第2話 精霊女王

 長い記憶の旅路を終え、俺は現実へと意識を戻した。

 場所は校舎裏の大きなイチョウの木の枝上。退屈な授業はとっくに終了し、すでに放課後だ。

 学舎の向こうからは訓練に励む戦士志望者の声が響き、さらに遠くからは楽器隊の演奏が聞こえる。

 空は夕暮れ。一陣の風。針のムシロみたいな教室から解放されて、今の気分は晴れやかだ。

「今日はどうするかな……久しぶりに森に行くか……?」

「森に行くなら、今は栗が美味しいわよ! 採るわよね!?」

「いや、それよりも高等学校の入学試験が近いから、いろいろ魔法の練習をしたいんだけど」

「ウェントならそんな試験ラクショーよ! だから栗と、柿を採りに行くわよ!」

「おい、獲物が増えてるじゃねえか……わかった、魔法の修練が終わったらいくつか採ってやるから」

「さっすがウェント! 話が分かるわね!」

 びゅん、と目の前に小さな生き物が現れる。

 金の混ざった翡翠の髪。瞳も同色。ミニマムで起伏の乏しい体には露出の激しい黄緑の服をまとっている。

 大きさは俺の手のひらサイズ。背中からは淡い緑の輝きを灯した透明な四枚の翅。

 今の会話の話し相手で、世界一の喧しさを誇り、八年前からずっと隣にいてくれる、俺の相棒だ。

「──シルフィ、ちょっと太ったんじゃないか? やっぱ果物はやめとこうぜ」

「はぁ~~~~~~? 精霊のアタシが太るわけないでしょ! っていうかデリカシーないの!? レディに向かってそれは禁句でしょ!」

 デシ、デシ、とシルフィが俺の頬にパンチする。指で突かれているみたいで、普通にウザい。

「悪かった悪かった。それじゃあさっさと森に行くか。日の入りもすっかり早くなったしな」

「あんまり反省の色が見られないんだけど?」

「キノセイダヨー」

 ズビシッ、ともう一度頬をつつかれながら、俺はイチョウの木から飛び降りる。風のマナアネモスを操りふわりと音もなく着地。だいぶサマになったんじゃないか?

