第7話 指輪
「ハナ―! ハルト君が迎えに来たわよ!」
階段の下からお母さんの声が聞こえる。
「はーい!」
少女の元気な声と、バタバタと用意をする音が聞こえてくる。ハルト君は近所に住む幼馴染で、週末は彼の犬とモモとよく一緒に散歩をしていた。少女が慌ただしく階段を下りて行った後、博士もそっと階段を下りる。キッチンを覗くと、お母さんはちょうどケーキを焼くところだった。玄関の外からはモモとハルト君の犬がキャンキャンとはしゃぎ合う声が聞こえている。
「お母さん、行ってきまーす!」
少女の大きな声が聞こえる。
「車には気をつけてね」
お母さんはキッチンから返事をした。
玄関の外から人の気配が消えると、博士はそっと扉を開けて外に出た。博士は早足で2人を追いかける。家の敷地から道路に出ると、少し先に少女とハルト君、そして2人を引っ張るように2匹の犬が歩いていた。
ハルト君はとても小さく、隣を歩く少女よりもずっと背が低い。少女も背が高い方ではないが、少年の頭の位置は少女の肩より少し高いくらいだ。前方を行くモモの隣には、ハルト君の黒い小さなダックスフンドが並んで歩いている。近づくと、2人の会話が聞こえてくる。
「今日は、あとでお父さんに会いに行くの。1人でお父さんの大学まで行くのよ」
「どうやって行くの?」
ハルト君が尋ねる。
「バスに乗るのよ。1人で乗るのは初めてだけど、前にお父さんと乗ったことがあるから大丈夫」
少女が少し得意げに答える。
「すごいね。僕は電車もバスも1人で乗ったことがないな」
「今日で10歳になったから。お父さんから、1人でできる事を増やしていこうねって言われてるの。そうすると、大人になった時に、自分のしたいことを自分でできるようになるんだって」
二人は商店街の中を歩きながら話を続ける。ときおり、モモだけが博士がいるあたりをチラチラと振り返っている。
「ハナちゃんは大きくなったらどんな事がしたいの?」
ハルト君が聞いた。
「それはたくさん考えたの。えーと、まず大人になったらいろんな場所に行ってみたいわ。だって、私はまだこの町から一人で出たことがないもの。この町の外にも、いろんな場所があって、そこでしか見られないものがあるんだって。だから、とりあえず世界を一周したいな。あと遊園地にもたくさん行きたい。前にお父さんとお母さんに連れて行ってもらったけど、すごく楽しかったの。動物園も好きよ。だからいろんな動物園にも行きたいわ。あと最近、テレビでスカイダイビングしている人を見たの。すごく高いところからは何が見えるのかな。私もやってみたいな。それに、かまくらも作ってみたい。ほら、この辺りって雪があまり降らないじゃない。だから、たくさん雪が降る場所に行って作ってみたい。あと・・」
隣の少年は時々少女の顔を見上げ、うなずきながら話を聞いている。
一方的に話す少女を見ていて、博士はハラハラする。〈会話は相手の反応を見ながら進めるもの〉というのが、博士や大人の世界では常識だからだ。
「あ、あと美味しいケーキが食べたい。お母さんが、フランスって国で食べたケーキが美味しかったって話していたの。私もフランスで美味しいケーキを食べたい」
――『長かったわ。それにしても私は、今この子が言ったことを一つもやってないわね』
博士は思わず苦笑いする。
――『それにしても、この子は本当に私かしら。自分の話ばかりするわね。もう少し相手に気をつかわないとダメよ。それとも、今の私が人を気にしすぎなのかしら』
「けどやっぱり一番は、プリンセスみたいになること」
少女がはっきりと言う。それを聞いた博士の胸がギュッと苦しくなる。
「もちろん本物のプリンセスにはなれないのは分かってるけど。なんていうか、憧れるの。すごくキレイで、キラキラしていて。私もあんな風になりたい」
「ハルト君は?」
少女はやっと少年に話を振る。
「・・僕は大きくなりたいかな。背が低いから、からかわれることも多いし」
