第1話 ナイトクラブ ル・ニドゥシャ

 とある西の地域の、とある時代。

 アルファベットを用いるその地域全体は、機械化により産業が発達しだし、社会は前時代の宗教的価値観から脱出した。

 生活が豊かになり、今や労働者や女性も権利を主張する。

 最もその分、貧富ひんぷの差が広がっていた。困窮こんきゅうした人々は路上で寝るか、乞食こじきをするか、デモにまじって気をまぎらわせた。

 華やかな街並みの裏では、極右ごくう政党せいとうが、はやりの芸術家の筆に描かせた宣伝ポスターを貼った。麻薬も広まっている。売春のせいで性病も蔓延まんえんしていた。

 東の国境地帯では、戦争も頻発ひんぱつしている。


 

 ナイトクラブのたちならぶ夜の歓楽街かんらくがいは、人でにぎわっていた。街のあかりは、そっけない白色灯だけ。それがぞくな店が乱立する街を、落ちついた上品なものにみせていた。

 麻薬の売人や、はだけたドレスの売春婦が、カモを喰らおうと、そのあたりをうろうろしている。


「シャンソンシャンソン。あたしは恋するシャンソン。……わあ。ピカピカで人がいっぱい。村じゃ見たことない」


 15歳の少女、イレーヌは、鼻歌まじりにそわそわと街をながめていた。金髪のくるくるしたくせ毛。そばかすだらけの血色のいいふっくらした頬。派手で安っぽい真っ赤なドレス。唇にはぼてっとした真っ赤なルージュ。

 いかにも田舎娘のおのぼりさんといういでたちだ。

 イレーヌはポケットから紙きれをとりだした。


「ル・ニドゥシャ。おばあちゃんのメモに書いてあったお店の住所はこのあたりだけど。……あ。あった」


 あるナイトクラブの前で立ち止まった。

 中からは、歌声や、ダンスのステップの音や、人の楽しそうな笑い声がきこえる。

 イレーヌの目には、街のすべてがキラキラと輝いてみえた。


「あたし、ここでママみたいな歌手になるの」


 憧れの街。憧れのくらし。憧れの店。それから憧れのママ。

 田舎からでてきた家出娘イレーヌが持っていたのは、未知に対する憧れだけだった。



 

 ナイトクラブ、ル・ニドゥシャ。真紅の壁。黒い天井。房のように垂れさがる、暖色のライト。

 ソファに座る客の男たち相手に、店のドレスの女たちがしゃべったり踊ったりする。

 ステージでは、ピアノ演奏がなされていた。

 ピアノの横で歌うのは、闇夜やみよのような黒髪に、スレンダーラインの漆黒しっこくのドレスの、美しい女だった。黒色の口紅をひいた唇から、流れるような歌声をはきだしている。

 歌が終わると、客の男たちが拍手した。


「ブラボー! 黒猫くろねこ


 ナイトクラブのすみ。真っ赤なドレスに真っ赤な口紅の、やぼったいイレーヌは、目を猫のようにひらき、興奮して拍手をした。


「わあ。じょうずだわ」


 ドレスを着た店の女の子が、イレーヌの前を通った。


「こんばんは。あたしイレーヌ」


 女の子はじろりと、イレーヌを頭のてっぺんから爪先まで見る。だまって仲間の女の子たちのほうへ行ってしまった。

 かたまった店の女の子たちは、イレーヌをちらちら見、くすくす笑う。


「ダサいやつ」


 イレーヌは口をとがらせた。


「やな感じ」


 そこへ店主の男、ジョゼフが、となりにやってきた。


「おまえさんがイレーヌ? 電話をくれた」

「はい。そうです。あわてて切っちゃってすみませんでした。電話が村に一個しかなくて、おばあちゃんに見つからないようにするのがたいへんだったんです」

「まあいいさ。電話で一言おまえの声をきいたら、才能があると感じたからな。見込みがある」

「えへへ」

「おまえはあの黒猫の娘分として働け。店で一番人気歌手だぞ。シャンソン以外にダンスも教わるといい」

「はーい」


 ステージの上の黒い髪に黒いドレス、黒い口紅の女、黒猫が、イレーヌをまっすぐ見た。

 どきりとする。

 黒猫は真っ黒なハイヒールをツカツカならし、こちらへ来た。

 イレーヌは精一杯笑顔を作り、頭をさげた。


「よろしくおねがいします。黒猫のママ」


 黒猫はこたえず、パイプをふかし、ふぅっとけむりをはく。

 不安になった。

 あたし、へんなこと言っちゃったのかしら。

 黒猫はジョゼフに、「この子の名は?」

「あたし、イレーヌです」


 ジョゼフは笑った。


「ちがうちがう。ニックネームだよ。そういえばまだ決めてなかった。黒猫の娘分だから、子猫でどうだ?」

「ええ? そんな名前じゃいや。もっとかっこいい名前がいい」

「まあ、名前なんざすぐかえられるさ。そんじゃ黒猫、子猫をたのんだぜ」


 ジョゼフは黒猫の肩をぽんぽんとたたき、店の奥へ行ってしまった。

 イレーヌは愛想笑いした。


「黒猫のママ。あたしなにからはじめたらいいですか? まず歌えばいいですか? あたし、歌だけが取り柄なんですよ」


 黒猫は黒い唇でパイプを軽く咥え、ふいとそっぽをむいた。ソファでくつろぎながら歌やダンスをながめている、客の男たちのほうへ行ってしまう。

 イレーヌは肩を落とした。


「あたし、きらわれちゃった?」

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