第4話 ヴァイマルのワイン事件
ある晩のル・ニドゥシャ。ステージのピアノや黒猫の歌にあわせ、客と店の女の子たちがカップルになり、ダンスする。
「あはは」
赤いドレスのイレーヌも、客と手を握り踊った。楽しく見えるように笑いながら。
客は満足していた。
「子猫はいつも楽しそうだな。おまえといるとおれも楽しい」
「ほんと? やった。あたしシャンソンも歌っちゃお。シャンソンシャンソン、あなたのためにあたしは歌うの」
「いいぞ。おれのために歌え」
「子猫、おれにも歌ってくれよ」
「おれにも」
明るいイレーヌのまわりには、自然と客が寄ってくる。
「まあまあ。順番順番」
イレーヌは一生懸命、これ以上ないほどの笑顔を作った。
別の客と踊る女の子とすれちがう。その子がくるっと回ったとき、ぐっとハイヒールで足をふまれた。
鋭い痛みが足先に走った。
「シャンソンシャンソン、あなただけのシャンソン」
けれどなにごともないかのように、笑顔で歌い続ける。
どんなにつらくても、お客さんを楽しませるのが最優先。それが一流ってもの。
足をふんだ女の子は、ダンスの相手役の客にきこえないよう小さく舌うちした。
ステージの上で歌う漆黒の黒猫は、ホールを見下ろす。へっちゃらでいるイレーヌの様子を見て、女の子と同じように小さく舌うちした。
踊り疲れてソファに座ったイレーヌ。田舎くさい客と談笑した。背中に手をまわしてくる。
ダヴィドも同じソファに座っていた。
「へえ、あんた記者なんだ」
「ああ。このまえなんざヴァイマルの東地区へ行ったぜ」
「あそこ、最近あぶないんでしょ。
「子猫はよく勉強してるな」
「えへへ。それよりお客さん大丈夫だったの?」
「そりゃひどかったぜ。デモは起こるわ目の前で
「ええ? 怖い」
「独裁国家はやっぱりよくねえよな。民主主義が一番だ。民主主義万歳!」
そこへ黒猫が、酒のはいったワイングラスを手にしてやってきた。ルビーのようなワインに、天井の暖色のライトが反射する。
黒猫はソファに座ると、田舎くさい男の前のテーブルにグラスを置いた。猫のように手首を優雅にやわらかくまわして、猫なで声を出す。
「お客さん、のまない? 私のおごり」
「お、さすが黒猫は気がきくねえ」
「子猫もおのみ」
「え? どうしてあたしも? ダヴィドさんのは?」
「そうだよ。おれのは?」
「子猫ががんばっているから、ねぎらってやるんだよ。あんたは常連さんだからいいだろ」
「黒猫のママ……」
イレーヌはうれしくなった。ダヴィドは口をとがらせる。
「ケチ」
「まあまあ、あとであたしがおごるから」
「さっすが子猫、わかってんなあ」
「えへへ」
田舎くさい客はワインをごくりと一気にのんだ。たちまち酔いがまわり、顔が赤らむ。
「かあ。ニドゥシャのワインはうめえなあ。ヴァイマルのとじゃおおちがいだぜ」
「それ、ヴァイマル産のワインなんだけどねえ」
黒猫が黒い唇でくすくす笑うと、男は唇をひきむすんだ。イレーヌもダヴィドもつい笑う。
男は話をかえるように言う。
「子猫も早く飲めよ」
「はーい」
イレーヌは笑顔でワインをのんだ。
強烈な辛味が舌をつきさす。ぶっと、はきだした。赤い液体は田舎くさい男のシャツにかかる。
男もダヴィドも呆然とした。
「おえ、おえ。あ、すみません」
客はしらけたようにイレーヌと黒猫を見る。
「黒猫、子猫のワインになんかいれたの?」
「い、いやだなあ。黒猫のママがそんなことするわけないじゃない。あたしがむせただけ」
イレーヌは笑顔をくずさない。黒猫は眉をあげた。
「ごめんなさいね。シミにならないようにふいてあげるから」
男のシャツをテーブルの上のふきんでふこうとした。男は冷たくふりはらい、すっと立ちあがった。
「おれ、もう帰るわ」
男は店から出て行った。さすがのイレーヌも落ちこむ。
ダヴィドが小さく、「黒猫、なにをいれたの?」
「私がそんなことをするわけないじゃない」
猫なで声の黒猫は、すましてパイプをふかした。
