第52話 次期当主は俺なわけだし

「ちょっと待てって!」


 普段身体なんて動かしていないはずだというのに、アイリーンの足は思いのほか速かった。

 クラウスはアイリーンの背中を追う。

 カーティスに促され飛び出してきたが、まだ頭を整理できないでいた。


 アイリーンが飛び出したから俺は追いかけているんだけど。

 そもそもはなんで飛び出したのか、っと。


 駆け足のまま反芻する。


『わたくしのこれは言ってはいけないの。……クラウスを愛しているという戯言など』


 とんでもない言葉を聞いた気がする。

 けれど、戯言だという言葉も気にかかる。

 戯言なのか、それとも本音なのか、クラウスには判断できない。


 ううーんと唸りながら駆け足を続けていると、前を走る長髪がぐるりと回った。


「あなたねえ! 追いかけてくるならいい加減に止めなさいよ! あなたにとって簡単でしょう!?」


 肩で息をしながら、アイリーンはクラウスをきっと睨んだ。

 美しい顔は、凄みを増してさらに美しくなる。


「どう言って止めようかなと悩んでてだな。っていやいや、待てって言ったのに止まらなかったのはお前だぞ」

「それは察しなさいよ。乙女心を! あなた、そういうの得意でしょう!」


 アイリーンにならい、クラウスも足を止めた。息はまったく乱れていない。


「……乙女心を知っているとは意外だったな」


 アイリーンは今にも舌打ちが聞こえてきそうな顔である。


 こういうところが駄目なんだろうなあ。


 アイリーンが相手では、ついつい言い過ぎてしまうのだ。甘えきっているのだとは理解しているのだけれど。

 情けなさに顔を歪めたところで、アイリーンは冷静さを取り戻していた。


「……ふう、まったくノックもせずに入ってくるなんて、一体どういうつもりなのかしら。あなたがどこから聞いていたのかわからないけれど、聞きたいことがあるならどうぞ」


 なんでもない顔で問われれば、何を聞けばいいのか迷ってしまう。

 アイリーンの口から自分に対して『愛している』という単語が出てくることも驚いたが。

 少し考えて、口を開く。


「どうして言ってはいけないんだ?」


 どうせ結婚する関係だ。

 愛していなくても問題ないが、愛していたとしても問題はないのである。


 クラウスは真面目な顔で問う。そこには照れも甘さも無く、アイリーンは小さく落胆したのだが、クラウスは気づかなかった。


「……こんな形で気づかれてしまうなんて思っていなかったけれど、もう卒業が近づいてきているし、そろそろ限界だったのかもしれないわね。いいわ、クラウスには話しておきましょう。……それを信じるか信じないかは自由だけれど」


 そして語り始める、クラウスがウドルフに刺されそうになった事件。

 その発端となったのは自分の何気ない言葉だったのだ、と淡々と語るアイリーンの目に光はなかった。


 そんなアイリーンをこれまで見たことがなかったから、クラウスはあっさりと信じることにした。

 と同時に怒りも沸く。


「わかった、信じるさ。本当にろくなことをしないな、あいつは」


 そう簡単に思わせるだけの前科がウドルフにはあった。

 クラウスが剣を向けられたのはそれが初めてではなかったのだ。


 さすがに鞘付きの剣だったが、ことあるごとに襲われていた。アイリーンとの婚約が発表される前からだ。

 逃げ回っているうちに、クラウスはすっかりと避けるのが上手くなってしまった。


 しかしそんなことを言うつもりはない。アイリーンの心配と不安を増やすだけである。


「この間、カーティスとも少し話してたんだがな、ウドルフはたぶん俺を恨んでるんだ。自分が後継者になりたかったんだと思う。だから余計に俺の婚約者になったアイリーンに執着してる。俺ばっかりいい思いして、ってさ。ま、憶測でしかないが、けっこういい線行ってると思うんだよ。だから何もアイリーンのせいじゃない」

「……そう言ってくれるのをわかっていながら話したわたくしは、ずる賢いというのでしょうね」


 いつもの自信に満ち溢れた姿はすっかりと隠れてしまっている。

 ウドルフがアイリーンをこんな姿にしているのかと思うと、許せそうになかった。


 自分が好きだって言った相手を目の前で殺されそうになったら、そりゃあトラウマだろ。

 もう二度と好きなやつなんてできないかもしれないし、できたとしても言えなくなる。

 辺境伯様がたまたまいてくれたから多少良かったのかもしれないが。


 それにしても自分が好きな女性を恐怖で従わせるのか、ウドルフは。

 信じられないな。


 自分の兄を心から軽蔑した。剣をクラウス自身に向けてきたときはそう感じなかったのに。

 そして、これまで気づかなかった自分も忌々しい。


 生まれたイラつきを隠すように、早口で言った。


「ウドルフにはしばらく俺たちから離れてもらおう」

「え?」

「さいわい、次期当主は俺なわけだし、ウドルフがいつまでも家にいなければならない理由もない。それに俺にはその権限もある」


 そうだ、そうしよう。

 努めて軽い口調で言えば、アイリーンは戸惑った。その目にはようやく光が戻る。


「ちょっとお待ちなさいよ。そんなことをすればウドルフ様とは」


 ウドルフとは決別することになるだろう。

 しかし相容れない人間なのだとわかってしまえば、惜しくもない。


 クラウスの固い意志を感じ取ったのか、アイリーンは一度口に手を当て、一呼吸。

 その後、諦めたように、けれど縋りつくような視線を向ける。


「……そんな権限をむやみに使って、ウドルフ様もいなくなってしまえば、次の当主はクラウスよ。あなた、当主になるつもりはないって言ってなかった……?」


 気遣うような言葉を受け止めて、一つ頷く。


「別にいいんだよ。そんなのはもう」


 クラウスはどこか吹っ切れたように、楽しそうに笑った。

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