第16話 其は風を呼ぶ者

「──ント! ──ウェント! ウェント、いい加減に起きなさい!」

「──っ!」

 耳元でシルフィの声が聞こえ、俺はその場から跳ね起きた。その拍子にごつん、と頭をしたたかに打ち付けた

「いってぇ……」

「……目、覚めた?」

「あぁ……」

 泣き腫らした真っ赤な瞳で、シルフィが俺の顔をのぞき込む。きっと俺の顔も似たようなものなんだろうなと思いながら、俺は小さく答えた。

 あたりを見渡して、かなり狭い場所にいることを把握する。

「たしか……木の洞を見つけて、そこに隠れたんだよな……」

「それで、泣き疲れて眠っていたってわけ……アンタも、アタシもね」

「…………そう、か」

 のそのそと這いずり、俺は木の洞から顔を出す。

 ぼやけた視界に広がる空は茜色に染まっていた。師匠がすべて終わると言っていた、夕刻だ。

「終わった……のかな」

 ひどく掠れた声が漏れた。

 自分を抱きしめてくれていた師匠の顔を思い出し、再び涙が込み上げそうになったが、必死にこらえて立ち上がる。

「……行かなきゃ」

「……大丈夫?」

「…………行くよ」

 答えになっていない答えを返して、俺は師匠の住処に向け歩き始めた。


 本当は、心の奥底で期待していた。

 本当は師匠には隠された力があって、それでバーミニアを完璧にうち倒して、また元の様な日々が戻ってくるのだと。

「……ぁ」

 ──そんなかすかな希望は、目の前の光景に粉々に打ち砕かれた。

 激戦を思わせる焦げ跡が、至る所にあった。乾いた血痕が茂みに付着していた。けれど、誰の亡骸もそこにはなかった。レフの姿もなかった。

 アローサル師匠のよく知ったマナも、バーミニアの禍々しいマナも、感じなかった。

 あるのは、半分以上が焼け焦げ見るも無残な姿になった師匠の住処だけだった。

 バーミニアは確かに倒したのだろう。魔物は生命活動を停止すると、その体を灰に変える。

 でも、勝者のはずのアローサル師匠がこの場にいないことは──彼もまた、もうこの世にはいないということの、無慈悲な証拠だった。


「あっ……ぐっ……あぁ……」

 膝から崩れ落ち、土を握りしめる。痛みを伴った嗚咽が、無力な俺の口をついてとめどなくあふれてくる。

「おれの……せいだ……おれの、せいだ……! おれが、おれが……おれが、師匠をころしたんだ……!」

「…………」

 シルフィが、その小さな体で俺の頬に寄り添う。つつくことも、つねることもせず、ただただ触れるように、撫でるように。

 今更のように、一つの風が吹いた。この森で過ごした思い出を、師匠との日々を、どこかに持ち去ってしまうかのように。

「──っ、うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────ッッッ!!」

 頭を抱え、地べたにはいつくばって──俺は森中に響き渡るような絶叫をあげた。


 ──……そうして、どれほどうずくまっていただろうか。

 荒い呼吸を繰り返しながら、俺は目元をぬぐい、その場に座り込んだ。

 俺の正面に回り込んだシルフィが、気遣うように口を開く。

「……ウェント、後悔にとらわれてはだめよ。アローサルの死は確かに悲しいけど……アンタには、まだ先があるんだから」

「…………ぁあ」

「アローサルに救ってもらった命、今度こそ大事にしなさいよ」

「……そうだな」

「とりあえず、今日は帰りましょ? 夕飯を食べて、あったかいお風呂で汗を流して、ふかふかのベッドでたっぷり眠りましょう? 明日からのことは、また明日考えればいいわ」