「それにワインをグラスにいれたのは、カウンターにいるあの娘だよ」
イレーヌは酒のならぶカウンターを見た。ある女の子が、ふいっと顔をそらした。
「……、あはは。ママがなにかいれるわけないじゃない」
猫なで声をまねて、イレーヌは屈託なく笑った。
「子猫ちゃん、きみ……」
ダヴィドがじっと見つめてくる。
「なに?」
「黒猫にそっくりだったよ」
「うふ。そんなことないよ、旦那」
また黒猫の真似するものだから、ダヴィドは笑った。
黒猫は、ダヴィドとイレーヌを静かにながめている。
ある晩のニドゥシャ。
ステージの上で、黒いドレスの黒猫が歌う。
「シャンソンシャンソン、私はあなたのシャンソン」
歌が終わると、客たちがパチパチ拍手し、口笛を吹いた。
店主のジョゼフは様子を見て、しぶい顔をする。
「黒猫のやつ、なんでまたあんな流行遅れのシャンソンなんざ」
店の女の子が、ジョゼフのほうへ寄っていく。
「ねえ店長」
「ん?」
「子猫が店長にお願いがあるんだって」
ステージの上から、客に投げキッスをする黒猫が、ジョゼフの様子を見ていた。
店の裏の暗がりでは、イレーヌが痛みをこらえながらしゃがんでいた。真っ赤なヒールをはいた足をさする。
毎晩女の子たちに踏んづけられ、靴はボロボロだった。
「ドレスも変えなきゃな」
ドレスも女の子たちにふんずけられたり、飲み物をかけられたりして、しょっちゅう汚された。洗濯してしのいできたが、シミができ、ほつれ、色落ちしてきている。
靴とドレスに手をあて、イレーヌは涙をぬぐった。
田舎の実家のクローゼットの奥にしまってあった、母の形見。ひと目見て、母がいたという都会のナイトクラブに憧れた。
田舎では親のない子といじめられ、さみしい思いをした。いいことがなにもなかった。憧れの、きらびやかな、母がいる想像の世界だけがなぐさめだった。
母の形見をバッグにつめこんで、イレーヌはその憧れへかけだしたのだ。
「ごめんね、ドレスさんに靴さん。ごめんね、ママ」
イレーヌが黄色の電球に照らされた店内に入ると、赤い壁の前に人だかりができていた。壁には布のかかった額縁がかけられている。
黒い唇にパイプをくわえた黒猫が、遠まきに人だかりをながめていた。イレーヌがちらりと見ると、黒猫はぷいっとそっぽをむき、ソファに座った。
イレーヌは人の中のジョゼフに声をかける。
「ジョゼフさん。それはなんの絵?」
ジョゼフは笑いながら、
「なんの絵って、おまえが用意したんだろ。世話になってる黒猫の絵がよく描けたから、壁にかけてくれと」
「え?」
「このあとのステージも楽しみにしてるからな」
「……なにそれ。あたしきいてない」
額縁にかかる布がはずされた。
「きゃあ」
「うわ」
絵を見た者が、男も女も悲鳴をあげてとびのいた。イレーヌもジョゼフも絶句する。
四肢や胴体がズタズタにひきさかれ、涙を流し、鮮血にまみれた金髪の女の、キュビズムのような絵。
「子猫、おまえ、なんのつもりだ」
「あたし知らない」
ステージの上で、華麗なピアノ演奏がはじまった。今日はずいぶんとクラシカルな曲だ。
立ちすくむイレーヌに、パッとスポットライトが当たる。
「な、なに?」
混乱していると、女の子たちが拍手をした。
「今日は子猫がオペラを歌うって」
「へ、へえ。子猫はオペラを歌えるのか」
客たちが取りなすように言った。
「なんのこと? あたしオペラなんか……」
「早くステージに行きなよ」
イレーヌは女の子たちに押され、ステージまでのぼらされた。
エレガントでゴージャスなピアノの伴奏が流れ続ける。イレーヌは声がでなかった。
オペラなんか歌えない。わからない。
「おい、子猫はどうしたんだ?」
イレーヌはステージの下をながめる。けげんそうな客の男たち。せせら笑う女の子たち。壁の残忍な絵。暗がりのソファで、ひとりパイプをふかす黒猫。
この晩、イレーヌの歌声がニドゥシャにひびくことはなかった。
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