「……しっかし、日を追うごとにわがままになっていってないか、お前? 威厳もへったくれもないな」

「威張り散らしてこその女王でしょ。ウェントもすっかり擦れちゃったわよね」

 定位置である俺の蒼黒髪の上にすとんと収まり、シルフィがため息をつく。

「うるせえ。大人になったんだよ」

 などといいつつ、学校の正門を目指しながら俺は歩き出す。

 この騒がしい小さな精霊こそが、あの弱っていた不思議鳥なんだよなぁ……と感慨にふけりながら。


 シルフィと俺の邂逅は──厳密に言えば、森の中で出会った時なのだろうけど──互いにあいさつを交わしたのは、アローサル師匠の住み家についた後だった。

「ここ……?」

「おお、そうじゃ。驚いたか?」

「うん、だって……樹じゃん」

「はっはっは! 背景に溶け込んでいるのがこだわりポイントじゃな!」

 アローサルはそんなことを言って笑うが、当時の俺には奇人にしか映らなかった。

 天にまで届くんじゃないかと思わせる強大な樹。その根元に地味で小さな木製の扉が埋まっていた。人というより、森の動物が棲んでいるかのような場所だった。

「まあまあ、早く中に入ろう。きっと驚くぞ?」

「……はあい」

 不審に思いつつも、アローサルの後に続いた。

「──『開けポルタ』」

 アローサルの小さな言葉とともに、木製の扉がギィ……と鳴いて開いた。

「……!?」

 俺は驚愕で言葉を失った。

 アローサルはドアノブに手をかけていないし、扉の向こうにも人はいない。

 本当に、ドアが自動で開いたのだ。

「これも、魔法……?」

「本当は、立っただけで開いてくれれば楽なんじゃがの。魔法言語認識だと割と離れていても、声が聞こえれば開いてくれるから便利じゃ」

 こともなげに語るアローサルを見て、先ほどまでの疑念があっという間に吹き飛ばされた俺は、顔を輝かせた。

 この人は、すごい。次から次に自分の知らない世界を見せてくれる。


「ほれ、ぼーっと突っ立ってないで、ついてこんかい」

「う、うん!」

 すたすたと進むアローサルに慌ててついていくと、そこは真っ暗闇の中だった。

「……あの、」

 ライトはつけないの? と聞きかけた俺の瞳が、再び幻想的な光景を映し出した。

 ぽ、ぽ、ぽ、ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ……と、花が開くように光が生まれていった。それらの光はあっという間に大きくなり、『住み家』の全容を照らし出した。

 光の正体は、壁に取り付けられたランプだったようだ。来客を歓迎するようにオレンジ色の温かい光が煌々と輝いている。


 天井からはキノコを逆さまにしたような、楕円形の巨大なランプが釣り下がっている。

 ランプのないところには、背の高い棚、棚、棚……そのどれもが大量の本で一杯になっている。

 それでも入りきらない本の山が銅メッキの円卓にうずたかく積まれ、パラパラ……とかってにページが動いている。

 その先にあるのは整頓されたガラス瓶の森だ。中には青やら赤やら黄色の液体が入っていて、なんだか少し不気味だった。

 樹の中だというのに、劇場ぐらいの大きさを誇るその部屋の奥には、真っ白なフクロウがケージの中で睡眠中。

 アローサルが驚く俺を置いて部屋の中に歩を進めると、丸まっていたカーペットがスルスルと伸びていき奥のダイニングテーブルの足元にまで届く。


 どこからともなくやってきたバケツがアローサルに水をぶっかけ、ラッパのようなものがビュゴォオオオオと風を当てた。最後にタオルがゴシゴシと老人の体を拭く。

「これはもう少し調整が必要じゃな」

 びしょびしょになったはずのアローサルはむしろシャワー後のように綺麗になっていて、思案顔でバケツをつつく。

「そこの小僧にも。……優しくな」

「わぱぁ!?」

 アローサルの指示に従った洗面用具達が、先ほどと同じように俺を濡らし、乾かし、拭う。

 ブルブルと犬のように体を震わせると、視界に複数の小人が入った。

 髪色がそれぞれ違い、虹のようにカラフルでクレヨンみたいな小人達だった。


「オキャク? オキャク?」

「アノ、あろーさるニ?」

「アッ、コッチミタ」

「「「ニゲロー!」」」


 小人達は俺と目が合うと、一目散に逃げだした。驚異的な速度だった。

 呆けてそれを見つめていた俺の後ろから、アローサルが笑いながら言う。

「『見えない見習いニヒル・セルウィトル』という妖精の一種じゃ。昔保護してやった者達で、『見えない』という割にはドジでよく人の前に姿を現すんじゃよ……お前さんのような子供が珍しかったんじゃろう」

「俺も、小人は初めて見たよ」

「よく働く、いい奴らじゃよ。恐らくクッキーを持ってきてくれる。さあほら、向こうのテーブルに座りなさい」

 アローサルが俺に道を譲ってくれたので、恐る恐る歩を進める。

 本棚の谷を越え、ガラス瓶の林の向こう、カーペットの道の終着点。

 一人どころか、二人で座るのにも大きい円卓。精緻な細工が施された椅子が勝手に座るスペースを作ってくれたので、素直にその椅子の上に座った。


 大人用の椅子では、到底子供の足は届かない。家主が室内でごそごそ物色している間、俺は両足をブラブラと揺らした。

「──珍しい。アルが客人を連れてくるなんて」

「っ!?」

 突如聞こえた聞き覚えのない声に、俺はばっと顔を上げてあたりを見回した。

 だが、近くに人はいなかった。アローサルの声ではなかったし、先ほどの小人達ニヒル・セルウィトルが出したような甲高い声でもなかった。もっと低くて、威厳があるような──

