあるでしょうから、しっかりとシートベルトを締めておくように伝えていただけますか?」
「え? 撃ち落とすつもりではないんですか?」
「――まあ、見ていてください。うちのパイロットは優秀ですから」
私は半信半疑ながら、言われた通りパイロットと交信した。
「MAS331便、シートベルトは締めていますか?」
通信は切れていないはずだが、応答がなかった。極限状態で気を失ったのだろうか。しかし耳を澄ませると、すすり泣きのようなものは聞こえた。
「MAS331便……ノア・フランクリン! 聞こえる? 返事はいいから、今すぐシートベルトを! せっかく助かっても怪我をしたらつまらないわよ!」
――……そんな嘘はいいですよ、もう駄目なのはわかってますから……。
弱弱しいが、きちんと返事はあった。遺書を書いていたんです、と情けない声でノアは言う。
「今、軍のカイロンがそちらに向かっているわ。シートベルトは軍の管制官からの指示よ。軍人がつまらない嘘なんてつくと思う?」
――……わかりました。
金属音がカチャカチャと聞こえた。どうやら、言われた通りシートベルトを締めたようだ。
「ありがとう。あと少しの辛抱よ」
軍がどんな方法をとるのか私には想像もつかなかったが、クロフォード少佐と名乗った人物の喋り方には自信がうかがえた。あとはもう、祈るしかない。
それから数分後、窓に張りついて暴走するカイロンを見ていた管制官たちが、何やら驚きの声を上げていた。私も立ち上がり、そちらを見る。
航空基地の滑走路を連なって駆ける二騎のカイロンが、飛び立つところだった。通常カイロンは、飛翔で生じる風の影響を受けないよう、十分離して離陸をする。しかしその二騎はまるで見えない糸で繋がっているかのように自然に、少しの乱れもなく羽ばたいていた。
先頭の一騎は暴走するカイロンの左に、後続の一騎は右に回る。次の瞬間、左側の一騎から窓ごしでも聞こえる発砲音と共に放たれたのは、魚獲りに使うような巨大な網だった。
網は暴走するカイロンを包み、その一端を右の一騎がしっかりと咥える。網にかかったカイロンは急におとなしくなり、ぐったりとしていた。どの時点かは見えなかったが、麻酔弾を撃ち込んだのだろう。カイロンを吊り下げたまま、二騎はぐるぐると旋回しながら徐々に高度を下げていく。
やがて二騎のカイロンは吊り下げた網をそっと滑走路に下ろし、自らも地上に降り立った。それぞれのカイロンから外に出たパイロットが、網にかかったカイロンに駆け寄る。外側からこじ開けるようにして背の外殻を開けると、キャノピーも開いた。
「良かった、無事だわ!」
イザベラが叫ぶ。MAS331便のパイロット、ノア・フランクリンは意識があり、自力で立ち上がった。近くには既に車両が待機していて、彼はそれに乗り込んでいた。
誰かが快哉を叫び、管制室は弾けたように歓喜に包まれた。拍手が起こり、私を称えるように管制官たちが笑顔でこちらを見ている。
しかし私はそれに応える余裕もなく、力が抜けてテーブルに突っ伏した。
「ああ、緊張して死ぬかと思った……」
「本当ですか? 最後のパイロットへの活なんて、歴戦の軍人のようでしたが」
私ははっと顔を上げる。どうやら、今の呟きは電話を通してクロフォード少佐に聞こえてしまったようだ。おかしそうに笑う声が聞こえてきて、私は赤面した。
「お疲れさまでした、ミズ・エヴァンス。電話を取ってくださったのが、あなたで良かったです」
「いえ、私は指示に従っただけで……。本当に、助かりました」
彼からの電話を取っていなかったらと想像すると、ぞっとした。
「では、私はこれで。これからも空の安全のため、ご尽力を期待しています」
どこまでも穏やかな声を最後に、電話は切られた。私は受話器をそっと掛けて、息を吐く。ようやく、危機を乗り切った実感がじわじわと湧き上がっていた。
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