第3話 好きな人 (1)
お酒が回った頭はふわふわと空回りする一方で、気疲れした体は節々が強張ってずっしりと重い。
自転車で来ていた誓子は駅前で二人と別れ、駅をぐるりと回って正面改札から反対側の南口改札へと移動する。いつもの待ち合わせ場所であった。
同じ予備校に勤める秋本
初めての告白にはもちろん戸惑ったが、戸惑ううちに誓子はみるみる秋本さんに惹かれた。彼の無造作な飾らない感じが好きだ。大学生らしからぬ落ち着いたところが好きだ。生徒とは友達同士のように気さくに接し、保護者とは実直な態度で接し、同僚たちとも誠実に交友するところが好きだ。
南口の人通りはまばらであった。すでにシャッターの閉まった書店の前に立っていると屋根にぽつぽつと雨が落ち始め、秋本さんが改札をくぐってやってくるころには本降りになった。
改札で誓子を認めた彼は小走りになり、走りながら小さく手を振った。前を横切る通行人の背中をすり抜けるようにしてこちらへ向かってくる。
濡れた地面に気づいて足元を見やり、それから降ってくる雨粒に気づき驚いた顔で空を見上げ、その顔のまま誓子のほうへやってくるので、わかりやすい表情の変化を遠くから見ながら誓子は少し笑う。うわっ雨だ、と驚く彼の声が今にも聞こえてきそうだった。
「雨だっ」弾んだ声で、秋本さんは誓子の顔を見るなり言う。たった今誓子が思い浮かべた彼の声とぴったり重なり、それがおかしく、誓子は口を覆って笑い出した。
「え、なになに。何か変なこと言った?」
「なんでもないなんでもない」言いつつまだ笑いながら誓子は秋本さんの髪についた水滴を払う。なんだよお、と小突かれ軽くもつれながら、二人はふらふらと雨の中へと歩き出した。
「遅くなってごめんね。解散する前に駅でちょっと話し込んじゃって」
「いいよ全然。どうせまた宮田がめんどくさかったんでしょ」
傘の中で肩を抱かれながら、酔っ払うと誰彼構わず肩を抱いてくだを巻く宮田先輩の姿が思い浮かんだ。終始穏やかなままお開きとなった先ほどの飲み会は、彼にとっては消化不良だったのかもしれない。
「この後どうしよっか。お茶でもする?」
「ううん、いい、さっきたくさん食べちゃってお腹いっぱい」
「僕も。じゃあこのまま一緒に帰ろっか」
一緒に帰る、というのは誓子が一人暮らしするアパートまで送る、ということである。そこから秋本さんの自宅までは徒歩だと一時間ほどかかるので彼の帰宅は深夜になるが、彼は毎回誓子をそうして見送ってくれる。歩くのが好きなのだと彼は言うが、こういう細やかなところで大切にしてくれるところも誓子は嬉しい。
誓子を見送った後は、音楽を聴きながら歩いて帰るのだと言っていた。かつてそれを誓子に教えてくれたときには、歩きながら歌ったりするのも気持ちがいいと言い、「あ、誰もいないときに小さい声でね」と付け加えたときの無造作な笑顔に、にわかに親しみが湧いたものだった。
「そういえば自転車は取りに行かなくていいの?」
「うん、いい。雨だから諦める」
雨に濡れたアスファルトが街灯を反射して白く光っていた。そこを一台の車が滑り抜けてゆき、その表面が雨の中で落ちくぼんだように艶を失い、またすぐに光り出す。歩道を歩く誓子たちのすぐ横を走り抜けていったその車の赤いテールランプは次第に小さくなって雨の中に溶けていった。
「なんかさ、みんな雨の日嫌いっていうけど、なんでなんだろうね。宮田も雨だとずっと機嫌悪いしさ」
飲み会の間、終始気だるそうにぐにゃぐにゃしていた宮田先輩を思い出して誓子は少し笑った。
「そっか、それで機嫌悪かったんだ」とぽつりとつぶやくと、秋本さんも静かに笑う。些細な風景を共有して、何かがなんとなく通じ合ったような笑いだった。
幅の狭い歩道に差し掛かるところだった。駅前を離れて人通りは減ったものの今度は車の往来が増え、身を寄せ合うようにして二人で並んで歩いているとお互いの傘が何度かぶつかり、どちらともなく遠慮するうちにいつの間にか誓子のほうが傘を閉じて秋本さんのビニール傘の中に入れてもらう形になる。秋本さんの右肩はすでにびしょ濡れになっていた。
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