「こっちだよ、こっち」

 声のするほうを向いても、誰もいなかった。

 いや、一人……というより、一羽だけ。

 鳥籠の中にいる白フクロウと目が合った。

「やあ、ようやく目が合ったね。おはよう……いや、この時間はこんにちは、かな」

「…………フクロウが、喋った」

「そりゃあ喋るさ。私はアルの使い魔だからね」

 茶色い嘴を開閉させ、フクロウが俺に言う。

「坊や、名前は?」

「……ウェント・オールビィ……」

「いい名前だね。ウェント、私はレフコクリソス。長くてかったるいだろう? レフ、とでも呼んでくれ」

「かったるいとは失礼な。神代言語で『白金』を意味する名だというのに」

 レフコクリソス……レフが名乗ったところで、少し不満顔のアローサルがやってきた。腕には小さな赤いクッションを抱え、その上で不思議鳥が眠っていた。

 レフがその鳥を見て、瞳を細めた。

「……アル、それはまたきっかいなものを拾ったね。マナの量と質が尋常じゃない」

「拾ったのはそこのウェントじゃ。ワシは成り行きで保護をしただけじゃな」

「ふぅん……」

 ぐりんとレフの首が回り、俺の顔を凝視する。

「彼からは特段、強力なものを感じないな。というか、彼は魔法使いなのかい? それにしては随分とマナの操作がお粗末だが」

「ウェントは騎士の家の子じゃ。それに見た目からしてまだまともに訓練をしておらん年頃なのじゃろう」

「なるほど、それなのにこの『セルビトロスの森』に入ったのか。若さというのは恐ろしいね。その気になれば地獄の窯の中にだって跳びこめるのかも」

「ぐぬぬぬぬ……」

 子供心にも馬鹿にされていることが分かって、俺は口をとがらせた。フクロウの言うことは何も間違っていなかったので、言い返すことはできなかったが。

「自分がいかに愚かだったかは、もうウェント自身がよくわかっておる」


 俺の向かいに腰かけながら、アローサルがレフをたしなめる。円卓の中央にはクッションで眠る翡翠の鳥がおかれた。

 眠れる麗鳥を指さして、アローサルがレフに問う。

「それよりも、問題はこっちじゃよ。ワシでも見たことのない、マナの申し子のような鳥。レフ、お前さんの頭の中にこいつの記憶はないか?」

「無いな。間違いない。このような生き物を見たことは私の長い生の中で、一度も無い」

 首を左右に回して──おそらくそれが、人間でいうところの首を横に振るジェスチャーなのだろう──レフが厳かに答える。

「長いって……レフはどれくらい生きてるの?」

「ざっと百五十年ほどだ」

「ひゃっ……!?」

 思わぬ回答に俺は目を見開いた。


「ウェント。レフは『森賢梟エンシェントオウル』という長命な魔獣なのじゃよ。ケージの中に入っているとそうは見えんかもしれんが、知能が高く、魔法も使える」

「すっごい……!」

 俺が瞳を輝かせると、レフは瞳を閉じて頭上を見上げた。

 一体何を思っているのか。フクロウの表情からは読み取れない。

「……ふふ、子供の純粋さはいいものだね。アルではこうはいかない」

 うれしかったようだ。

「しかし……そのレフでもわからなければ今はどうしようもないのう……」

「…………いや待て、アル。一つ思い出したことがある」

 肩を落とすアローサルに、レフが目を向ける。

「このマナの形質と似たものを昔、見たことがある」

「ほう? それはなんじゃ?」

「──精霊だ」

「…………それはまた、とんでもないものが出てきたのう。まあ、可能性として考えてはいたが」


 レフの答えに、アローサルが顔に手をやる。

「精霊って……おとぎ話の?」

 絵本や小説などによく出てくる、翅の生えた気まぐれな小人。太古の時代には実在したという噂だ。

 彼ら彼女らは世界創生を成した火、風、水、土の四つのマナをそれぞれ司っている。


「魔法に疎い者にとってはそれぐらいの認識しかないじゃろうな……いいか、ウェント。精霊は実在する。普段は目に見えないが、資格があるものの前にその姿を現すのじゃ」

「しかく……」

「精霊と契約を結んだ者を、人は『精霊使い』と呼ぶ。ただ、ものすごく珍しい事例じゃ。ワシも会ったことは数えるほどしか無い……精霊とは、それほどまでに珍しく、奔放な存在なのじゃ。我々人類では及びつかぬほどにな」

