第6話 家族②
「モモー! どうしたのー!?」
家の中から大きな声がした。博士は慌てて特殊シートで体を包む。玄関の引き戸を開けて、家の中から小さな女の子が出てくる。前髪をピンで止めておでこを出し、後ろ髪は2つに分けて結んでいる。博士は少女を見てはっと息を呑む。
「そう、これが私の本当の顔」
この少女は25年前の、この日10歳になったばかりの博士だ。
少女はモモの頭を撫でながら話しかける。
「なんで誰もいないのに吠えてるの? お昼ごはん食べたら、ちゃんと散歩に行くから大丈夫よ!」
モモは嬉しそうに前脚を少女にかけて飛び跳ねている。
――『あなたは今夜、事故で顔に怪我をするの。夢を絶たれて、つらいことがたくさんある』
透明になった博士は、幸せそうな過去の自分を、静かに見つめている。
――『けれど大丈夫よ。私があなたを守ってあげるから』
モモは博士がいなくなった事に気が付いたらしい。博士がいた辺りを不思議そうにキョロキョロと見回している。
「ハナー! ちゃんとお昼ごはんを食べなさい!」
家の中からまた大きな声がした。大声で自分の名前を呼ばれて、博士はドキッとした。
「モモが鳴いてるから心配だったの! すぐ行くー!」
少女も大きな声で返事をする。
「じゃあモモ、もう少し待っててね」
そう言って少女は家の中に戻っていった。
――『さっきのはお母さんね、びっくりしたわ。昔のお母さんはどんな感じだったかしら?』
博士はそっと玄関の引き戸を開ける。鍵はかかっていない。モモだけがクンクンと匂いを嗅ぎながらこちらを見ているが、止める気はないらしい。
博士はそっと家の中に入った。玄関を入ってすぐには土間があり、その突き当りにキッチンがある。幸い、キッチンの引き戸は開いたままだ。中を覗き込むと、先ほどの少女がテーブルで食事をしており、近くでその少女の母親がお菓子を作っている。
――『お母さんは、いまの私と同じ位の年齢かしら?』
博士は自分の記憶よりもずっと若いお母さんの姿に少し驚いた。少女がいるテーブルの上には、ご飯、スープ、豚の生姜焼き、サラダ、ヨーグルト、それにミカンが載っていた。それを見て、これだけ作るのは手間もかかるだろうなと博士は思った。博士は料理がほとんどできない。お母さんは、掃除や料理など、家のことをほとんど全て一人でこなしていた。この頃にもっとありがとうと伝えておけばよかったなと博士は思った。未来の博士とお母さんはあまり仲が良くないし、別々の場所で暮らしているので話をする機会もそれほどない。
お菓子を作りながら、お母さんが少女に話しかける。
「お父さん、ハナの誕生日くらいはずっと家にいてくれればいいのにね」
言い方に少しトゲがあるな、と博士は思った。
「お父さんはお仕事頑張ってるから仕方ないの。それに今日は帰りにプレゼント買ってきてくれるって言ってたよ」
少女が弁護するように答える。
お父さんは大学で働く生物学者で、自分の研究の世界に生きている人だった。帰ってくるのはいつも遅かったし、土日でも時間があれば大学に行って研究を続けていた。家にいるときも、自分の部屋で仕事をしていることが多く、子供の頃に遊んでもらった記憶はほとんどない。
そんなお父さんを、お母さんはあまりよく思っていなかった。いつも自分よりも家族や周囲に気を配っていたお母さんには、家族よりも仕事を優先しがちなお父さんの姿勢が受け入れられなかったのかもしれない。博士は子供の頃、まだ事故にあう前にも、「もう少し娘のために時間を使ってほしい」というお母さんと、「娘のためにも仕事が大事なんだ」というお父さんが、口論するのを何度も聞いた覚えがある。自分のことで両親が口論するのを聞くたびに、とてもいたたまれない気持ちになったことを覚えている。
しかし今の博士にも、どちらか一方が間違っているとは思えなかった。博士は、いつも自分を気にかけてくれるお母さんも、何かに一生懸命に取り組んでいるお父さんも、どちらも好きだった。
