2「そもそも立てない、かな」

 響香さんのバイトが終わる時刻を待ち、俺は生石荘の一つ下の階へ向かう。

 住んでいる建物は同じでも、違う部屋に足を踏み入れるのは緊張する。お隣JKこと、結菜の部屋に入った時は慌ただしかったこともあり、そんなに緊張しなかったけど。

 響香さんはバイト中に結んでいた髪を解き、一息つく。その仕草が何だか艶やかに感じて、俺はつい目を逸らしてしまう。


「今日も散らかっているけど、好きにくつろいでね」


 その言葉通り、台所には潰れた空き缶や酒瓶が置かれている。

 しかし荒れているのはそこだけで、全体的に片付いている方だ。強いて言えば、ベッドやテーブルに参考書がいくつか積まれている程度か。


「響香さん。またお酒の量、増えていないですか?」


「一人だと飲みすぎちゃうのよね。でも今日は、可愛い男の子が一緒だから大丈

夫!」


 そう言って響香さんはテーブルの脇に置いた袋から、缶チューハイを取り出す。


「ほらぁ、理人も飲んで? 二人でダメになっちゃえばいいじゃない! 明日はバイ

トも無いし、疲労はお酒で誤魔化すのだ!」


「誤魔化した結果、体調を崩しましたよね?」


「うっ……そ、その通りだけど。でもそのおかげで、キミと仲良くなれたわけだし!」


 俺と彼女は同じアパートの住人ではあったが、交流が増えたのはここ最近のことだ。

 会えば挨拶する程度の間柄。響香さんの働くコンビニで会っても、雑談や今日のような悪ふざけもしない関係だったのだが――。




 昨年の冬、俺がコンビニを利用した時のことだった。

 先月の電気代の支払いが遅れてしまったため、大急ぎで払込票を手にレジに向かうと、名札に『店長』と書かれた中年女性から声をかけられた。

 店長は、以前店内で挨拶を交わしていた俺のことを響香さんの友達だと思ったらしく、連勤で体調を崩した響香さんの様子を聞かれた。ここ数日、彼女と連絡が取れないのだと。

 俺は同じアパートの住人でしかないと告げたが、却ってそれが原因で押し切られるような形になってしまい、強引に見舞いの品を持たされてしまった。


「唐木田さん? 二階の浅生ですが、いらっしゃいますか?」


 アパートに戻って、響香さんの部屋のインターホンを慣らしてしばらく待つと、中からジャージ姿の彼女が出てくる。

 普段コンビニで会う、凛とした雰囲気は一切無い。おでこに冷却シートを貼って、怠そうな顔をしていた。


「あ……キミ、か。どうしたの?」


「店長さんから差し入れです。偶然、頼まれてしまって。……唐木田さん?」



 俺が言い終えるよりも先に、響香さんは玄関でしゃがみこんでしまう。


「ごめん、ちょっと辛くて。でも気にしないで。休めばよくなるから。早く体

調を戻してバイトに復帰しないと……いけない、のに」


 立ち上がろうとする響香さんだが、腕に力が入らないのか、何度試しても身体を起こすことが出来ない。

 俺は差し入れの袋を脇に置いて、靴を少しだけ脱ぐ。


「唐木田さん、嫌じゃなければ肩を貸します」


 そんな俺の言葉に、響香さんは小さく頷く。


「助かる、けど……ごめん。そもそも立てない、かな」


 とても弱っている響香さんが、顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をして、そんなことを言うから――。


「すみません、失礼します」


 俺は迷わず、響香さんの両足の膝裏と背中に手を回し、抱き上げていた。

 響香さんは一瞬「ひゃっ!」と声を漏らすが、抵抗はしなかった。

 じんわりと伝わる強い熱。荒い呼吸。響香さんを抱えて、彼女が相当無理

をしていたことを理解する。

 俺はゆっくりと響香さんをベッドに運び、その身体を下ろす。


「ありがとう、浅生君」


「店長さんに聞きました。唐木田さん、バイトの穴埋めとか、たくさん無理を

していたみたいじゃないですか」


 俺の言葉に響香さんは苦笑して、困ったように目を逸らす。


「人の為に頑張るのは素敵です。だけど体調を崩したら……」


「元も子もない、よね。年下の子に叱られるなんて、ダメなお姉さんだなぁ」


「あ、いや! 俺は叱ったわけじゃなくて! ただ、心配で」


 一人ぼっち。それは一人で暮らしていく以上、当たり前の言葉だけど。

 何か良い言葉を返せないだろうかと思考して、結局俺は曖昧に頷くだけだ

った。

 だけど響香さんは小さく笑って目を細め、言葉の続きを口にする。


「だから、困った時はキミに助けてもらおうかな。これからもよろしくね」


ご近所同士の助け合い、と言った響香さんはほどなくして眠ったようだった。

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