「そんな珍しい精霊が……目の前の鳥だっていうの? 小人じゃないの?」

「上位の精霊は、獣に化ける術を持っている」

 レフが説明を引き継ぐ。

「もっとも、それぞれが司る生物に限定されるが……火ならトカゲ、水なら魚、土なら蛇……そして、鳥を司るのは風の精霊だ」

「……ということは」

「理解が早くて助かる。つまり、目の前で眠るこの鳥は、風を司る精霊で、さらにはその上位存在である可能性が高い」

 レフの言葉が終わると同時に、ピィン、と緊張の糸が張られた気がした。

 目の前に魔王が現れたかのような、そんな空気だ。


「二人とも、どうしたの?」

「……ウェント、名残惜しいがもう帰りなさい」

 おずおずと尋ねた俺に帰ってきたのは、アローサルの厳しい声だった。

「え……な、なんで?」

「事情が変わった。もしも目の前の生物が人類に敵対感情を抱いていた場合──ワシ一人で手に負える存在ではない。精霊……それも上位精霊なぞ、対処するのにエルフが十人は必要になる」

「で、でも……まだ、魔法を教えてもらってない……」

「今更そんなことを言ってはおられんのじゃ! それに、魔法ならこの家でたくさん見たじゃろう。もう満足できたはずじゃ」

「ぜんぜんできてないよっ!!」

 ガタっと音を鳴らし、俺は立ち上がった。円卓に沿って、アローサルの前へ。

「満足なんてできないよ! 樹の中の家も、勝手にページがめくれる本も、間抜けな小人も、乱暴なバケツも……すごいけど、すごかったから、もっと見たいんだ! だって、ここにあるのは、魔法のほんの一部なんでしょ!?」

「ウェント……」

 つたない言葉をまくしたてる俺を見据え、アローサルは表情を困惑させる。


「もっと、見たいんだ……俺が知らないものに、ほかの誰もが知らないものに、出会いたい、たどり着きたい! このキラキラしている世界の中に入りたい!」

「ウェント、魔法は恐ろしい力じゃ。使い方を間違えれば、世界を混乱に陥れる……」

「──だったら、間違えないようにアローサルが教えてよ!」

「っ!?」

 アローサルの目が見開かれる。

「俺は何も知らない! マナなんてよくわからないし、精霊だって見たことない! だから! だからアローサルが……こんな素敵な家に住んでる、優しい魔法使いが教えてよ!」

「強情じゃな……!」

「──私はウェントにつくよ、アル」

 アローサルの背後で、レフが羽をはためかせた。


「こら、レフ! お前はこちら側じゃろう!」

「アル。未知を想い、神秘に魅せられたのならば、この子はすでに立派な魔法使いの卵だ。彼が殻を破り、空に羽ばたくまで見守るのは……先人の義務だろう?」

「だが、この子は騎士の家の子じゃ! あの系譜にみられる『教育』の跡も見受けられる! そんな家の子が、魔法に傾倒しだしたらどんな悲惨な結末が待っているか! お前も想像できるじゃろう!」

