10.魔法の終わり
マリーにできたことは、大人しくしていること、明日には足が元通りになっているよう、祈ること、それだけでした。
嬉しいことに、陽が沈んで世界が夜の静寂に包まれて、そして空の彼方から朝の爽やかさが溢れ出たとき、足の痛みはすっかりなくなっていました。
さあ、今日こそ花桟橋祭りへ。鏡の前でマリーは念入りに身支度をします。服に汚れはついていないか、寝癖は一つもないか。そればかりを見ていたために、ペンダントの異変にはちっとも気付きませんでした。
部屋まで迎えに来たジェフと共に、街へ繰り出します。向かうは海へ伸びた大桟橋、ガーデン・ピアです。
コラリリタウンのお祭りは今日が最終日。どこも賑わっています。あちこちから、軽快な音楽が、楽しそうな声が、幸せの音が聞こえてきます。咲き誇っていた花々も日の光に今日も眩しく輝き、けれども、その裏で既に枯れてしまった花は影に隠れて見えません。
人の多い大通り。ジェフははぐれないよう、マリーの手をひいてくれます。
「こんなにも人が多いと、わくわくしてきちゃうね」
彼は振り返って笑いますが、その表情を強張らせます。
「でもやっぱり緊張しちゃうな。マリーは?」
「私も、緊張しちゃうわ」
何故なら、ついにジェフと踊ることができるのですから。
しかし光が差せば影ができるかのように。マリーの胸中で深海に潜む冷たい影に似た何かが、頭をもたげます。
ついに夢が叶いますが、これまでの道のりは嘘ばかり。昨日より濃さを増した罪悪感は、まだそこに潜み続けていたのです。
と、そう考え事をしながら歩いていたせいでしょうか、マリーはふら、とよろけます。転ぶほどではありませんでしたが、すぐにジェフがマリーを支えました。
「マリー、大丈夫? もしかして、本当はやっぱり足が痛い?」
「ううん、大丈夫よ!」
マリーは誤魔化しの笑みを浮かべますが、ジェフは彼女の様子が少しおかしいことに気付いたようです。じっと、海色の瞳を見つめます。だからマリーは誤魔化しに誤魔化しを重ねます。
「お祭りが今日で最後なんだなって思うと、ちょっと寂しくて」
そう答えれば、ジェフは瞬きをしました。お祭りの最終日ということは、これで全てがおしまいになるのです。この賑わいも、明日にはもうなくなってしまっているのです。
とはいえ、淡い珊瑚色の街コラリリタウンは観光地。お祭りが終わっても、ある程度賑わったままでしょうが。
「僕も、少し寂しくなるな」
ジェフも少しだけ、視線を落としました。
「お祭りが終わったら、マリーはこの街を出て行っちゃうから」
言われてマリーははっとします。忘れたわけではありません。「マリー」はこのお祭りのためにやってきた観光客です。お祭りの終わりは、つまりマリーの旅立ちでもあるのです。
でも、とジェフは笑顔を向けました。
「でも、ここでお別れしても、また会えるよね」
そのために、花桟橋祭りへ向かうのですから。
秋にまた、会えるように。
絆を結んだのなら、きっと。
ところが、まるで重たい何かがのしかかってきたかのように、マリーが気怠さを感じたのはそのとき。激しい気怠さです。あたかも大きく揺さぶられているような。荒波に巻き込まれてしまったかのような。
たまらずマリーはふらついて、今度はその場に座り込んでしまいました。驚いたジェフが名前を呼んでいます。周囲の人々も、なんだなんだと視線を向けます。
マリーには、何が起こっているのかわかりませんでした。ただひたすらに身体が重く、どうも言うことを聞かない。まるで浜辺に打ち上げられて動けなくなった魚の気持ちです。
そう思って、気付きます。
「魔法が……」
老夫婦にもらった、魔法のペンダント。そのターコイズの青色が、すっかり消え失せてしまっていることに。いまでは骨のような白さです。
老夫婦は言っていました。
魔法の効果は、五日間だと。
今日は少女の姿になって、何日目だったでしょうか。
手足の先から、感覚がなくなっていくのがわかります。魔法の期限切れです。このままマリームーンに戻るのだと察して青ざめます。こんなところで戻ったのなら。それよりも。
「マリー! マリー! どうしたの、大丈夫?」
それよりもいまは、ジェフが一緒にいるのです。
いま元に戻ったのなら、砂で作ったお城が波に呑まれるように、全てが終わってしまいます。
このままでは。このままでは。マリーはついにぽろぽろと泣き出してしまいます。もう、どうしたらいいのかわかりません。もう、できることが見当たりません。
果てに彼女は、重たい身体を引きずるようにして起こしたかと思えば、転がるように走り出しました。
ジェフのいないところへ。ジェフに正体がばれてしまわないように。
人にぶつかりながら、壁にぶつかりながら、なんとか走っていきます。
「マリー! 待って!」
しかしジェフはもちろん追ってきます。もう限界のマリーに、彼を振り払う術はありません。
逃走の果てに、マリーはついに道をなくしました。
マリーが辿りついたのは桟橋でした。ガーデン・ピアに比べれば小さなものですが、それでも大きな桟橋で、下を見れば浅くはない海が広がっています。
ここから先にあるのは、海だけです。
「マリー!」
呼ばれて振り返れば、息を切らしたジェフの姿がありました。
もうここには、隠れる場所もありません。あるのは海だけ――マリーが帰らなくてはいけない、海だけ。
ざあ、と波が声を上げます。それはすべてがうまくいかなかったマリーへの慰めの言葉だったのか、はたまた苛立ちと嘲りの言葉だったのか、判断はできません。
ただ、もう全てが終わってしまったのは確かでした。
「ごめん、なさい」
ついにマリーはジェフに謝りました。彼女のもとへ進もうとしていたジェフは、その突然の言葉に足を止めます。
それでもマリーは、ぽろぽろ泣きながら繰り返しました。
「ごめんなさい、ジェフ」
足の感覚がありません。見たところ、まだ自分はなんとか立っているようですが、立っているという感覚はおろか、足があるという感覚もありません。
足はなくなろうとしているのでしょう。本当はクラゲなのですから。ジェフと約束をしたところで、何も守れないクラゲ。沢山嘘を吐いて、なんとか取り繕ってきたクラゲ。
「秋にも来るって約束は、守れないの。私は、沢山、嘘を吐いたの」
クラゲになっては、喋ることもできなくなるでしょう。
だからその前に。せめて。
「本当に、ごめんなさい、ずっと、騙していて」
風が色鮮やかな花弁を運んできます。
もう、花桟橋祭りにも行けないのです。
「沢山迷惑をかけてごめんなさい。花桟橋祭り、行きたいって言ってくれたのに……行けなくて、ごめんなさい」
一歩、マリーは後ろへ踏み出しました。そこに桟橋はありません。
背から倒れるように、月色の髪の少女は海に落ちました。
夢の終わりです。最初こそ温かく心地の良い夢でしたが、最後は海の冷たさが現実を呼び戻します。
海の冷たさはマリーの心を締めつけ、けれども懐かしさも覚えます。
動かした手はもう人の形をしてはいなく、白い触手に戻っていました。
そして、桟橋から海を覗き込む少年の顔が。
ひどく驚いた顔は、まるで今目の前で起きたことを否定したいと願っているかのような、どこか絶望にも似たものを浮かべていました。
――彼の瞳に映っていたのは、一人の少女ではなく、しばらく姿を見せなかった巨大なクラゲでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます