第4話 好きな人 (2)

 緩やかな上り坂の途中で秋本さんはふいに立ち止まって言った。

「ここに新たな抜け道を発見した」

 彼が傘の中で小さく指差すその先に誓子は目をやった。雨ににじんだビニール傘の向こう、雨の向こう、建物と建物の隙間に暗闇がぽっかりと空いている。そこだけ黒く塗りつぶしたような濃い闇、誓子はその向こうに目を凝らしてみるが、黒の中に降りしきる雨がノイズのように混じるだけだった。

「ここが抜け道?」

「うん、案内してもいい?」

「え、でも……」

「大丈夫、怖くないから」

 秋本さんはいささか声を弾ませる。バイトの休憩時間にこのあたりを歩き回っては誰も通らない小径や抜け道探しをしている彼の、探検家としての血が騒ぐらしかった。


 誓子は再び自分の折りたたみ傘を開き、秋本さんの後ろについて細い道に入り込んだ。

 スーツの裾をつかみながら、彼の濡れた背中を頼りに狭い通路を恐る恐る進んでいくうちに、ふと足の裏に伝わる感触が変わった。パンプスのつま先がわずかに沈み込む、雨水を吸い込んだ未舗装の道だ。まとわりつく湿気の種類が変わる。すぐそばで木の葉が水を弾いてぱさぱさと揺れる音がする。どうやら緑も近い。

 暗闇に目が慣れてきたころにようやく道が開けて光源が現れ、誓子はようやく安堵した。


 石畳に埋め込まれたグランドライトが、見上げるほど大きな鳥居を下から照らし出していた。ほの白い光源は巨大な赤色の漆と黒く濃い影、風に乗ってゆっくりと落ちてくる細かな雨粒を照らし、誓子たちが来た道と二人の足元も明らかにした。

 雨の中でつやつやと光る漆の鮮やかな赤色にしばらく目を奪われた後、神社にたどり着いたのだということに誓子はようやく思い至った。

「すごい、こんなとこに出るんだ……」

 駅のはずれに神社があることは知っていた。バイトの帰り道にその入口を横切るとき、石造りの簡素な灯篭が必ず目に入り、そこからまっすぐに続く参道の向こうに急な石段が伸びているのが見え、その更に向こうに大きな鳥居の赤い足元がのぞいているのが見えるのだった。自転車に乗った誓子はいつもその階段を横目に次の角で曲がって一旦自転車を降り、長い坂道を自転車を押しながら上ってゆく。長い坂道は急な石段と並行していたということだ。先ほどまで秋本さんと歩いていたのはすなわち神社のちょうど真上、急な階段の上った先の上にかかる道だった。


 誓子と秋本さんは突然神社の頂上にやってきた。鳥居から周囲を見下ろすと、長い階段と参道の向こうに、いつもの灯篭といつも横切る薄暗い歩道が小さくのぞいていた。暗闇でほとんど見えないが、雨粒の向こうには人気のない真っ暗な社務所もある。かつて二人で灯籠をくぐり、階段を上ってこの頂上にやってきたとき、誰もいない社務所の陰で一度だけ抱き合ったことがあったのを思い出した。

 今、二人で歩いてきたのは拝殿の裏口だったのだ。こんな小径があったなんて知らなかった。


「こんな小さな道、よく見つけたね」

 誓子が興奮気味に言うと秋本さんははにかんだ。

「うん、例の休憩散歩のときに発見した」

 我ながら暗い趣味だよね、と秋本さんが爪先で頬をかきながら苦笑する。

「暗くないよ。探検みたいでおもしろいよ」

 深く息を吸い込むと、どっしりと湿気をため込んだ土の匂いと一粒一粒に夏の気配をまとった雨の匂いが鼻腔をつんとさせた。


「ちなみにここ、夏は肝試しスポットにもなってるんだよ」

 えっ。心地よく吐き出そうとした息がつまる。どこか得意げな秋本さんの言葉と同時に、暗闇に浮かび上がる無人の社務所が目に入ってしまった。

「この階段を降りた先の参道をちょっと外れると小さな雑木林があって、そこに……」

「やだっ、やめて!」

 誓子は雨に濡れた秋本さんの袖を思わずつかんだ。

 茶化したつもりだったが必死な形相をしていたようだった。彼の華奢な腕が驚いたように強張り、傘を持つ手がバランスを失い、大きく傾いた傘先から次々と水滴がこぼれ落ち、二人でびたびたと雨に濡れた。

「ごめんなさい、服が……」

「いいんだ、怖がらせた僕が悪いから。ごめんなさい」

 傘を差しながら深々と頭を下げ、心から申し訳なさそうに謝る秋本さんにかえって誓子は恐縮してしまう。ハンカチを取り出し、気休め程度に秋本さんの肩についた雨粒を払ったものの、元からぐっしょりと濡れたそこに更に雨を塗りつけたような格好になってしまった。

 やはりこういうことは性に合っていないと情けなくなりながら誓子は、

「私こそごめんね。昔から怖い話が苦手で、つい……」

「そうだったんだ。だったら尚更こんなところに連れてきてごめんね」

「大丈夫、」

 創くんがいるから、との言葉が口をついて出て、誓子ははにかんでうつむく。言われた秋本さんのほうはいささか真剣な顔つきになって、誓子の濡れた肩にゆっくりと手を回した。

「私、お酒臭いよ」

「いいよ、そんなの」

 雨に濡れた風景に彼の傘がかぶさり、息が近づき、誓子は目を閉じる。重なった唇はふわふわとやわらかく、今の頭の中のようだった。


 二人は手を繋いで石段のほうまで歩いていき、改めて参道を見下ろしてみた。秋本さんの言うように参道の脇に植わった巨木たちがうっそうとした小さな森を作り出していた。そこだけ緑が凝縮されたような一帯は見下ろしているだけでも異様で、確かに何が出てきてもおかしくないような不気味さがあった。


 夜の中で濃い木々たちが、その葉の一つ一つが雨に濡れてしとしとしていた。梅雨のまっただ中、鬱屈した緑、深い雨、そこを抜けたらもうじき夏になる。

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