03.フラワーナイトにて

 海の向こうから溢れ出る朝に、コラリリタウンは染まっていきます。淡いピンクの家々は朝日を受けてまさに薔薇のように輝き、爽やかな朝の海風は花々をくすぐり起こします。


 老夫婦は次の見るべきものへと向けて、この朝に旅立つのだと言います。別れたマリームーンは、ふらふらと街の中を歩き始めます。人間の手足なんてはじめてですから、慣れません。それでも少女となったマリームーンは目を輝かせて街道に出ました。


 人々が起き始め、街は活気を取り戻していきます。朝食を食べに行く者。朝から観光に向かう者。


 街道にある花屋はもう開いていました。店主が鉢植えの花に水をやっています。そのきらきら輝く様に、マリームーンも瞳をきらきら輝かせ足を止めます。他にも、いい匂いのするパン屋の前、観光客向けの案内板、道端の猫、あらゆるものにマリームーンは足を止めました。全てがはじめてのものですから。


 そして陸から見る海も、はじめてのものです。朝日を受けて輝く様は、海で見るものとまた違います。海風がとても心地よく、マリームーンは月色の髪をなびかせました。


「あっ、漁師のおじさん!」


 小さな船着き場が見えて、彼女は声を上げました。そこには、早朝に海へ見送った漁師の姿があったのです。どうやら今日も、調子がいいようです。


「今日も沢山穫れたのね! この時期は観光客がいつもよりいっぱいだから、沢山穫るんだって言ってたけど、本当にいっぱいね!」


 船へ近づき喜びに微笑むマリームーンに、ところが、漁師のおじさんは少しの間困ったような顔をしたのです。


「あ、ああ……そうだね。ごめんよぉ、キミは、どこのお嬢さんだったかな?」

「えっ? 私は……」


 そこまで微笑んで、マリームーンは口を閉ざします。

 もし、自分があの「マリームーン」だと言ったら、どうなるのでしょうか。魔法で少女の姿になった、そんなことを言っても、果たして信じてもらえるのでしょうか。


「ええと、お友達からおじさんのことを聞いたのよ! おじさん、それじゃあね!」


 とっさにマリームーンは嘘を吐きました。人間の姿になって、喋れるようになって、はじめての嘘でした。なんとか微笑みを作れば、転がるように船着き場から離れていきます。


(もし、私があのマリームーンだって言っても、なかなか信じてもらえないだろうし、そうなったら私はきっと嘘吐きの変な子だって思われちゃうわ!)


 少しどきどきしてしまいます。心地の悪いどきどきです。とたんにマリームーンは怖くなりました。どうにか、人間のふりをし続けなければならないのです、果たしてうまくいくのでしょうか。


 けれどもその不安は、行き違いに聞こえた観光客の声にかき消えます。


「フラワーナイト、もうお店開いてるよ!」

「花桟橋祭りを見てからにしようよ! ちょうどお昼時になると思うし」

「でもそれじゃあ、お店混んじゃわない?」


 思わずマリームーン振り返って、その二人の女の子を見ます。

 フラワーナイト! ジェフのお店です! そういえばそろそろ開店時間です。ぱっと笑みを浮かべて、マリームーンは歩き出します、フラワーナイトはこの先です。


 ついにジェフに会えるのです!


 開店したばかりだというのにフラワーナイトは混んでいました。店の入り口、マリームーンは勝手が分からずおろおろふらふらしていましたが、人の流れに乗って店に入ります。前の人が、店員につれられて席に向かっていくのに、うっかりついて行きそうになってしまいましたが、ここで待つのだと察します。


 そしてマリームーンのもとにやってきたのは。


「お待たせしました! いま、席に案内しますね」


 なんと、ジェフがやってきました。忙しいのか、髪はぼさぼさ、エプロンも少し乱れています。それを整えながら向かってくる彼に、


「ジェフ」


 マリームーンは思わず笑みを花開かせます。するとジェフはきょとんとした様子で顔を上げました。しまった、とマリームーンは思います。ジェフの名前を知らないふりをするべきだったのです。ところが、ジェフは。