少年は恥ずかしそうに答える。
自分の希望をはっきりと言う相手に対して、誠実でなければいけないと思ったのだろうか。自分の傷(コンプレックス)をさらけ出すことは、人に夢を語るよりも勇気がいることだ。博士は、この少年はやっぱり優しいなと思った。実際、彼は少女が怪我をした後も、小さな体で何度も彼女を守ってくれた。
しばらくして二人は花畑の広がる公園についた。時計台の針は十四時を指している。二匹の犬は、自分たちのお気に入りの場所に来られて、嬉しそうに飛び回っている。ハルト君が立ち止まり、ポケットから小さな箱を取り出し、少女に差し出す。
「あの・・、これ・・。」
「私に?」
少女は少し驚いて聞き返す。
「・・ハナちゃん誕生日だから。それじゃまたね」
少女が小箱を受け取ると、少年は恥ずかしいのか、すぐに立ち去ろうとする。「ほら、もう帰るよ」と少年は自分の犬に呼びかけると、足早にかけていった。
「ハルト君ありがとう!」
少女は去っていく少年に声をかけたが、少年は振り向かずに手を振って返事をした。少年が去ると、少女はその場でもらったばかりのプレゼントの包みを開けた。
「わぁ、かわいい!」
少女が思わず声を上げる。中には、小さな金色の指輪が入っていた。もちろん金メッキで、雑貨屋で売っている、子供が買える金額のものだ。ただ十歳の少女にとっては、男の子からもらったはじめての指輪だ。しかも金色にキラキラと輝いている。
博士はこの日、この光景をもう一度見たかった。男の子からプレゼントをもらう事は、この日を最後に無くなってしまった。
――『私にもこんな瞬間があったのね』
本当に自分が指輪をもらったことを、もう一度確認したかったのだ。
「見て、モモ! キレイでしょ!」
少女が左手の薬指にはめて見せる。モモもワンワンと嬉しそうに飛び跳ねる。少女がとても嬉しそうなので、自分も嬉しくなっているのだろう。
「モモ、私たちも帰ろ!」
モモは不満そうにキャンキャンと抵抗したが、少女に引きずられて公園を後にした。少女は指輪を眺めながら帰ったが、家の前で外して、小箱に戻した。お母さんに見られるのが恥ずかしかったことを、博士は思い出した。
ハルト君は少女が怪我をした後も、変わらずに少女に接してくれた。中学生になり、少女がクラスメイトに顔の傷をからかわれていたときには、小さな体で「やめろ」と怒って止めてくれたこともあった。
少年の態度は一貫していた。変わってしまったのは少女の方だった。自分のしたいことをして、思ったことを口にしていた少女は、他人の反応に怯え、他人に馬鹿にされない事を目標に生きるようになった。
中学生の時に、少女はハルト君がクラスの女の子と仲良さそうに手をつないで歩いているのを見た。少女は、もし自分を迎えに来てくれる人がいるとすれば、それは彼だと思っていた。その時から、少女は誰かが自分を迎えに来てくれることを期待するのを諦めた。
しばらくして、少女はお母さんの実家がある東京に引っ越す。引っ越しの日、ハルト君が見送りに来て、「また会おうね」と言ってくれた。「ありがとう」と少女は答えたが、彼の目を見ることはできなかった。それ以来今日まで、ハルト君には会っていない。博士にとって、これが最初で最後の恋の思い出だ。
――『この顔の傷がなければ、あの引っ越しの日に、思っていたことをちゃんと言えたかしら?「どうして他の女の子を選んだの? 私がこんな顔だからいけないの?」って』
この日、25年前の自分を見た博士は、この少女だったら怒って指輪を少年に投げつけるだろうなと思った。この時にもらった指輪は、ずっと机の引き出しに保管してある。大切な思い出だからと自分に言い聞かせているが、捨てられないのは自分の弱さかもしれないとも感じている。
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