「今日は私がお父さんを大学に迎えに行くから、家にいなくてもいいの。お父さんびっくりするかな?」
少女は続けてお母さんに答える。お母さんはちらりと少女を見て、お菓子作りを再開した。
この日の夜、少女は一人でバスに乗ってお父さんの職場に向かう。その途中で少女の乗ったバスが事故を起こす。大きな事故だったが、負傷者はこの少女一人だった。
「あなたが家にいれば、こんなことにはならなかった」
事故の後、顔に大きな怪我を負った娘を見て、お母さんはお父さんを責めた。お父さんは何も言い返せなかった。その後お父さんは、ますます自分の世界に閉じこもってしまい、家族に姿を見せる事も少なくなった。結局、中学3年生の時に2人は離婚してしまう。
――『若いときのお父さんにもちょっと会いたかったな。もう長い事会っていないし』
博士はこの日も自分の研究をしているお父さんのことを考えた。
――『顔の傷がなくなったら、お父さんに会いに行って安心させてあげよう。今も自分を責めているだろうから。私は大丈夫だよって言ってあげよう』
博士はキッチンの少女を見た。食事が終わるまでにはまだ時間がありそうだ。
――『次は自分の部屋を見てみよう』
博士は音が鳴らないように気を付けながら階段をのぼる。それでも階段に脚をかけるたびに、小さくギシリと音がなる。古い家なので仕方がない。階段を上って左側に博士の部屋がある。
――『どんな部屋だったかな? もう全然覚えていないわ』
こうして透明になってコソコソと家を歩くと、少しいけないことをしているようで、ちょっと楽しいなと博士は思った。
博士は扉をそっと開け、少女の部屋に入る。七畳ほどの部屋にはベッドと机、本棚がいくつかある。本棚の置いてあるのは漫画ばかりで、床には数冊の漫画がちらばっている。
当時から片付けは苦手なようだ。外国アニメのポスターやぬいぐるみもたくさんある。
目についたのは、壁にかかっている紫色のドレスだ。博士は、誕生日になるとお母さんが毎年プリンセスを模したドレスを買ってくれたこと、それを着て家族で写真を撮っていたことを思い出した。
――『これが私の着た最後のドレスになったわね』
悲しい思い出がよみがえって、思わずため息が出る。顔に怪我をした後、一人でこのドレスを着て鏡を見た。アニメでは、悪い魔女など悪役の顔は醜く描かれることが多い。プリンセスに憧れていた少女は、自分が物語の悪役になってしまったと感じ、とても大きなショックを受けた。お母さんが買ってくれたドレスは、全て捨ててしまった。
――『自分が失くしたものを確認しただけだったわね』
博士は中学生の時に、〈生き物が生きる意味〉についてお父さんに聞いた時のことを思い出した。
「子孫を増やすことが生き物の目的で、子供を産まない生き物には価値はないの?」
不安そうに尋ねる少女にお父さんは答える。
「一般的にそう説明されることが多いし、〈生き物は遺伝子が増えるための乗り物にすぎない〉という説もある」
少女の顔が恐怖で青ざめる。
「ただ、それらの説が正しいかは誰にも証明できない」
「それに、生き物がどのようにデザインされているかと、人がどのように生きるかは、全く別の問題だよ」
お父さんは少女の目をまっすぐに見つめた。
「どう生きるかは、人生の意味は、それぞれの人が好きに決めていいんだ。ハナも、どんな人になりたいか、何をしたいのか、自由に考えていい。何も諦める必要はないんだよ」
そういってお父さんは少女を抱きしめた。お父さんが泣いているのを見たのはこの日が初めてだった。
――『お父さん、心配しなくても大丈夫よ。私は強くなったから。私が全て元通りにするから。そう、この日の事故さえ防げば、この傷を消せば、きっと全て良くなる』
博士は自分のすべきことを確認し、決意を新たにした。
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