第5話 ママ
ニドゥシャのモダンな赤い壁。垂れた金色の電球。楽しい黒猫の歌。それらをバックに、客や女の子は楽しそうに踊る。
イレーヌはボロの赤いドレスをまとい、ぽつんとひとりうつむいていた。
ダヴィドが肩に手をかける。
「やあ子猫ちゃん。疲れちゃった?」
陽気な声に、イレーヌは顔をあげた。
ダヴィドはイレーヌをよく観察する。
彼女の表情はこわばっていた。ふっくらした頬は、すっかりそげおちている。やぼったい頬紅も真っ赤な口紅も、いまはつけていない。
イレーヌは子猫ではなく、ただのやつれた蒼白な少女だった。
「ダンスしようよ。ちょっとは気晴らしになるはずさ」
ダヴィドはうれしく思う。今が狙い時だ。
イレーヌはダヴィドに手をひかれるまま、カップルになって踊った。
女の子がすれちがいざま、鋭いヒールでイレーヌの足を踏もうとする。無気力なイレーヌは避けようとしなかった。
「おっと」
ダヴィドが女の子の足をけったので、イレーヌの足は踏まれずにすんだ。
女の子は少し顔をゆがめ、イレーヌたちからはなれた。
「ダヴィドさん。ありがとう」
「最近子猫ちゃんに元気がないから、おれも心配でね」
「お客さんに心配ごとをさせるなんて、あたし失格だわ」
「そういうこともあるさ。おれの前では演じなくていいよ。今つらいんでしょ?」
イレーヌは黙って首をふった。目がじわじわと熱く痛くなる。真珠のような涙がたまった。
ダヴィドは笑う。
「つらいなら楽しいことに目をむければいいのさ。一瞬のひりつくような快感に」
踊りながら、ダヴィドがタバコを差しだした。街でしばらく過ごしたイレーヌは、においでわかった。
これはただのタバコじゃない。
「安くしておくよ」
「いいです。あたし、こういうのは……」
「ガキが調子乗ってんじゃねえぞ」
ダヴィドは笑顔のまま、声だけが低くなった。
恐ろしくなる。
「おためし用の、渡しておくから。いつでも声をかけてね」
ダヴィドはイレーヌにタバコをにぎらせ、他の女の子の方へ行った。
「あたし、つらくなったりしない。あたしは絶対ママみたいになるの」
イレーヌはしかし、めまいがした。今夜ははやく休もう。
夜半。屋根裏の寝室にもどったら、誰もいなかった。
イレーヌのベッドにゴミがかけられていた。
真っ青になった。
店の裏の臭いゴミ捨て場まで、イレーヌはゴミを運んだ。
風は冷たい。月のない空は、黒猫みたいに真っ黒だ。
だれもいないのを見ると、へたりこんで泣いた。
毎日疲れる。
どんなにつらくても、どんなにいじめられても、客を楽しませるため、笑顔でいつづけなければならない。
自分が自分でなくなるような感じがする。
家族もいない。お金もない。頼れる人もいない。明るいこの街は闇夜のように孤独だ。
「泣くぐらいならやめちまいな」
しくしく泣くイレーヌはびっくりした。
ゴミ箱を片手に持った黒猫が、音もなくいつのまにか真後ろに立っていた。
「ふん。黒猫のママ。いつもあたしをいじめるんだねえ。若いあたしに人気がとられて悔しいのかい?」
イレーヌは猫なで声をだし、黒猫そっくりの物言いで
黒猫がゴミ箱をひっくり返す。ゴミが降ってきて、面食らう。
「あんたは気に入らないんだよ。あんたはマリアンヌに、あんたの母親にそっくりさ! めざわりだ」
怒鳴られた。黒いアイラインでかこまれた黒猫の目からは、涙があふれている。
イレーヌは息をのんだ。こんな黒猫は見たことがない。
「あたしのママを知ってるの?」
黒猫に顎をつかまれた。黒い唇からタバコのにおいがする。
「いいさ。教えてやる。あんたのママはね、私と一緒に同じ店で働いていたのさ」
「……ママと、お友だちだったの?」
「そうさ。大親友だった。でもあの子は店の女たちにいじめられ、麻薬と酒と男におぼれ、最後はゴミだめで死んだの。ろくな女じゃなかったよ。どうだい? 満足したかい?」
黒猫はさっきのイレーヌみたいに、しくしく泣いていた。
「そんな。ママ……」
「ママみたいになりたくないなら、さっさと田舎にかえんな」
黒猫は空のゴミ箱をイレーヌに投げつけ、背をむけて去ろうとした。
イレーヌは呆然としながらも、あることに気づいた。
「待って。黒猫のママ。まさか、あたしのこと心配してくれてたの? いじめて田舎に帰そうとしていたの?」
黒猫は立ち止まった。その背はぴくりとも動かない。
「だったらこれからは一緒に、あたしたち、本当のママと娘に……」
黒猫はうしろをむいたまま、目元をぬぐう。
「あんたがこの街から出ていかない限り、私はあんたをいじめつづける。たえられないなら帰りな。絶望するならやめな。いいね、子猫」
黒猫は去っていった。
ゴミ捨て場に取りのされたイレーヌは、ポロポロ涙をこぼす。
「黒猫のママ。ごめんなさい。それでもあたし、ママみたいになりたい。あたしには今も昔も、それしかないから」
父もいない。母もいない。いじめられるだけの退屈な田舎。自分にないものを想像し、憧れることでしか、自分を保てなかった。
それ以外の生き方はイレーヌにはできない。
イレーヌはダヴィドからもらったタバコをとりだし、にぎりしめた。
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