第5話 家族①
博士が中学3年まで過ごした家は、昭和の中頃に建てられた2階立ての古い家だ。敷地は300坪程度あり、半分はミカン畑になっている。この地方ではそれほど珍しい広さではないが、都心のマンションで一人暮らしをしている現在の博士には、とても広く感じる。
――『この家に帰ってくるのも久しぶりね』
博士の両親は中学3年の時に離婚し、博士はお母さんの実家がある東京に引っ越した。両親が離婚した後も、お父さんに会いに時々来ていたが、この10年は一度も帰っていなかった。
家の敷地に面した道路から歩いて入っていくと、正面にお父さんとお母さんの3人で暮らした大きな家が見える。その玄関のすぐ脇には、全体が黄色に塗られた犬小屋がある。
博士が子供の頃に、自分で色を塗った犬小屋だ。少し近づくと、小屋の中から「ワン」っという声がして、小さな柴犬が顔を出した。
「モモ!」
博士は思わず声を出してしまった。犬は驚いた様子で、上半身だけを犬小屋から出して、博士がいる辺りをキョロキョロと見まわしている。博士が透明なので気がついていないようだ。
「番犬として働いて欲しかったけど、この子は臆病だからその役割は期待できないな」
そう言ってお父さんが笑っていたのを博士は思い出した。けれど、博士が今日まで生きてこられたのは、この臆病な犬のおかげなのだ。博士がこの日にやりたかった事の1つは、博士の命を救った、この大切な家族ともう一度会う事だった。
博士は周囲に誰もいない事を確認し、体を覆っていたシートを外した。モモは突然目の前に人が現れて困惑した様子だったが、クンクンと匂いを嗅いだ後、小屋から出てきて、博士に向かってしっぽを振り始めた。
「モモ、私が誰だかわかる?」
博士はモモに近づいて小さな声で話しかける。モモは大きな声で「ワンワン」と2回吠えて答えた。
博士は中学生の時、一度だけ生きる事をやめようとしたことがある。中学校ではいくつかの学区から子供たちが集まるため、小学生の時には知らなかったクラスメイトが増えた。
そのため、顔の傷をからかわれることが増えた。
「どうしてそんな顔になったの?」という悪意のない質問。遠慮がちに視線を顔から外す同級生。すれ違った時にヒソヒソと聞こえる笑い声。それらはどれも、少女の心を傷つけた。
そして少女にとって何よりも苦しかったのは、〈自分は誰からも選ばれないかもしれない〉という恐怖だった。少女はおとぎ話のような恋愛にずっと憧れをもっていたし、それは同級生の女の子たちにとっても大きな関心ごとだった。「〇〇君は〇〇さんが好きらしい」とか、「〇〇さんはどんな男の子が好き?」といった同級生の会話には加われなかったし、少女に話が振られることもなかった。
ある時には授業の休み時間に、クラスメイトの男子たちがふざけあって、
「お前はブサイクだから〈アレ〉じゃないと釣り合わないぜ」
と話しているのを聞いた。言われた男子は、
「嫌だよ。〈アレ〉はさすがにないでしょ。せめて普通の子がいい」
と答えていた。
――『アレとは私のことで、どうも私は普通ではないらしい』
顔に大きな傷跡のある少女は、教科書をギュッと握り締めて、ずっと本を読んでいるふりをして耐えた。少女は憧れていた恋愛からは完全に締め出されていた。おそらく男の子から選ばれることのない少女は、自分がおとぎ話のプリンセスから最も遠い場所にいることを、この時にははっきりと感じていた。
ある日、少女は学校の理科の授業で、〈生き物は子孫をたくさん残すために生きている〉と習った。それを聞いた少女は思う。
――『誰からも選ばれない私は、子供を産むこともないだろう。つらいことがたくさんあるのに、私は何のために生きているんだろう?』
その日、少女は、学校からの帰り道も、家に帰ってからも、ずっと自分の価値や必要性について考えていたが、どうしても自分に〈生きている意味がある〉とは思えなかった。
少女はふと窓をあけて外を見る。