「──いや、まだやることがある」

「ふぇ?」

 シルフィが、変な声をあげて首を傾げた。


「シルフィ。俺と──契約を結んでくれ」


 ザァ……とそよ風が駆け抜けた。

 シルフィは最初ぽかん、と口を開けていて、そのあと俺が何を言ったのか吟味するためにうんうん唸って──

「──ば、ばっかじゃないの!?」

 目をむいて怒鳴った。


「ああああああ、アンタ、アタシの話聞いてた!? 命を大事にしようって言ったのに、なんで命にかかわる契約をしようって話になんのよ!?」

「変わりたいんだ」

「っ──!?」

 俺はまっすぐにシルフィを見つめ、シルフィもまっすぐに俺を見返す。

「これまでの、弱くて考えなしで存在価値の無い俺をぶっ殺して、師匠みたいな魔法使いになるために──今日、今、この瞬間に、変わりたいんだ」

 弱さを知った。業を背負った。別離に嘆いた。

 この日自分が犯した罪を絶対に忘れないように──この体に、精霊を刻む。

「絶対に失敗しない。命を無駄にするようなことはしない。だからシルフィ──頼む」

「うぐっ……」

 頭を下げると、頭上でシルフィが食べ物をのどに詰まらせたような声を出す。

 しばらくして──

「……あぁもうっ! わかったわよ! 契約するわよ!」

 根負けしたシルフィがやけくそ気味に喚いた。

「………………ありがとう」

「絶対に成功させるわよ。アタシも全力でサポートする」

「心強いな」

「そうでもしないと、アンタが木っ端みじんになっちゃうからね! まったくもう……利き手、出して」

 ぶつくさぼやくシルフィに言われるがまま右手を出すと、精霊女王はその小さな手を俺の手のひらに合わせた。

 ふわりと、シルフィの体から風がこぼれる。


「……貴方の名前は?」

「……いや、知っているだろ?」

 俺が首をかしげると、シルフィからジト目を向けられた。

「契約に必要な工程なの! ほら、貴方の真名は!?」

「……ウェント・オールビィ」

「真名の意味は?」

「ウェントは、古アンドレイア王国語で『風』……オールビィは、『軌跡』」

「出自と役職は?」

「アンドレイア王国、東の街プルトス……オールビィ騎士侯爵家の長男」

「誕生月は?」

「枯木の月」

「年齢は?」

「十一歳」

「性別は?」

「男……なあ、これって本当に必要なことなのか? 記憶喪失のお前が言うと凄い胡散臭いんだが……」

「──黙りなさい」

「──っ!?」

 シルフィから、シルフィとは思えない厳かな声が聞こえ、俺は無意識に背筋を伸ばした。

「契約に必要な情報は出そろいました。ウェント・オールビィ……これより、契約の議を始めます」

 シルフィの体はいつの間にか翡翠色の輝きに包まれていた。

(視認ができるほどの、莫大なマナの奔流……!)

 精霊女王の力の一端を垣間見て、寒気が全身を駆け巡る。

 だが、その情けない生理反応を、俺は歯を食いしばって押さえつけた。

(これぐらいでビビッていたら、弱いままだ……!)

 俺が改めて覚悟を決めると同時に、すさまじい風が渦を巻いて俺とシルフィの周囲を支配する。

「我が真名、アネモスシルフィード・ヴァシリサ・ネフトオルニスの名に於いて──汝、ウェント・オールビィとここに契りを約す」

 瞬間。

「ッッッッッ~~~!?」

 全身に何か得体のしれないものが駆け回り、その痛みが脳髄を焼いた。

 いや、俺はこの感覚を知っている。これはマナだ。シルフィのマナが俺の体を駆け巡っているんだ。


「が、はッ!?」

 訳も分からず吐血する。口の中に鉄の味が充満する。

「耐えて、ウェント……!」

「しる、ふぃ……!」

 いつの間にか元の口調に戻ったシルフィの声を聴いて、息も絶え絶えになりながら、それでも崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえる。

 けれど、全身がはりさけそうな激痛が、脳漿を沸騰させるかのような高熱が我が物顔で俺の体を蹂躙している。

(これが、これが精霊女王の──神代の力……!)

 あまりにも絶大な力だ。たった一人の人間の手に収まるものじゃない。

 抑えていた恐怖が、とじていた蓋を持ち上げて再び俺の精神を支配しようとする。

「まけ、るか……ッ、おれ、は……かわ、るん、だっ……」

 堪える。堪える。堪える。堪えるだけで、精一杯だ。目がちかちかする。手先の感覚がなくなる。足元がおぼつかない。自分がわからなくなる。これいじょうなにもできない。

 なにをしたらいいかわからない。

「ダメ、ウェント……! マナの流れから目を背けないで! アローサルの言葉を思い出して!」

 そのシルフィの言葉は──アローサル師匠の顔を思い出させた。

 ──大いなる力を手に入れるからには、それを御する物が無ければ話にならん

 そうだ、ちしき──知識だ。思い出せ。何度も教わったマナのことを。魔法の成り立ちを。

 アローサル師匠は、この契約のために、俺に色々なことを教えてくれたのだから。

 マナは世界のあらゆる自然に存在する。

 土、草、花、木、川、海、岩、炎、動物、そして風。

 そして自然の住人である俺達人間にも。

 自分のマナは──左胸の奥底、心臓に感じる。シルフィのマナと比べたらあまりにもちっぽけだけど、確かにそこにある。


 魔法を使うには、自然界にあるマナを変化させて、魔法式を構築しなければならない。

 だから、俺はシルフィのこの暴力的なマナを少しずつ少しずつ変化させるのだ。毒を薄めて薬にするように。

 そうすることで、いままで体中を襲っていた痛みが和らいだ。


 だが、まだまだ自分の物にはできていない。

 精霊との契約は、厳密には魔法とは違うけど……そうだとしても、魔法の要領でイメージするしかない。

 右手に、力を集める感覚だ。魔法を発射するには自分が普段使う手──すなわち利き手が最適。だから、想像しろ。俺の右手に、精霊の力が宿ることを──!

