あやうい人

各務

第1話 じゃまな人 (1)

 牛角、ネットカフェ、ドラッグストア、ツタヤ、カラオケ、ダーツバー。雑多なテナントが詰め込まれた六階建ての雑居ビル、その入口前にたむろする大学生の小規模なひとかたまりがある。


「本日貸切だったら看板出しとけよ。まじ無駄足だったわ」

 三人組のかたまりで最年長の宮田先輩が舌打ちする。

「さっき声かけられた店でいっか。あそこ飲み放題できたっけ」

「できると思いまーす」


 一年生の嶺衣奈れいなちゃんが調子のいい声で相槌を打ち、とんとん拍子に動き出す二人の背中に誓子せいこは慌ててついていく。つい先ほど、この二階にある土間土間に入ろうとしたら店員に本日は貸切だと告げられ、そこから明らかに不機嫌な宮田先輩のうしろについてのろのろと建物を出てきたところだった。


 午後十時、すでに夜が深まっていた。七月の夜空はなんだかいつまでも薄明るいような色合いで、生ぬるい湿気を伴って迫ってくるようで誓子は息苦しい。それに加えてこれから三人で入れる居酒屋を探し求めて、雑踏の中を連れ立って移動しなければならず、ことさらに居心地が悪い。


 誓子たちの背後を、通行人たちがそれぞれに差した傘で押しのけるようにして追い抜いてゆく。

 邪魔だろうなあと誓子は思う。ただでさえ狭い駅前の歩道で、各々の傘でふらふら広がっている大学生なんて。そう思い傘の中で肩をすぼめてみるが、そんなことをしたところで邪魔な大学生の一員であることに変わりはなかった。


 一年前、大学入学とともに上京してすぐのときは、口を開けて見上げたスカイツリーの高さよりも、夜半を過ぎてもなお煌々と明るい繁華街よりも、同い年とは思えないほど華やかであかぬけた同級生たちよりも、東京の人はこんなにも人に道を譲らないものなのかと驚愕したものだった。


 視線を進行方向一点に定め、時に肩や鞄をぶつけ合いながら無駄のない進路で一心不乱に突き進んで様子を見るだけで、無関係な自分が責め立てられているような気持ちが起こった。まるでこちらが見えていないかのような迷いのなさをもって正面から向かってくる彼らに、せめてぶつからないようにしなければと誓子は右往左往しながら細かな迂回をして、迂回した先でまた一心不乱の誰かを避けなければならない。迂回しきれずぶつかってしまったときには鈍い痛みと、それから生ぬるい怒りのようなものがこみ上げていつまでも消えなかった。


 地方の名もない高校から東京の国立大学に合格したことは、内気な誓子にわずかな自信を与えてくれた。上京したら塾講師か家庭教師か、とにかく教育機関でアルバイトをしようと思っていた。比較的真面目で穏やかな生徒たちが集まっていた地方の進学校でも、真面目だね、ほんとに真面目だね、とことあるごとに言われ続けてきた誓子にとって、愚直であること、特に勉強に真面目に取り組むことは唯一胸を張れることだったからだ。


 下宿先の近くにある予備校でアルバイトを始めた。採用試験を受けた予備校の学生アルバイトには事務の枠と、ティーチングアドバイザーという聞いたこともない枠があり、誓子はもちろん事務を志願して採用された。


 校舎には授業をする講師とは別にティーチングアドバイザー、TAという現役大学生のクラス担任がおり、その名の通り勉強のやり方をアドバイスしてもらったり受験勉強の相談に乗ってもらったりということができるらしい。

 らしい、と誓子がよくわかっていないのは、TAと事務との間には暗黙のうちに緊密に張られた透明な膜のようなものがあり、事務は対等に口をきいてはいけないというか、なんとも言えない内輪的な結束が彼らにはあり、積極的に関わる機会がない故にその業務内容を誓子がほとんど把握していないからである。


 スクールカーストなどという言葉もなく、女子同士の面倒な派閥や色恋にも無縁で、穏健な地方都市で純朴な学生生活を送っていた誓子は、そのような暗黙の了解を了解するまでに丸一年の歳月を要した。彼らTAたちとの交流といえば、こうして先輩の気まぐれで誓子のような後輩女子が威圧的に声をかけられて、数合わせ程度の要員として勤務後の飲み会に参加することがあるくらいである。


「女子が足りないよ女子が。なんでみんな帰っちゃうわけ? 四年生のおっさんには付き合ってられないってこと?」

 目当ての店が入ったビルに到着し、宮田先輩は中空を蹴り上げるようにしながらだらだらと階段を下ってゆく。狭い階段で濡れたビニール傘を振って水滴をまき散らし、尖った革靴のつま先が雨粒を弾いて光っている。

 四年生の宮田先輩、一年生の嶺衣奈ちゃん、そして二年生の誓子、このメンバーに加えて今日は一年生のTAが二人出勤していたが、課題が終わっていないなどと言って二人ともそそくさと帰ってしまった。


 宮田先輩や嶺衣奈ちゃんとの初対面の印象は、最短距離の人、であった。往来で自己の都合を最優先する人のように、彼や彼女はそういった揺るぎなさを無自覚のうちに持ち合わせている。それによって誓子のような気の弱い人間が細かな迂回を強いられる。気を遣ってたら東京の道なんて歩けないよ、と大学の友達に言われたことがあったが、誓子としては気を遣っているつもりはなくて、ただただ圧倒されてうまく歩くことができないのだ。


 往来で自分の進行方向もうまく定められないように、先ほど勤務中に嶺衣奈ちゃんから誘われたこの飲み会を断りきれなかった。

「あたし誓子先輩と飲みたいんですー」とすり寄ってきた彼女の背後には確実に宮田先輩の意志が介在していることくらいはわかる。


 鞄を胸の前で抱いて肩をすぼめ、誓子は彼らに続いて狭い階段を下りてゆく。鞄の中のスマホをちらりと覗き見ると、いつもならもう入浴も済ませて一息ついている時間帯だった。勤務が終わるのがいつも二十一時半を過ぎるのは仕方ないけれど、これから軽く飲み食いするだけでも帰りは終電間際になるだろう。

 早く帰りたいなあ。入店する前から誓子は気が滅入る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る