「だったら、俺はアルの子供になるよ!」

「ちょっと黙っとれい! ワシは生涯独身じゃ!」

「……それでも、だ。この国で……魔法使いを蔑視し、月日を追うごとに魔法使いが減っていくこの国で、彼のような子に出会えたのは……君にとっても幸福なんじゃないか?」

「ぐっ……!」

 アローサルが言葉を失う。俺とレフを交互に見やり、何度か低いうめき声のようなものをあげる。


 俺はただ黙って、アローサルの答えを待った。

 そして──永遠とも思える数分が過ぎたとき。

「……ウェント。ワシの言いつけを、すべて守ると誓うか?」

 アローサルが俺に向き直り、静かに尋ねた。

 俺もまたまっすぐに魔法使いを見つめ、小さくうなずく。

「…………うん」

「どんな困難にぶつかっても、魔法の探究を諦めないと誓うか?」

「……うん」

「正義を決して見失わず、悪の道に落ちないと誓うか?」

「うん」

「……」

「……」

 アローサルが顔を覗き込んでくる。だが、目をそらすことはできない。ここで逃げたら、多分もう二度とこの場所には戻ってこられないと、直感でわかっていた。

「──わかった。ウェント・オールビィをワシの弟子に迎え入れよう」

「……っ!」

 大きなため息──根負けといった様子だった──と共にアローサルが頷いた。

「やったー! ありがとう、アローサル! レフも加勢してくれて助かった!」

「まったく、ワシもヤキが回ったものじゃ……」

「先ほどほめてくれたお礼さ」

 ぴょんぴょんと跳びあがり、全身で喜びを表現する俺を眺め、アローサルとレフが笑う。

 こうしてここに、俺とアローサルとの師弟関係が結ばれた。


 そんな、俺にとっての人生最大の分岐点は──

「ふぁああああ~……もう、うるさい……静かにしてよ……」

 ──寝ぼけたのんきな声に、すべてかっさらわれた。

「──っ!」

 アローサルの表情が一転険しくなり、円卓に鋭い視線を投げかける。


 俺も遅れて目を向けると……先ほどまで鳥が眠っていたクッションの上に、一人の翡翠色の妖精が座っていた。

「……っていうか、ここ、どこ? アタシは確か……あれ、ヤバ、なんにも覚えてない……あれ、えっと、名前はアネモスシルフィード、よね……うん、覚えてる」

「アネモス……」

「シルフィードじゃと……!?」

 首をかしげながら独り言を呟く精霊に、レフとアローサルが戦慄する。

「アネモスシルフィードって……?」

「……精霊は、自我の希薄な下位、自我があり強力な力を持つ上位に分けられるが……そんな精霊達の頂点に立つのが『王位』の精霊だ」

「文献でしか見たことはないが、アネモスシルフィードはまさにその王位精霊……! 神話時代の生き残りじゃ」

「う、そ…………」

「さらに言うなら、その希少性じゃな。ただでさえ存在が明らかになっていない王位精霊の中でも、風の精霊女王は別格……長い歴史の中で、数度しか存在が確認されていない」

「実在すらも疑われていた生ける幻想伝説なんだよ、アネモスシルフィードというのは」

「そ、そうなんだ……」

 目の前の少女が、はるか昔から生き続けている伝説の存在だということが、俺には信じられなかった。

「……ちょっとあんた達。ここはどこ? こんな家に連れ込んでアタシをどうするつもり?」

 三者三様に戦く俺達を、精霊女王がじろりとにらんだ。

「初めまして。ワシは魔法使いのアローサル・アルゲントゥム。こっちのフクロウが使い魔のレフコクリソス、こっちの子供が弟子のウェント・オールビィじゃな。ここは『セルビトロスの森』にあるワシの住み家じゃ」