「わあ、君、とっても綺麗だね! 月色の髪の毛に、目も海の色だ!」


 ジェフはかすかに頬を赤らめていました。しかし我に返って。


「あれ、君、どうして僕の名前を?」

「街で聞いたのよ! フラワーナイトで働いている男の子は、ジェフって名前だって!」


 マリームーン、二つ目の嘘です。ジェフは気付かず微笑みます。


「あはは、ばたばたしてるから、みんな噂してるのかな? じゃあ席に案内するね、こっちだよ!」


 ジェフに案内されて、マリームーンは二人用の丸いテーブル席につきました。


「ねえ、君の名前を教えてもらってもいい?」


 不意にジェフにそう尋ねられたものだから、マリームーンは一瞬慌ててしまいます。


「……マリー。私はマリーよ」


 三つ目の嘘、ではありませんが、そうマリームーン改めマリーはなんとか笑います。


「マリーか! 僕の友達の名前と同じだね、あの子はマリームーンっていうんだけど、もう見た? 大きなクラゲなんだ、君の髪と同じような色をした……」


 そこまで言って、ジェフははっとします。マリーはまたどきりとしてしまいますが。


「そうか! 君はマリームーンに似てるんだね!」


 どうやらやはり、クラゲが人になるなんて、誰も思わない様子です。

 ジェフはメニューを出し、このパンケーキが一番人気だと勧めます。それについては、マリーも知っていました。お店の様子は、いつも海から見ていましたから。マリーはそのパンケーキを注文しました。


 間もなくして、パンケーキが運ばれてきました。この街の名物の一つである、パンケーキです。満月のように丸いパンケーキは黄金色。薔薇の形に絞られたクリームに、エディブルフラワーも添えられています。とても可愛らしいパンケーキです。


 地上の世界に疎いマリーでしたが、ナイフとフォークの使い方は知っていました。フラワーナイトの様子は、見える範囲だけとはいえ、いつも見ていましたし、昔にジェフが練習していたことも覚えています。細く白い指で握って構えれば、まるでどこかの令嬢のおやつの時間のようで、マリーの美しさと可憐さにちらちらと彼女を見ていたギャラリーがさらにちらちらと見ます。


 とはいえ、ナイフとフォークの実践ははじめて。一口サイズに切るのは大変ですし、口に運ぶのだって、慣れない身体で一苦労。一度カチャン! と派手に音を立てることもありましたが、ついにマリーは、パンケーキを口に入れました。


「おい、しい!」


 はじめてのパンケーキは、海にあるどんな素敵なものよりも、ずっと素敵なものでした。マリーは鼻にクリームがついていることにも気付かず、この甘くておいしい地上のものを食べ進めました。


 しばらくして、近くの席の客が立ち上がります。


「ごちそうさま! とてもおいしかったよ! お代はこれでいいかな?」

「はい、ありがとうございます。どうぞ観光を楽しんで!」


 パンケーキを半分以上食べ進めていたマリーは、ぴたりと手を止めて、その客へ視線を向けます。その客は、テーブルに何かを置いていました。ちぎった海藻に似たぺらぺらのものと、貝殻のようなもの。


 お金!

 とっさにそれが何であるかに気付いて、マリーの顔は真っ青になります。


 そうです、人間の世界では、お店で何かしてもらったのなら、対価にお金を払わなくてはなりません。海の世界ではないものです。

 マリーはお金を持ってはいませんでした。当たり前です、クラゲがお金を持っているわけがないのです。


 パンケーキの優しい甘さはすっ飛んでしまいました。お金がないのに食べてしまった、それはとても悪いことです。徐々にマリーは震え始めます。そんな彼女に気付いたのは。


「どうしたのマリー、顔色悪いよ……口に合わなかったかな……?」


 皿を片づけていたジェフでした。顔を覗きこまれ、マリーはびくりとしてしまいます。


「ち、ちがうわ……とてもおいしいわ! でも……その……」

「どうしたの? 何か、困った?」

「……お、お金、が」


 一番悪いのは、何も言わずにここから逃げてしまうこと。マリーは正直に言うことに決めました。申し訳なさに、海色の瞳が波打ちます。


「お金が……なかった、の」

「お金がなかった? お財布、忘れちゃった?」

「そ、そうじゃなくて、ええと」

「じゃあ、お財布落としちゃった? あっ、この時期はスリも多いから、もしかして」


 不意にジェフが心配そうな顔をします。それでも微笑み直すのでした。


「お代はいいよ。お祭りだし、特別だからね!」

「い、いいの?」


 マリーはますます表情を不安に歪めます。悪いことをしたのは、スリなんかではありません。自分自身です。お金が必要なことを忘れて、ここに来てしまったのです。


「ごめんなさい……」

「謝らなくていいよ! そうだ、自警団に言った方がいいよ、自警団はこの店を出て右に進むと、大きな建物があるから」


 マリーは半泣きになりながらうんうんと話を聞き、それから店を出ました。


「本当にごめんなさい。お金、なかったのに」

「このことは気にしないで! それよりも、見つかるといいね、お財布」


 ジェフは慰めるように微笑みましたが、マリーの表情は暗いまま。彼に教えられた道へと歩き出しますが、結局自警団の元には行きませんでした。


 せっかくジェフに会えたのに、こんなことになってしまって。マリーはただ悲しくて、焦っていて、泳ぐように人混みの中を進んでいました。

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