第2話 じゃまな人 (2)
「ていうか
レースのついた折り畳み傘を乱雑にまとめながら嶺衣奈ちゃんが言う。核心を突いた一言はそれこそとげとげしく聞こえそうだが、彼女の歯に衣着せぬ物言い、いわゆる毒舌キャラのおかげでそれは巧妙に回避されている。
「どこがとげとげしいんだよ。めちゃくちゃ優しくしてるつもりなんだけど」
「それで優しいつもりだったら相当やばくないですか? もう一女の前では気配消すしかないですよ」
「なにそれ嫌なんだけど」宮田先輩の声色は更に不機嫌になる。
大学にはたくさんのサークルがあって、その多くが不純異性交遊を含む猥雑な集団だということはもちろん誓子も了解している。TAたちももちろんそうだ。今のような勤務後の小さな飲み会、長期休暇中の旅行、年に二度あるOBも巻き込んだ大規模な飲み会、その他様々なイベントという名の飲み会、いつの間にか発生するうたかたのカップル。
膝上丈のタイトスカートに宮田先輩の水滴を浴びながら、嶺衣奈ちゃんが頬を膨らませる。
「ていうか女子が足りないとかひどくないですか。ちゃんと女子いるじゃないですか!」
「いや、悪いけど浜ちゃんは女子枠じゃないから」
「ひっどーい。誓子さんも無視ですか?」
「せいこって誰?」
「緒方さんですよ。自分で呼ぶって言っといて忘れたんですか? ありえなーい」
ああ、と階段を下りてくる誓子を見上げた宮田先輩と目が合う。
「どこ大の何年生?」
「一橋の二年生です」
「学部は?」
「法学部です……」
「ふーん、法は知り合いいないわ」
興味なさそうな相槌を打ちながら宮田先輩の目は細く鋭く、上から下まで一瞬にして品定めする。最高学府に通う彼の隙のないその目つきに、誓子のなけなしの自尊心はみるみるしぼんでゆく。苦笑しながら下げる必要もない頭を下げることしかできない。
厳しい大学受験を乗り超えてなお厳しい応募倍率を勝ち抜いたTAたちは一様に気高い感じで、はっきり言って威圧的である。
誓子の採用面接はTAと同日だったが、彼らの試験会場を偶然目にしたとき、大学受験さながらの張りつめた空気が満ちていたことを思い出す。容姿も選考基準に入っているのではないかと思うくらいに、会場にいた志望者たちが美男美女揃いだったということにも誓子は圧倒され、こんな人たちと一緒に働くことになるかもしれないのか、と自らのあか抜けなさが身につまされたものだった。
何はともあれ、とりあえずビールで乾杯。すぐに運ばれてきたお通しに口をつけながら料理を何品か注文し、三人で遅めの夕食を始めた。
「ていうか他の一女は下の名前で呼ばれてるのに、なんであたしだけ浜ちゃんなんですかー」
「悪いけど浜ちゃんは一女だとは思ってないから」
「なんですかそれ」
「一女が先輩の一気引き受けるかよ普通」宮田先輩が吐き捨てるように言う。
「なんですかそれー。飲みキャラが定着してるの、まじで不本意なんですけど」
隣に座る嶺衣奈ちゃんが再び頬を膨らませる。チョコレート色の髪は予備校の職員に注意されないぎりぎりの明るさで、この時間になっても緩やかなウェーブが保たれているが、斜めに前髪のかかった目元はよく見ると化粧が崩れかけ、大きな涙袋にはマスカラの黒い破片がまばらに落ちかけいた。
「いや、実績がありすぎるんだよ」宮田先輩はこの日初めての笑顔を見せた。
「こないだの納会でも浜ちゃんは伝説になってたからね。OBの後藤さん潰した一女がいるって」
「それは話盛りすぎです。あれは後藤さんが勝手に自滅したんです!」
一年後輩であるこの嶺衣奈ちゃんは誓子にとってにわかに恐怖であった。
すでに誓子の何百倍も大学生活を謳歌しているであろう彼女にとって誓子は、今はまだ辛うじて大人しい、地味で無害な先輩と認識されているかもしれないが、少しでも隙を見せた途端におもちゃにされそうな、些細なきっかけで先輩後輩の序列が逆転しそうな、あやうい予感がある。
すでにピークの時間帯を過ぎたフロアはまばらで、時折遠くで笑い声が聞こえる。
嶺衣奈ちゃんのめくるめく武勇伝に耳を傾けながら、すでに取り残されたような誓子はジョッキをぐいっと傾けてビールを一気に流し込む。ビールは味よりものどごしを楽しむもの。二十歳の誕生日に友達と初めて飲んだお酒にもだいぶ慣れて、ビールのおいしさもわかるようになってきた。
宮田先輩は気だるそうに何事かを吐き捨て、ジョッキを一気に飲み干す。いつの間にかコンタクトを外して眼鏡姿になった彼はすでに出来上がりかけていた。寝不足でお酒が回りやすいのだろうか、と誓子がぼんやりと思っていたとき、唐突に彼の視線がこちらに向く。
「てか、緒方ちゃんって彼氏いるの?」
「あー、あたしもそれ気になってたー」
切れ長の宮田先輩の目には、歌舞伎の女形を連想させるような鋭い色気がある。物憂げな美男、疲れた美男。その細い瞳の奥には常に人を素早く値踏みする狡猾さがある。
「もしかしてだけど、まさかヤラハタとか?」
「ヤラハタ?」
「ちょっと、誓子さんにそんな話やめてください」
嶺衣奈ちゃんは心から憤慨した様子で宮田先輩に抗議する。こういう場面で安易に年長者に迎合しないところに彼女の揺るぎない自信を感じ、うまく言葉を継げず苦笑するばかりの自分がみじめで、そうして苦笑しながら誓子はようやくヤラハタの意味を理解する。ヤラハタ、ヤラずにハタチ。
「ああ、そういう……」
「誓子さん、真面目に答える必要ないですからね」
嶺衣奈ちゃんが大きな瞳で誓子をぐっと深く見る。じっと見ていると吸い込まれそうな深い黒色。今になってビールが回り始め、目の奥が半回転し、膀胱がわずかに重たくなる。
「ヤラハタとかどうでもいいんだよこっちは。彼氏いるのかいないのか、質問に答えてよ」
絡み酒になってきた宮田先輩を軽くあしらった嶺衣奈ちゃんは、誓子の肩を抱いて背をこごめ「あたしにだけ教えてください」とささやいた。
「絶対誰にも言わないんで」
ココナッツミルクのような匂いが二人の間に小さく立ちこめる。うっかり口を滑らせてしまいそうな甘い匂いだった。
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