待ち人セルビトロスの森……? ヘンテコな地名ね……でも、聞いたことがあるような無いような……」

「寝起きで意識が混濁している様子じゃな。落ち着くまで休んだらどうじゃ?」

「そうね、そうさせてもらうわ……ただ、」

 シルフィードが細い腕を振ると同時にガラスが砕け散るような音。

「──この不躾な結界は解かせてもらうけど」

「獣の姿のお主がケガをしていたので、治療術式を組んだんじゃけどな……」

「ありがとう、でももう平気だから」

「……なんか、やばそうな雰囲気じゃない?」

 アローサルの背後に回り込み、俺はレフに小声で囁く。

「相手は精霊女王だからね。答えを間違えたらこちらの命はない。アローサルも腹芸を講じなければいけないのさ」

「そこの鳥と子供。アタシは地獄耳よ」

「聞かれてたのか……」

「風に乗って声が響いてくるからね。アタシの前で内緒話はしないほうがいいわよ」

 ぞぞぞぞ……と小さな体から、強大なプレッシャーが放たれる。迫力は、稲妻羆ライトニングベア以上。

「連れが失礼した、精霊の女王。快復したというのなら、いくつか聞きたいことがあるのじゃが、いいかのう?」

「ええ。構わないわ」

 クッションの上にふんぞり返って、シルフィードが頷く。

「精霊女王というのは、事実か?」

「ええ。真名を明かすことはできないけれど、アネモスシルフィードで通じるんだから問題ないわよね? それとも、アタシのマナを感じ取れない愚者なのかしら?」

「いや、痛いほど伝わっておるよ。では、どうしてこの森に? それも怪我をした状態で」

「…………」

 シルフィードが難しい顔をして押し黙った。

 怪訝に思った俺は、先ほどの彼女の独り言を思い出す。

「覚えて、ない……?」

「──そうよ、その子の言う通り、なんにも覚えてないのよ、アタシ。どうしてこんな場所にいるのか。どうやってここまで来たのか。怪我をした理由も……覚えているのは、アタシが精霊女王であるということと、その証である名前ぐらい」

「精霊が記憶喪失じゃとっ……! そんな話聞いたことないぞ……!」

 よほどの衝撃だったのか、アローサルがその場に崩れ落ちる。

「まあたぶん、きままに旅をしていたら、この森に張ってある邪魔な結界にぶつかって当たり所が悪かったって感じじゃない?」

「魔獣を外に出さない程度の結界で、精霊女王が傷を負うとは到底思えないが……」

「──まあだから、加害者であるあんた達は、被害者のアタシに尽くす義務があるわよね」

 レフの疑問の声を遮り、シルフィードがそんなことを言い出した。

「いや、しかし……そんな確証のない話を持ち出されても……」

「あ・る・わ・よ・ね?」

「……あるかも、しれないのう……」

「アローサル!? 負けちゃだめだよ!? ……ん?」

 俺が慌てて、がっくしと首を落とす師匠の肩を揺さぶっていると、頭に何かが乗る気配がした。

 視線を上にあげると、シルフィード逆さの状態で俺の顔を覗き込んできた。

「うわっ、な、なに?」

「アタシ、あんたのことは覚えているわよ」

「──え?」

「弱っちいのに、アタシのことを大事に抱えて守ってくれたことは、おぼろげな記憶の中に残ってる。……ありがとね」

「い、いや別に……」

 それまでの横暴さはどこに行ったのか、急にしおらしく感謝を述べる精霊に、俺は思わず赤面する。

「──それに、目が合った瞬間にビビッと来たの! この子はなんか持ってるって!」

「え?」

「だから、アタシがあんたに力を貸してあげるわ!」

「ん? ん!?」

 シルフィードの言ってることがよくわからず、俺はアローサルとレフに助けを求めた。

 が、頼みの綱である二人はあんぐりと口を開けて固まっている。

「ど、どういうことだよアネモスシルフィード!?」

「その呼び方、イマイチ。シルフィって呼んでちょうだい」

「……シルフィ」

 俺が戸惑いながらそう呼ぶと、シルフィード──シルフィが満足そうにうなずき、俺の頭から飛び立った。

 四枚の翅を煌めかせ、俺の顔の前に位置を変える。

「アタシが、あんたと契約してあげる。……あんたは、精霊使いになりなさい」

 ……その、シルフィの爆弾発言に。

「「「はぁああああああああああああああああああっっっっっ!?!?」」」

 二人と一羽が、森に響き渡るほどの大大大大大、大絶叫を上げた。

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