第2話 はじめての歌

 黒猫はいつも、黒のハイヒールをならして歌を歌う。ソファの客の男たちへ、満面の笑みで愛想あいそをふりまくのも忘れない。

 ほかの女の子たちも、それぞれ客とダンスをし、話相手をするのだ。

 真っ赤なドレスのイレーヌは、クラブのすみの壁に寄りかかっていた。

 黒猫はなにも教えてくれない。

 どうしていいかわからない。 


「ねえねえかわいい子猫ちゃん。ひとりでどうしたの?」

「え?」


 若い男に話しかけられた。男は黒猫みたいに、満面の愛想笑いを浮かべている。


「おれはダヴィド。北西の村からでかせぎに来たんだ。きみはどこから? でかせぎかい?」

「え、ええ。あたしも田舎いなかから来ました。おばあちゃんと牧場でくらしてたんだけど、家出したの。退屈だったし」

「わかるよ。田舎ってほんと、うんざりするよね」


 親近感がわいた。


「ねえ、踊らない? 歌もうたってあげる」

「お、いいねえ」


 イレーヌは笑顔でダヴィドをダンスにひっぱった。手をくみ、ステージの陽気なピアノ演奏にあわせ、陽気に腰をふる。

 ダンスなんて習ったこともない。ふりつけは適当だ。ダヴィドも適当にイレーヌの動きにあわせてくれた。

 慣れないが、店の歌手やダンサーとして、この男の相手をしよう。

 はやくママみたいになりたいもの。憧れに一歩近づいたかも。



 歌う黒猫は男たちにかこまれながら、黒い瞳でじいっとイレーヌを見ていた。



 イレーヌはダヴィドと踊りながら話す。


「田舎っていやなところ。みんなと違う子はすぐいじめられるもの。あたしもおばあちゃんに育てられてるってだけでいじめられたの」

「ふーん。お父さんやお母さん?」

「パパはいないわ。ママはあたしが小さいときに死んじゃった」

「かわいそうだね。おれでよければ力になるよ」

「うふふ。ありがとう。でもね。ママはマリアンヌって名前なんですけど、このまちで夜の仕事をしてたんですって。歌だけが取り柄のあたしのママですもの。きっと大人気の歌手だったに違いないわ。だからあたし……」

「憧れてこのまちに来たってわけかい」


 黒猫がすっと、イレーヌとダヴィドの横へやってきた。咥えたパイプをふかしている。


「黒猫のママ?」


 ダヴィドは黒猫を気にもとめず、うんうんとうなずいた。


「お母さんを追ってこの街に来たのは正解だったよ。この街は女の子がたりていないナイトクラブがたくさんある。もっといろんな楽しいこともあるしね」

「へえ、どんなこと?」

「ふふふ。きみは人生で一番大事なことってなんだと思う?」

「そんなのわかんない」

「今を一番楽しくすることさ。たとえば……」


 ステージの上のシャンソンとダンスがおわり、拍手と口笛がなりひびいた。

 黒猫はステージを指さし、猫なで声で、「子猫や。ステージで歌ってきな」

「え? でもあたし、練習してませんよ」

「今が練習だよ。歌ってのはね、うまい下手だけじゃないよ。人を楽しませられないなら、歌手なんかやめちまいな」


 ダヴィドが楽しそうに手をたたいた。


「子猫ちゃんの歌、聞いてみたいな」

「そう?」


 しかたなくイレーヌは、しぶしぶステージにあがった。

 拍手がなり、ピアノ演奏がはじまる。

 どうしよう。

 もじもじした。声がでない。

 客らは首をかしげた。しらけたようにパイプのタバコをふかしている者もいる。

 楽しくなさそう。

 黒猫が、黒い口紅をひいた口角を、にぃっとあげた。

 黒猫のママ、あたしがうまくいってないのをよろこんでる?

 イレーヌは首をふった。

 あたしはママみたいになりたいのに。

 ママだったらどうする?

 ママは街で一番の歌手だったのよ。


『歌ってのはね、うまい下手だけじゃないよ。人を楽しませられないなら、歌手なんかやめちまいな』


 そうよ。ママはきっといつでも歌でお客さんを楽しませたのよ。あの黒猫みたいに。

 イレーヌは黒猫の歌い方を思いだし、歌声を出した。いい加減で、調子はずれだ。

 はじめは小さく、しだいに大きく。



 子猫のたどたどしいが、一生懸命な歌に、客たちがはげますような拍手を送った。

 ソファからステージを見るダヴィドが、黒猫につぶやく。


「あの子、なかなかすじがいいんじゃない?」


 黒猫は黒い唇でパイプを咥えながら、歌うイレーヌを見つめた。

 ステージの下の女の子たちは、いやそうな顔でイレーヌをながめる。


「ダサいやつのくせに。調子のってる」

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