 全身の痛みが、脳の熱が、右手に集約される。凝縮されたエネルギーは、これまでとは比にならないぐらいに、重い。


 けれど、だいぶ掴めてきた。シルフィの力の全貌。もう少しで──

「っ──?」

 ぐわん、と視界が揺れる。

「ウェント!」

 シルフィの慌てたような声が聞こえるが、自分に何が起こったのかわからない。

「こほっ……」

 血が、再び口から流れる。視界が赤く染まる。感覚的に、鼻血も出ている。

「体に限界が──ウェント……っかり……ント──!」

 すぐ近くにいるはずのシルフィの声が、段々と遠ざかっていく。

 あと少しなのに……あと少しで、変われるのに……。

 ここまで、なのか──?

「──しっかりしなさい!! そんなんじゃ、いつまでたってもアローサルに顔向けできないわよッッ!!」

「──っ!」

 右手に、マナではなく、シルフィの体温を感じた。眼球をわずかに動かすと、シルフィが俺の指にしがみついて泣き叫んでいた。


 信じてくれている。

 あんなにも無様に失って敗走した俺のことを、シルフィはまだ信じてくれている。

 そして、俺のことを信じてくれたのは、シルフィだけじゃなくて──


 ──ウェント・オールビィという若き才能と出会えたことを、ワシは心から幸せに思っておるよ


 偉大な魔法使いは、最後まで俺を恨まず、幸せだったと言ってくれた。

 俺が、まっすぐに進めると信じてくれた。

 だから、俺は……俺は……!

「こんなところで、終われるかぁあああああああああああああッッッッッ!!」

 左手で顔面の血をぬぐい、再び意識を右手に集中させる。

 シルフィが手をつないでくれている。師匠が背中を支えてくれている。

 それだけで、俺はどんな困難も乗り越えられる。

「シルフィ! お前の力……俺の目標のために貸してもらうぞ!」

「……ええ、全部持っていきなさい!! アタシが、アローサルの代わりにアンタの覇道を見届けてあげるッ!」

 俺の言葉にシルフィが答え──眩い翡翠色の極光が俺の視界を塗りつぶした。

 マナの膨大な輝きはやがて俺の右手の甲に収束していき……そこに、四枚の鳥の翼の様な紋章が浮かび上がった。


 同時に周囲を覆っていた竜巻が跡形もなく消え、何事もなかったかのように森に静寂が訪れた。

 シルフィが、憔悴しきった顔で、俺に笑いかける。

「……契約、かんりょう……今日から晴れて、アンタは『精霊使い』よ」

「……っはは……」

 ふわふわした感覚のまま、俺は右手を掲げた。満点の星空の中に、翡翠石が輝いた。

「やった……」

 ふいに力が抜け、背中から地面に倒れこむ。

「ちょっと、ウェント! 大丈夫!?」

「あぁー……血を流しすぎて貧血気味かも……」

「ちょ、ちょっと待ってなさいよ! 今から魔獣の血を絞ってくるから!」

「まさかそれを俺に飲めってか……」

 慌てるシルフィにあきれて答える。


「そんなことしなくても、師匠が使っていた回血薬が住処にあるはずだ。ちょっととってきくれないか」

「はいはい……って、だいぶ暴れたわねぇ……結構距離が空いちゃったわ」

「……?」

 シルフィが意味の分からないことを言うので上体だけ起こして周囲を見渡し……俺はあんぐりと口を開けた。

「……えっ、これって契約の時にできたもの、なのか……?」

「そうよ。マナを制御する過程でね」

「……とんでもねえな」

 乾いた笑い声をあげるしかない。

 目の前には、えぐれた地面だけがあった。鬱蒼と生い茂っていた木々が無数に倒れ、草葉にいたっては影も形もない。


 そこだけ、巨大な蛇が這ったかのような『道』ができていた。その奥には師匠の元住処がかろうじて見える。

「未熟なアンタにしてはかなーり頑張っていたけど、それでも風のマナアネモスがだいぶ暴れちゃったのよ。街に届かなくてよかったけど」

「ああ、そうだな。街に…………」

 そこまで口にして、俺は嫌なことに気づいてしまった。

「シルフィ。契約の時にうまれた竜巻ってさ、この森のどの木よりも高かったか?」

「まあ、アタシの力だし? それぐらいよゆうで越してるわね」

「あぁ……ってことは、街からみえてるってことか……」

「えっ。あっ……」

 俺とシルフィが顔を青ざめさせていると──背後から、大量の足音が聞こえてきた。

「──ウェント!? おまえ、ここで何を……!」

 俺の名前を呼ぶのは、俺が知る中で最も厳格で立派な騎士のものだった。

 父のフォーメズが驚愕に目を見開いて、俺を見下ろしていた。

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