――『私には生きている意味なんてないんじゃないか? 私がいなくなれば、お父さんもお母さんも、私のことで苦しまないですむ』
窓から屋根の上におり、地面を見下ろす。少女にはそれはとても簡単で、自然のことのように感じた。
その時だった。屋根の下から、「ワンワン!」と突然大きな鳴き声が聞こえた。
見ると、下でモモがこちらに向かって激しく吠えている。少女はモモが大きな声で吠えるのを初めて見た。少女が驚いて見ていると、モモは首輪を外そうと必死にもがいている。
――『私を止めようとしてくれているの?』
首輪が外せないことが分かったモモは、今度はクンクンと悲しそうな声で鳴きながら少女を見上げている。
「・・そうね、私がいないと、モモと遊んであげられないもんね」
少女は窓から部屋の中に戻り、そのまま玄関を出てモモの所に向かった。少女の姿を見てモモは嬉しそうにしっぽを振ったが、少女が抱きしめると、またクンクンといつまでも鳴いていた。まだ少女のことを心配しているようだ。
「大丈夫よ。モモがいなくなるまでは、生きているって約束するわ」
少女はモモに優しく語りかけた。するとモモは大きな声で「ワンッ」と鳴いた。
少女が生きる事にしたのは、この小さな犬が彼女を必要としてくれたからだ。そして当時の少女は今、強く生きる意志を持ってここにいる。
「モモ、私はもうすっかり大人になったのよ!」
博士はモモに話しかける。
「今日は自分を救いに来たの! 昔は泣いてばかりいたのにね。ずいぶんたくましくなったでしょ?」
もちろんモモには何の話かわからないはずだが、モモは、構ってもらえて嬉しくてたまらない、といった様子で飛んだり吠えたりしている。
モモは、博士が高校生の時に死んだ。
高校生になった少女とモモはお母さんの実家で暮らしていた。高齢になったモモは、後ろ足がほとんど動かなくなり、ほとんど這うようにして移動していた。散歩が好きだったモモは、歩けなくなっても少女に散歩をせがんだ。希望を叶えてあげたい少女は、モモを荷台に乗せて散歩に連れて行った。当時、学校や図書館に行くこと以外で少女が外出するのはこの時位だったかもしれない。道行く人も、「かわいいわね」と少女に声をかけてくれた。
モモは最後にはとても衰弱し、食事もほとんどとれなくなった。獣医は「加齢による衰弱です」と言い、安楽死を進めた。少女は悩んだが、それはやめてほしいと母と獣医にお願いした。苦しくても、モモが生きようとしていることが少女には分かっていたからだ。動物病院から家に戻り、部屋の中でタオルの上に横たわったモモは、窓の外に見える景色を見つめている。体は全く動かないが、少女を見るとクンクンと鼻を鳴らした。こんな状態になっても、散歩に行きたがっていることが、少女には分かった。
モモは最後まで生きようとしていたし、自分のしたい事をしようとしていた。モモの行動は、〈動物には生きる事について考え、悩むことができる知性がないから〉と解釈することもできる。しかしそんなモモの姿を見て少女は、それが生きる事に対するまっとうな姿勢のように感じて、「私もこんな風に生きたい」と思った。
「大丈夫よ、モモ。私はもう、ちゃんと生きていけるから」
少女が声をかけると、もう声も出せなくなったモモは、少女の瞳をじっと見つめていた。翌日、少女が目覚めるとモモは冷たくなっていた。満足そうに眠っているように見えた。つらいことや悲しいことは、モモがいなくなった後もたくさんあった。その度に、モモが生きようとしていた姿が目に浮かんで、博士はこの日まで生きてこれた。
博士は、嬉しそうに飛び跳ねるモモをぎゅっと抱きしめる。
「モモ、もう一度会えて嬉しいわ。私に生きることを教えてくれてありがとう」
博士が話しかけると、モモは小さく鼻を鳴らした。
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