第3話 時代遅れの流行歌
早朝のル・ニドゥシャの屋根裏。3段ベッドで、女の子たちがいびきをかきながら寝ていた。
化粧を落としたイレーヌが入り、一番下のベッドに倒れた。はあっとため息をつく。
「疲れた」
やっと眠れる。
あおむけになり目をとじた。
するとツカツカとハイヒールの音をたて、黒猫が部屋に入ってきた。ベッドのイレーヌの頬をピシャリとぶつ。
「痛。なにするのよ」
「あんたは新入りだろ。寝てる暇なんてないんだよ。店の掃除をしな」
3段ベッドの女の子たちが、横たわりながらくすくす笑っている。本当は起きているのだ。
イレーヌは口をとがらせ、むくりと起き上がった。
みんな、掃除を手伝ってくれてもいいのに。
店のテーブルをゴシゴシふきながら、イレーヌはふわあっとあくびをした。酒やら食べ物のカスがちらかっている。
「なんであたしだけこんなこと……」
トロトロふきんを動かしていたら、背中に熱い金属がおしつけられた。
「熱!」
鋭い痛みに飛びあがる。
振り向くと、黒ずくめの黒猫が金属のパイプをふかしていた。煙が立ち、熱々だ。
「トロイんだよ。これじゃ、あっというまに夜になっちまう」
黒猫はパイプの中のこげたカスを床に捨てた。黒のハイヒールでキュッキュッと踏み潰すと、出ていく。
イレーヌはうつむいた。
「うっ、うっ……」
うめきながら、
「うっ、うっはは。うははははは」
ふっきれるように、思いきり笑い出した。
「朝店にいるのはあたしだけ。ここはあたしだけのステージ。あたしはこの街で一番の歌手、子猫よ!」
両手を翼のように広げ、風を切ってくるくる踊る。陽気に歌った。
「シャンソンシャンソン、あたしは恋するシャンソン。憧れのあなた、あたしはあなたのためのシャンソン」
田舎者のイレーヌが、唯一知っている都会の流行歌。ぼやけた記憶の中の母が口ずさんでいた。
「憧れのあの人になるためのシャンソン」
歌詞を変えてみた。ステージの上でタカタカステップを刻み、派手にポーズを取る。
「イェーイ!」
そしてガクッとひざをつく。目が熱くなり、じわじわ涙がこぼれた。
ポタポタと、床に
「このくらい大丈夫だもん。あたし、絶対ママみたいになりたいんだもん」
冷えた指先で、勝手に濡れる目をゴシゴシこすった。
ドアの外には、黒いドレスの黒猫が立っていた。中ではわあっと、イレーヌが泣き声をあげている。
黒猫はふうっとパイプをふかす。
「シャンソンシャンソン。あたしは恋するシャンソン」
時代遅れの流行歌を小さく口ずさみながら、
昔の、朝の誰もいないステージで。田舎くさい
もう二度と会えないあの子。
じわりと勝手に目が濡れた。爪に黒いマニキュアを塗った指で、ごしごしこする。
夜のル・ニドゥシャは客でにぎわう。ピアノの伴奏にあわせながら、店の女の子たちが客の男たちとダンスした。
「お兄さんたち、ヴァイマルから来たの?」
「すごーい。どうりでとってもエレガントなのね」
彼女らは、団体の客とダンスをしながら楽しそうに話している。
「ねえ、あたしもまぜて」
やってきたイレーヌが身体をくねくねさせ、おべっかを使い言う。女の子たちは無視し、押しのけた。
イレーヌはやっぱり口をとがらせる。
「ふん。いいもん。シャンソンシャンソン」
ひとりで歌ってればいいもん。
誰もイレーヌの歌なんか聴いちゃいない。ステージのピアノの演奏にも合わない歌だ。
「ダサい歌」
嘲笑が耳に入った。
「つまんないの」
くらっとして、額をおさえた。歌うのをやめ、どかっと手近なソファに座る。
寝不足で頭がクラクラする。シャンソンでも歌わないと、気がめいりそうだ。
そこへ笑顔のダヴィドがやってきた。
「やあ子猫ちゃん。一緒におどろう」
「やった。ありがと、ダヴィドさん」
よくまわりもしない頭で、ダヴィドのゴツゴツした手をとり、立ちあがろうとした。
すっと、横から音もなくその手がさらわれた。白い手。黒いネイルの指。
「黒猫のママ」
闇夜のような黒いドレス、黒い口紅の黒猫が、にっこり笑ってダヴィドの男らしい手を握っている。
イレーヌは少し驚いた。
黒猫は猫なで声でダヴィドに言う。
「だんな。私をほおっておくの?」
「ええ? 黒猫にそこまで言われちゃあなあ」
ダヴィドは黒猫の白い指に自分の太い指をからませ、カップルになって踊った。
ぽつんとソファに取り残されたイレーヌ。黒猫は横目で
女の子たちも笑った。
「ざまあみろ。ダサいやつ」
黒猫たちをながめていると、イレーヌは寝不足もあいまって、倒れそうだった。
何ひとつ、うまくいかない。
このままでいいの? あたし。
ママだったらどうする? この街で一番人気の歌手だったらどうする?
ママだったら、きっとひとりでもみんなを楽しませたはず。
イレーヌは立ちあがった。
カッとスポットライトに照らされたステージに、躍りでる。ピアノ演奏と歌にあわせ、足踏みをし、ひとりダンスも始める。
ピアノ演奏者も、歌手も、女の子たも、客たちも、イレーヌを見てぽかんとした。しかもダンスはめちゃくちゃだ。みんなの注目をあび、イレーヌは恥ずかしくて、溶けて消えてしまいたかった。
でもやめない。
ピアノの演奏者が、気を取り直したように
歌手もピアノにあわせ、さっきより大きな声で歌った。
客たちも拍手をしたり口笛をふきながら、ピアノと歌にあわせ、優雅に踊る。
女の子たちは白い目でイレーヌを見ている。ピアノにあわせ、冷めたようにのそのそとダンスした。
ダヴィドも、ステージの上で光を浴びるでたらめなイレーヌに、じっと注目していた。
「いいな。あの子」
ダヴィドに放っておかれた黒猫は、ひとりでダンスをする。黒いハイヒールでカツカツとステップを踏み、くるっとターンをした。
店の主人ジョゼフがやってきて、声をかける。
「子猫はよくやってるな。おまえの教育がいいのか」
黒猫はおし黙り、またターンした。
客たちは、ステージの上のイレーヌに、「子猫、次の曲はおれと踊れ!」と、声をかける。
イレーヌは満面の笑みを作った。「はい!」と、黒猫がするように愛想よく投げキッスをする。
ステージから降りると、イレーヌは客とペアになり、陽気に腰を振って踊った。女の子たちも客とカップルになり、ダンスする。
イレーヌのカップルと、踊る女の子がすれちがった。すれちがいざま、イレーヌは
「調子はどう? 楽しいわね」
女の子がぎゅっと、足をハイヒールで踏んできた。
「……っ!」
さけびそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
お客さんの前だから。しらけさせちゃまずいわ。
足をふんだ女の子が、ちらりと壁際を見た。そこにはパイプをふかしている黒猫がいる。黒い唇でふうっと煙を吐き、にっと笑っていた。
黒猫がじろっと瞳を動かしホールを見渡す。女の子たちはみんな、イレーヌをさけるように踊った。
悟った。
黒猫のママが、女の子たちをけしかけている。
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